鎌倉大仏って何? 鎌倉大仏の大きさ(高さ)・特徴・歴史をご紹介!

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鎌倉大仏って何? 鎌倉大仏の大きさ(高さ)・特徴・歴史をご紹介!

鎌倉に多数ある観光スポットの中でも、抜群の知名度と人気を誇るのが、鎌倉大仏です。

でも、あなたは、この鎌倉大仏について、どれくらい知っているでしょうか?

以下では高徳院・鎌倉大仏さんの大きさ(高さ)や特徴・歴史と、併せて東大寺の大仏さんとの様々な比較についてご紹介しています。

高徳院・銅造阿弥陀如来坐像(通称・鎌倉大仏)【国宝】

「鎌倉大仏」というのは、「奈良の大仏」に対する通称で、正式には「銅造阿弥陀如来坐像」と言います。

この大仏は高徳院という浄土宗のお寺のご本尊です。

長い歴史があり、知名度も高い鎌倉の大仏は、奈良の大仏と並び称される日本の代表的な大仏です。

また、鎌倉の仏像の中では唯一、国宝に指定されている、貴重な文化財でもあるんです!

鎌倉大仏の大きさ(高さ)など

造立年

  • 不明
  • 推定:1243年(寛元元年)※鎌倉時代中期
像高(仏像のみの高さ)

  • 11.312m
台座

  • 2.05m
台座を含む高さ

  • 13.39m(尺貫法では約4丈)
顔の長さ

  • 2.35m
目の長さ

  • 1.00m
眉毛の長さ

  • 1.24m
口の長さ

  • 0.82m
耳の長さ

  • 1.90m
親指まわりの長さ

  • 0.85m
白毫(びゃくごう)の直径・高さ

  • 直径0.18m
  • 高さ(前に飛び出た長さ0.15m)

白毫とは、眉間にある丸い部分で、本来は渦巻型の白い毛です。

螺髪(らほつ)の直径(横の長さ)

  • 0.24m

螺髪とは、仏像の頭の突起で、渦巻型をしています。

1体の仏像の螺髪は、すべて同じ大きさです。

螺髪の高さ

  • 0.18m
螺髪の数

  • 656個
膝間の長さ

  • 9.10m
仏像の重さ

  • 121 t
国宝指定登録年月日

  • 1958年(昭和33年)2月8日
国の史跡登録年月日

  • 2004年(平成16年)2月27日

※史跡名は「鎌倉大仏殿跡」

鎌倉大仏さんの直立した時の長さは??

座高:11.312m
膝下:4.55m
腿:4.0m


合計:19.862m

大仏さんの膝下の長さは9.10m。腿は膝下より短いことを想定。(黄金比は5対3)

鎌倉大仏の大きさ(高さ)を何かに例えた場合

直立した高さの場合:(19.862m
  • ビル:およそ7階〜8階に相当
  • マンション:6階〜7階に相当(1階部分を約3mで計算)
坐像の高さの場合(11.312m)
  • ビル:およそ7階〜8階に相当
  • マンション:6階〜7階に相当(1階部分を約3mで計算)
  • 電柱:約1本分
  • 路線バス:約1台分(全長)

大仏さんの高さをあの人と比較!

大仏さんの身長を、大きい人と比較したい・・大きい人・・巨人・・

ウルトラマン!

ということで、勝手にウルトラマンと比較してみます。

実は、ウルトラマンの身長はキャラクターごとに違い、概ね40m~60mほどなのですが、中には身長80mのウルトラマンもいます。

一番小さい初代・ウルトラマンセブン・ウルトラマンエースなどの身長は40mということなので・・

  • 奈良の大仏の身長:ウルトラマンよりも約10.0m低い
  • 鎌倉の大仏の身長:ウルトラマンよりも約17.4m低い

という結果でした。

鎌倉大仏の別名

この鎌倉大仏は正式名を「銅造阿弥陀如来坐像」と言いますが、ほかにも「8丈大仏(はちじょうだいぶつ)」とも呼称されます。これは奈良の大仏さんの「10丈大仏」を基準として「8丈大仏」と呼びなわらしたものです。

余談ですが、この「8丈」は鶴岡八幡宮の「八幡宮」の「八=8」に通じたものとされ、鎌倉武士たちの間では「8」という数字は大変、縁起の良いものと信仰されるようになっています。


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ところで・・鎌倉大仏さんのご利益は?

阿弥陀如来は、仏の教えを信じ、南無阿弥陀仏の念仏を唱えた人に、来世の極楽往生を約束してくださる仏さまです。

鎌倉大仏の手の組み方(印相)は「上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)」といい、この印相の阿弥陀如来は、生前によく勉強し、良い行いを積んだ人が死ぬ時に迎えに来てくださる如来さまだと言われています。

したがって、鎌倉大仏にお参りしたことによるご利益は、「極楽往生」で、転じて「健康長寿」などとも言われています。

ただし!

「良い行い」がポイントですよ!

鎌倉大仏の特徴

阿弥陀如来は、浄土宗や浄土真宗の本尊で、念仏を唱え精進する者は極楽往生できるという教えを説く仏さまです。

華厳宗の盧舎那仏(るしゃなぶつ)である奈良の大仏とは、印相(いんそう)と呼ばれる手の組み方が違うのがわかるでしょう。

この印相こそが鎌倉大仏が「阿弥陀如来」であることを位置づける決定的な証ともいえます。

材質は青銅で、像が造られた当初、表面は金箔で覆われていました。

体は7段、頭は前が5段、後ろが6段に分けて鋳造されており、像の外からでも中からでも、継ぎ目を確認することができます。

髪(螺髪/らほつ)の特徴

大仏の頭髪は巻毛状態(螺髪/らほつ)になっています。仏には毛上向相(もうじょうこうそう)と呼ばれる相があります。

意味は全身の毛という毛の先端がすべて上になびき、右に巻いています。この様相を俯瞰し、命名されたのが「螺髪」という呼称です。

ちなみに鎌倉大仏の螺髪は合計656個あります。ウフ

頭の特徴(肉髻/にっけい)

大仏の頭には螺髪の他に、肉髻(にっけい)と呼ばれる、螺髪より大きく突き出た突起が1つあります。

もっと分かりやすくいうと頭の頂上にある飛び出た部分です。

これら仏には三十二相において「頂肉髪相(頂髻相)」があるとされており、仏のみが備えた特徴の1つです。

釈迦如来像を始め、如来像に表されることが多く、悟りを開いた、超人的な者の象徴とされています。

ただ、鎌倉大仏の肉髻は、平たいのが特徴です。

顔の形状の特徴

顔の特徴として四方に向けてやや直角気味に造像されています。

このように身体に比べて頭が大きめなのは、鎌倉時代に流行した仏像の特徴です。

さらに肉付きが良く、お肉プヨプヨタプタプぅ・・感、満載!で造像されています。

このような造像方法は、日本独自のものではなく中国・宋からもたらされた造像方法ではないか?・・と、いった可能性も示唆されています。

「可能性が示唆される」とはどう言うことかといいますと、この阿弥陀如来坐像に関しての古文書・資料などはすべて紛失されており、造立年、造立された目的、発願者、当初からこの場所にあったのか?・・などが一切、不明となっています。

ただ、ここで宋の造像方法が浮き彫りになってくると面白い景色が見えてきます。

面白い景色とは「奈良 東大寺の大仏と繋がり」です。東大寺の大仏には中国の技師が造像に携わっています。

しかしまぁ、大きく誰の目にもつく大仏であるのに、謎に包まれているというのも、なんとも滑稽なお話で口にし難いほど興味がそそられます。そうめん食べたい

白毫相(びゃくこうそう)※眉間

頭の螺髪や額の白毫は、本来は渦巻状の「毛」なので、よく見ると渦模様が付いています。

この渦巻きの毛は「右巻き」になっており、かためられています。これを伸ばすと1丈5尺(約4.5メートル)あるとされています。鎌倉大仏の白毫は白銀製です。

高いところに付いていますので肉眼で確認するのは少々、困難です。ポケットグラス(望遠鏡)やカメラのズーム機能などを使って見てみてください。

眉毛の特徴

鎌倉大仏の眉毛は半月状で造立されています。

仏の八十種好においては、眉毛は長いとだけあります。

目の特徴

大仏の目は水平で参拝者と目が合うように目は下向き状の伏し目になっています。

仏の三十二相において「眼」については「真青眠相(しんしょうがんそう)」です。

真青とは、青蓮華(青色の蓮華)のように仏の目が青いことを意味します。

耳の特徴

頭部の長さの半分ほどある長い耳は、鎌倉大仏の特徴の1つです。

耳の穴のようなくぼみがある耳たぶは俗に福耳と呼ばれるものです。仏の八十種好で紹介されるものです。

仏の好相は耳については特に述べられていません。

鼻の特徴

仏には80種類もの好相があるとされ、大仏像の鼻筋も額から通っており、鼻孔はあるが直下から見上げないと見えなくなっている。

また、正面から鼻の穴が見えないような鼻の形は仏の特徴とされます。

喉の特徴

のどには如来の特徴である「三道」と呼ばれる3本のくびれがあり、如来が悟りを得るまでの3つの段階を表しています。

口の特徴

大仏の口はスケベったれな半笑い(微笑み)を浮かべていますが、外国人(特に欧米人)から「東洋の微笑」とも呼ばれ讃えられています。

ヒゲが口元に生えており、風説では鎌倉大仏の特徴として語られているようですが、これは大きな間違いで鎌倉時代以降に造立された仏像であれば口元におヒゲが付けられていることが多いです。

  • 0.82m

手の特徴・印相

鎌倉大仏は、手を膝の上に置き、親指から中指までを合わせて輪を作っています。

これは、「上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)」と呼ばれる印相で、阿弥陀仏の9種類ある印相「九品来迎印(くぼんらいごういん)」のなかでも最も格の高いものとされています。

ちょっと大仏が組む印をよくご覧になってみてください。人差し指が変形しており、人差し指の上に親指が乗っていないことになります。すなわち正しく印が組まれていないことになります。

一説では「この変形のために御堂が建てられなかった」という俗説まであるようです。

上品上生印とは?

上品上生印とは阿弥陀が組む印相(九品)の最上の印相のことです。

この大仏は慈悲と智慧の象徴たる瞑想像として造立されています。

阿弥陀如来の「九品来迎印」

上品上生(最上)
上品中生
上品下生

中品上生
中品中生
中品下生

下品上生
下品中生
下品下生(最下)

阿弥陀如来に崇敬を寄せることで、死後、上記のいずれかの印相をした阿弥陀如来が迎えに来てくださると云われております。

これらは自らの人生における口説く・・あイヤイヤイヤ、「功徳」!!の、度合いによるものだと云われております。

縵網相

縵網相とは「水かき」のことです、手を組んでしまっているのでよく見えませんが、仏さまの特徴である、縵網相(まんもうそう)という指の間の水かき状のものもあります。

よく見ると大仏の人差し指と親指の間を見れば狭くなっているのが分かりますが、これが水かきなのでしょう。

身体全体の特徴

この大仏は肩幅が広く下半身が小さい姿で造立されていますが、実は仏像の相には身広長等相という特徴があり、体躯のタテ寸、ヨコ寸、左右寸、上下寸は長さが等しいとされています。

しかし、この鎌倉大仏のようにこのような長さが等しい仏像はほぼ皆無です。

猫背姿の理由とは?

上述したようにこの大仏はかつては大仏殿という堂舎にて奉安されていたことから、参拝の折、参拝者が見上げて参拝することを想定して造立されています。

したがって、下向きの目線もそうですが、座る姿勢もやや前のめりの、いわゆる「猫背」姿で造立されています。


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鎌倉大仏は遠近法を用いて造立された??

上述したようにこの鎌倉大仏は上体(上半身)が下半身よりも幅広で造立されています。中でも頭部は身体全体を俯瞰してみても割合的に大きく作られており、それに加え、座高が通例の約4分の一短い分量で造立されています。

全体的な形状としてはやや不均等と言えます。一説には遠近法を採り入れて造立されたと考えられています。

鎌倉時代に造立されたものが今日に見られる鎌倉大仏であるならば、相当、腕利きの仏師だったのでしょう。オホ

背中の窓は何のために作られた?開いている理由とは?

鎌倉大仏の背中には、2つの窓が開いています。

これは大仏を鋳造する際、中に残った土や型を取り出すためのものでした。

結果的に、現在は胎内拝観をする人のための明かり窓のような働きをしています。

胎内拝観に関して詳しくは、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

関連記事: えぇっ!鎌倉大仏の中に入れる!?鎌倉大仏(高徳院)の大仏胎内拝観「拝観時間・拝観料など」について!

鎌倉大仏の歴史(年表)

鎌倉時代

  • 1238年(暦仁元年) 僧、浄光によって大仏殿建立のための勧進が始められる
  • 1243年(寛元元年) 「木造」の大仏の開眼供養が行われる
  • 1247年(宝治元年) 初代・木造の鎌倉大仏が大風で倒壊する
  • 1252年(建長四年) 「金銅(銅造)」の大仏の鋳造が始まる
  • 1335年(建武二年) 大風により大仏殿が倒壊する

初代・鎌倉大仏は1238年に源頼朝の侍女であった「稲多野局(いだののつぼね)」が発願し、僧侶・浄光が大勧進に就き、勧進(浄財集め)を行い造立された仏像(大仏)だと伝えられています。

しかし、当初の鎌倉大仏は現在のような銅製ではなく木造だと云われ、1238年(暦仁元年)に着工が開始され、約5年後となる1243年(寛元元年)に完成を迎えています。

その後、1243年に開眼供養が執り行われましたが、以来、時代を下る過程において原因不明により喪失しています。(一説には1247年の大風が原因とも)

その代わりに造られたのが現今に見られる2代目の鎌倉大仏です。

北条得宗家の正史「吾妻鏡」によれば、2代目の鎌倉大仏は再び浄財が集められて、1252年(建長4年)に銅造で鋳造されており、鎌倉大仏を覆う屋根も据えられ、つまりは東大寺大仏殿ほどの豪壮感は無いにしろ、一応の「大仏殿」が造営されたようです。

この大仏殿の大きさについては平成12年に境内で実施された発掘調査で明らかにされおり、桁行(横寸)145尺(約44m)、梁行(たて寸)140尺(約42.5m)もの五間裳階屋根(もこし)付きのクソデカい大仏殿であったことが判明しています。

ただ、この2代目鎌倉大仏についても、鋳造が始まった記録はあるものの、完成年や当時の鎌倉幕府がどのように関わったのかは判然としていません。(一説では鋳工の大野五郎右衛門と丹治久友とも)

それと、当寺に伝来する古書物の内容では、2代目の鎌倉大仏が造立された当初、現今の「阿弥陀如来」ではなく、「金銅釈迦如来像」という名前で造立されたようです。

完成時期についても、この史料を分析した結果によれば1268年(文永5年)までには完成していたと考えられています。

鋳造に際しては、原型となる像があったはずですが、作者や、原型がその後どこに行ったのかなども不詳とされています。

室町時代

  • 1334年(建武元年)大風を受けて大仏殿が倒壊する
  • 1369年(応安2年) 大風を受けて大仏殿が再び倒壊する
  • 1495年(明応4年) 大地震により再び大仏殿が倒壊!

上述の大仏殿は、初代大仏の完成に合わせて建立されていますが、記録上、過去に3回倒壊しています。

1334年(建武元年)と1369年(応安2年)の大風については、作者・成立年代不詳とされる古書物「太平記」の記述に見えるものです。

1498年(明応7年)に起こった大地震については、「鎌倉大日記」に以下のような記録が明瞭に残されています。

『明応4年8月15日(1495年9月3日)に大地震が発生。由比ヶ浜から参詣道に津波が押寄せ、溺死者200余名。高徳院の大仏殿は破壊された。』

つまり1495年(明応4年)より、現今に見られるような屋根のない露座(ろざ/野外で放置)状態の大仏さんだったことになります。

室町時代になると鎌倉幕府が滅ぼされ、京都に首都が移ります。鎌倉は賑わいを失い、大仏殿再建のための幕府の全面的なバックアップも期待できなくなったのかもしれません。

ただ、奈良の大仏とは違い、大仏自体が焼け落ちるなどして損失したことはないようで、現在も鋳造当時とほぼ同じ姿が見られています。

江戸時代

  • 1712年(正徳2年) 祐天上人、浅草の商人「野島新左衛門」により鎌倉大仏が修復される
  • 1737年(元文2年) 養国上人(高徳院住職)によって開眼供養が執り行われる
  • 1859年(安政六年) 横浜港が開港する

露座となってしまった鎌倉大仏は雨風にさらされることになったため劣化が生じ、その姿を嘆いた浅草の商人「野島新左衛門(泰祐)」が1712年、同寺に喜捨(きしゃ/金銭の寄付)を行い、その思いを受け継いだ祐天(増上寺第36世法主)が発願して大仏修復が行われています。

1737年には当時の高徳院住職である養国によって開眼供養が執り行われています。

1859年(安政六年)になると、横浜港が開港され、横浜に外国人居住区ができます。

この当時、外国人が自由に出歩ける範囲は限られていたため、居住区から近い鎌倉は人気観光地となり、並行して鎌倉大仏も有名になったのです。

大正時代

  • 1923年(大正12年) 大地震により台座が崩れ、大仏が前方へ傾く
  • 1925年(大正14年) 台座の補強工事

1923年には関東大震災が関東地方を襲います。この地震によって鎌倉大仏はなんと!前方に傾いてしまいます。

その後、すぐに修理が執り行われますが、この時にぬぅあんとぉぅ!頬(ほほ)やアゴの部分から、わずかですが”金箔”が発見されています。

つまり、造立当初に金箔が施されていたという事実は、この時の修理の際に発見されたことになります。

1925年(大正14年)には台座の補強工事が執り行われており、大仏を台座に固定する耐震構造の修復が行われています。

昭和時代

  • 1960年(昭和35年)〜1961年(昭和36年) 再び耐震補強工事が行われる

1960年(昭和35年)〜1961年(昭和36年)には、強化プラスチックで頭部を支える部材の補強がなされています。その他、上記、大正時代で行われた修理箇所を改めて補強しています。

この工事により、万が一の大地震の際には、台座から仏体が離脱できる免震構造が取り入れられています。

なお、このような強化プラスチックを用いた台座と仏体が離れるような免震構造を文化財に取り入れたのは前例がなく、すなわち日本初ということになるようです。ウフ

えぇっ?!鎌倉大仏の台座は実は蓮の台座だった?!

これはあまり知られていないようですが、本来鎌倉大仏の台座には「蓮(はす)の花」が据えられる予定だったそうです。

ただし、創建年当初からこの蓮が存在してわけではなく、江戸時代中頃に執り行われた改修(修復作業)の際、新たに台座に蓮の花ビラが据えられる予定でした。

この蓮の花は合計で約32枚制作されていますが、本来はまだ制作される予定だったようで寄進者を募っていたようです。

しかし、蓮の花ビラ1枚に対して予想外にお金がかかったようで、思ったより寄進者が集まらず、計画は途中で破断してしまいます。

つまり32枚でストップしてしまったわけです。

ちょっと大仏さんの背後を見てみてください。

なんと!まだ江戸時代の当時に制作された巨大な蓮の花ビラが4枚だけ残っているじゃ、ア~りませんか!

 ⬆️この1枚のみ般若心境?と思われるお経が書かれている

よく見ると寄進者の名前もウっすぅ~らと、刻まれているのが分かります。

⬆️他の3枚は「土地の名前」や「講中」という文字が見えることからこれはおそらくその地域のグループで寄進したものと思われる


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さらに、えぇっ?!鎌倉大仏は中国銭で造像されていた?!ホント??

実は、こんな話があります。

「鎌倉大仏は中国の小銭を溶かして鋳造された」と・・。えぇっ?!

話は変わって、日本にはもう1つ有名な大仏があります。

どこだかお分かりですね?

まさか知らないとは言わせませんよ。

知らないといったら・・コチョコチョします!..コチョコチョ.コチョコチョ..コチョ?

はい。 と、言うわけでその大仏とは・・そうです。

奈良・東大寺の大仏」です。

東大寺の大仏は日本中で材料が集められて造像されています。

しかしなんと!この鎌倉大仏に関しては、「中国の小銭が使用された形跡が残っている」のです。

その根拠とは、なんと!奈良大仏と鎌倉大仏に使用された材料を分析した結果になります。

奈良・東大寺の大仏さんには「鉛が1%程度」混合されていたことが明らかにされました。

しかしなんと!鎌倉大仏の方は「鉛の混合率が10%以上」もあることが明らかにされています。

鎌倉大仏に鉛が使用された深い理由とは

実は日本は平安期の末期、銅が採掘できなかったようです。

そこで中国から銅を仕入れたのではなく、銅銭(通過)を買い取っていたそうなのです。

現にこの頃の日本の通過は銅貨から鉛を使用した硬化へ変わっています。

一部、銅貨も使用されていたようですが、硬化が小さくなっています。

このようにして、時代背景を汲み取ることで面白い事実が浮き彫りになってきます。

ご興味の湧いた方は、是非!奈良と鎌倉の双方へ訪れて表面を見比べてみてください。

まぁ、表面だけみて違いが分かるのかは不明ですが。オホ

鎌倉大仏が作られた理由とは?

鎌倉に幕府が置かれて、事実上、日本の中心となった鎌倉時代、当時は神仏習合が進み、仏が一切の衆生を救済するために「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」、いわゆる仏が神の姿になって衆生するというような説まで生まれています。

さらに鎌倉幕府が庇護し幕府の守護神と位置付けられた鶴岡八幡宮の御祭神「八幡神」の本地仏(ほんちぶつ)、いわゆる本地垂迹に則った姿は「阿弥陀如来」と考えられており、これに信仰心の大きさを表現したものが巨大な阿弥陀如来坐像、いわゆる鎌倉大仏になります。

他にも幕府は日本全国に権力や威信を見せつけるために、あえて巨大な大仏を造立したとも考えられています。

鎌倉武士たちが創造した浄土信仰

鎌倉時代の武士たちを中心とした人々は、戦乱が続く様相を阿修羅が住まう「修羅界(しゅらかい)」に例えていました。修羅界とは人間界のまだもう1つ下の世界で、休まることなく常に他人と戦っている世界です。この様相はある意味・・地獄もよりも最悪です。

当時の人々は現世の戦乱続きの在り様を修羅界に例えたのでしょう。

しかし当時の人々は、その修羅界から極楽浄土(西方浄土)へ連れ去ってくれるキーマンとして「十一面観音菩薩」を信仰していました。

浄土信仰(阿弥陀信仰)
  1. 人は死した後、まずは閻魔大王(十王)の前に連れて行かれて裁きを受ける。
  2. その後、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)で輪廻する。
  3. その六道から救済してくれのが十一面観音菩薩。
  4. 十一面観音に救済されたものは、さらに阿弥陀如来に導かれて「箱根山」の後方に広がる「阿弥陀如来の西方浄土」に往生できると考えた。

そこで鶴岡八幡宮の西側に位置する長谷寺に「十一面観音菩薩」を据え、さらに閻魔大王を祀る「十王堂」を建立します。その十王堂と鶴岡八幡宮の間に鎌倉大仏を据えて、一種の西方浄土の様相を創造しました。

当時の人々は鎌倉の遥か西の霊峰・箱根山の後方に阿弥陀如来の極楽浄土が広がっていると考えていたようです。

これが今日にまで受け継がれた鎌倉の様相です。

なお、十王堂は現在は廃寺となって存在しておらず、現在は「十王堂橋」という名前の橋だけ現存しており、かつての十王堂が確かに存在した名残を今に伝えています。

比較できた!!「東大寺の大仏さんと鎌倉の大仏さんの違い」

鎌倉の大仏さんと、東大寺の大仏さんを見比べて、比較する人は数多くいます。

その理由は人間の性(さが)というものですね。

ズバリ!「知りたくなる」からです。

奈良の大仏と鎌倉大仏の「大きさを比較!!」東大寺の大仏さんと鎌倉の大仏さんてドチラが大きい??

そこで、2つの大仏さんの、大きさや見た目の特徴の違いを比較してみました。

名称鎌倉奈良
像高11.31m14.98m
台座2.05m3.05m
重さ約121トン約250トン

奈良の大仏さんの像高(座高)は、鎌倉の大仏さんの約1.33倍、台座も入れた高さは、約1.35倍です。

鎌倉の大仏さんの中は空洞なので重さは控えめで、奈良の大仏さんの方が約2.1倍の重さとなっています。

大仏さんが立つとどれくらいの大きさになるの・・?

奈良の大仏さんも鎌倉の大仏さんも坐像ですので、像高=座高ですが、もしも!もしも立ったら!どれくらいの大きさになるでしょうか?

像によって個性はありますが、一般的に、坐像は、立像の半分ほどの大きさで造られます。

したがって、2つの大仏さんの身長は、以下のように想定されます。

  • 奈良の大仏の身長:約30.0m
  • 鎌倉の大仏の身長:約22.6m

鎌倉の大仏さんは奈良の大仏さんに比べてやや猫背気味なので、身長はもう少し高いかもしれませんね。

視線が異なる

奈良の大仏の視線は水平方向に遠くを見つめていますが、一方で鎌倉大仏は参拝者の顔と目線が合うように、目線がやや下向きに設定されています。

この違いは時代の変遷によって宗教観が変わってきたのと、その時代の世情が反映されているものと言えます。

奈良時代は天皇中心の時代で国家鎮護のための大仏でしたが、武家が支配した鎌倉時代は「極楽浄土(阿弥陀如来の西方浄土)」という概念が生まれ「祈れば極楽へ行ける」などといった「ひたすら祈願する」といった信仰が露わになったものだと位置付けることができます。

螺髪の数が違う

東大寺大仏さんの螺髪の数は996個492個(2015年12月2日に判明)!

鎌倉大仏の螺髪の数は656個なので鎌倉大仏の方が164個、多いことになります。

螺髪の巻き方向

  • 東大寺の大仏:右巻き
  • 鎌倉の大仏:左巻き

手の形(印相)が違う

鎌倉の大仏さんの手の形、いわゆる「印相(いんそう)」は、鎌倉大仏が「阿弥陀定印」、奈良の大仏さんが「施無畏与願印」をしているという違いあります。

「阿弥陀定印」とは、「上品上生印」と呼ばれるもので「親指と人差し指で輪」を作っています。

⬆️上品上生印

「施無畏与願印(せ むい よがんいん)」とは、右手が「施無畏印」=手のひらをコチラに見せてる手で、左手が「与願印」=「手を下ろし手のひらを上」に見せています。

⬆️施無畏印

⬆️与願印


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仏さまとしての名前が違う

鎌倉大仏と奈良の大仏さんの大きな違いの1つは、根本となる仏の名前が違うということです。

  • 鎌倉の大仏さんは「阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)」
  • 東大寺の大仏さんは「盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)/大日如来」

鎌倉大仏が盧舎那仏ではなく、「阿弥陀如来」とされた理由は、鎌倉幕府の守護神とするためです。

宗派が異なる

鎌倉の大仏がある「高徳院」は「浄土宗」
東大寺の大仏のある「東大寺」は「華厳宗」

安置場所

  • 東大寺の大仏:建屋の中(大仏殿に安置)
  • 鎌倉の大仏:野外(以前は建屋があったそうです)

造られた目的

  • 東大寺の大仏:国家鎮守・安寧を祈願して
  • 鎌倉の大仏:不明

姿勢

  • 東大寺の大仏:背筋を張っている。目線は正面を向いている。
  • 鎌倉の大仏:やや猫背。目線は下向き。

⬆️真横から見ればやや猫背のが分かる(というよりは頭が前ぎみに付いている?)

世界遺産登録

  • 東大寺の大仏:世界遺産登録されている
  • 鎌倉の大仏:未登録

大仏の中身に関して・・

  • 東大寺の大仏も鎌倉の大仏も中身は空洞になっています。
  • しかし、鎌倉の大仏は中身を見学することができます。(見学料金:20円)

東大寺の大仏に関しては当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。

 関連記事: 奈良県・東大寺の大仏の「大きさ(高さ・重さ)・名前・歴史・特徴」(画像・写真付き)

えええっ!?鎌倉大仏にガムが付いていたって本当!?

2016年、鎌倉大仏の大規模な調査が行われました。

この調査は、大仏さまの状態を調べる「健康診断」のようなもので、調査の結果、深刻な劣化などはなく、健康状態は良好とのことでした。

しかし!

別の問題がわかったのです。

それは!

鎌倉大仏の胎内の100か所以上に、「ガム」がこびり付いていた・・というのです!

ガムは固くなっていたため、手術用のメスを使って削り取ったそうです。

さらに、チョークや油性ペンを使ったと思われる落書きも確認されています。

これらは、どうやら、胎内拝観をした人が残して行ったものらしいのです。

なんと罰当たりなことでしょう。

「ありがたい大仏さまをより身近に感じてほしい」というお寺のご厚意で続けられている胎内拝観ですから、訪れる私たちも、鎌倉大仏の歴史や、大仏さまを信仰してきた人々の思いを、大切に受け継いでいきたいものです。

高徳院の概要

  • 正式名称:大異山 高徳院 清浄泉寺
  • 宗派:浄土宗
  • 創建年:不明
  • 開基:不明
  • 開山:不明(一説に、法然上人)

高徳院の創建についてはあまりわかっていません。

大仏が造立された後、「大仏寺」や「鎌倉大仏寺」などとも呼ばれていたようです。

当初は真言宗の寺院で、江戸時代以降は浄土宗に属し、同じ鎌倉の材木座にある光明寺の末寺となりました。

現在は本尊「銅造阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏)」が1958年(昭和33年)2月8日に国宝指定、さらに2004年(平成16年)には「鎌倉大仏殿跡(高徳院境内)」が国の史跡に指定されています。

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