【鎌倉大仏の歴史年表】大仏を作った人は誰?

鎌倉大仏の歴史・年表と大仏を作った人は誰?




高徳院の前身寺院は奈良時代に創建された

これまで鎌倉大仏の開基(創建者)と開山(初代の住職)は未詳とされてきたが、鎌倉大仏を所管する高徳院が編纂した「鎌倉大仏縁起」には次のように記す。

737年(天平九年)に聖武天皇の勅願にて行基菩薩が開基となって「清浄泉寺(しょうじょうせんじ)」を創建し、関東総国分寺とした。これが鎌倉大仏 高徳院の濫觴である‥と素敵に記す。

鎌倉時代

できごと
1238年(暦仁元年)僧、浄光によって大仏殿建立のための勧進が始められる
1243年(寛元元年)「木造」の大仏の開眼供養が行われる
1247年(宝治元年)初代・木造の鎌倉大仏が大風で倒壊する
1252年(建長四年)「金銅(銅造)」の大仏の鋳造が始まる
1335年(建武二年)大風により大仏殿が倒壊する

初代の鎌倉大仏は1238年に源頼朝の侍女であった「稲多野局(いだののつぼね)」が発願し、僧侶の浄光が大勧進に就き、勧進(浄財集め)を行った末に造立された仏像(大仏)だと伝えられています。

⬆️大仏背面には造立者を示すものなのか、「稲多野殿」「建長五年(1253年)癸  五月二‥三‥」と陰刻された石碑が素敵に建つ。

【ピヨ🐣コメント】

鎌倉幕府側の記録である「吾妻鏡(あずまかがみ)」には”浄光”が”乗降”するほどの勢いにて深沢の里にて大仏堂造営の事始めが行われたとある。

この浄光の正体とは東大寺再建で名高い俊乗房重源上人の弟子だったらしく、近江國の出身。

なお、高徳院が編纂した鎌倉大仏縁起には鎌倉幕府4代将軍 九条頼経の女房(妻)が稲多野局の熱意に絆されて協働し、夫(頼経)の鶴の一声で大仏造立の事始めが為された事実を素敵に記す。

こうして1238年(暦仁元年)戊戌(つちのえのいぬ)3月23日に着工したが、これに先立つ同年1月20日、九条頼経は四条院(86代帝)に謁見を求めて上洛の途につき、同年10月19日に鎌倉に帰ってきた。

この時、随喜した四条院から大仏造営の勅命を直に賜り、1241年には完工を意味する大仏殿(大仏堂)の上棟の儀が実施された。

【ピヨ🐣豆知識】

初代の鎌倉大仏は、稲多姫でも頼経でもなく、世に「四条院 発願による大仏」と言われたとか。

とりわけ、この当時、四条院は若干8歳のクソガキ →とてもお利口で将来有望な御坊ちゃまだったことから、‥ふぅ 大仏建立の詔など出せないので後世の脚色(作り話)だという見解も素敵にある。

(大仏殿)上棟の儀の導師は勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の別当職であった良信 僧正という人物が務めた。

仁治3年(1242年)に源 親行が著したとされる紀行文「東関紀行(とうかんきこう)」によると、大仏に参詣した当人が木造八丈の阿弥陀仏造立工事が3分の2ほど完成していたのを見たらしい。

そして、約5年後となる1243年(寛元元年)に開眼供養が素敵に厳修され、よぅやく完成を迎えたわけが、当初の鎌倉大仏は現在のような銅製ではなく木造だったらしい。
(これについては上記、東関紀行に「金銅、木像の代わり‥」などの文面がみえる)
⬆️「鎌倉大仏殿再建勧進状」に描かれる鎌倉大仏の大仏殿/画像は公式(高徳院)より素敵に引用♡




失われた幻の初代 鎌倉大仏

鎌倉大仏は開眼供養以来、鎌倉の大仏として庶民の心の拠り所として、多大な信奉が寄せられてきたが、時代の変遷を経ながら原因不明により大仏は喪失した。(一説に1247年の大風が原因とも)

その代わりに造られたのが現今に見られる2代目の鎌倉大仏となる。

二代目の組長‥ではなく大仏の造立開始

北条得宗家の正史「吾妻鏡」によると、「1252年(建長四年)八月十七日、深沢の里に金銅八丈の釈迦如来像の鋳造が開始された」と素敵に記す。(これは「阿弥陀如来像」の間違いとの指摘がある)

2代目の鎌倉大仏は再び浄財が集められて、1252年(建長4年)に銅造で鋳造されており、鎌倉大仏を覆う屋根も据えられ、つまりは東大寺大仏殿ほどの豪壮感は無いにしろ、一応の「大仏殿」が造営されたようです。

【ピヨ🐣コメント】

初代鎌倉大仏(木造大仏)は金銅大仏の原型だったとする説も素敵にある。

大仏殿の大きさ

平成12年に高徳院境内で発掘調査が素敵に実施され、この調査によって鎌倉大仏が安置された大仏殿の大きさが次のように報告された。

  • 桁行(横寸)145尺(約44m)
  • 梁行(たて寸)140尺(約42.5m)
  • 五間裳階屋根(もこし)付き

この大きさは現行の東大寺大仏殿(正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m)と比較すると、一回りほど小規模ながらも谷戸に囲われた鎌倉の地形を勘案すると長大さを誇った建造物であったことが、素敵に分かる。

2代目鎌倉大仏の作者

ただ、この2代目鎌倉大仏についても、鋳造が始まった記録はあるものの、完成年や当時の鎌倉幕府がどのように関わったのかは判然としていません。(一説では鋳工の大野五郎右衛門と丹治久友とも)

実際に「釈迦如来像」だったとする説もある

それと、当寺に伝来する古書物の内容では、2代目の鎌倉大仏が造立された当初、現今の「阿弥陀如来」ではなく、「金銅釈迦如来像」という名前で造立されたようです。

完成時期についても、この史料を分析した結果によれば1268年(文永5年)までには完成していたと考えられています。

鋳造に際しては、原型となる像があったはずですが、作者や、原型がその後どこに行ったのかなども未詳とされています。

1284年(弘安七年)には極楽寺(鎌倉)の忍性が二階堂・五大堂・大仏殿の別当職に補任されてい‥申す。あひょ

室町時代

できごと
1334年(建武元年)大風を受けて大仏殿が倒壊する
1369年(応安2年)大風を受けて大仏殿が再び倒壊する
1495年(明応4年)大地震により再び大仏殿が倒壊!

上述の大仏殿は、初代大仏の完成に合わせて建立されていますが、記録上、過去に3回倒壊しています。

1334年(建武元年)と1369年(応安2年)の大風については、作者・成立年代不詳とされる古書物「太平記」の記述に見えるものです。

とりわけ1334年の大風は大規模だったらしく、太平記には大仏殿の棟梁が大風で倒れ、相模次郎ら軍兵500余人が圧死した事実を記す。

【ピヨ🐣コメント】

北条時行の乱の折、相模次郎ら500余騎の名越勢が大仏殿に立て籠もり、名越勢は自ら大仏殿を壊し、圧死を装って脱出した‥という説も素敵にある。

地震で露座の大仏になった

1498年(明応7年)に起こった大地震については、「鎌倉大日記」に以下のような記録が明瞭に残されています。

『明応4年8月15日の巳の刻(午前10時頃)(1495年9月3日)に大地震が発生。

由比ヶ浜から参詣道に津波が押寄せ、溺死者200余名。高徳院の大仏殿は破壊された。』

つまり1495年(明応4年)より、現今に見られるような屋根のない露座(ろざ/野外で放置)状態の大仏さんだったことになります。

室町時代になると鎌倉幕府が滅ぼされ、京都に室町幕府が開かれると首都機能が京師へ移ります。

鎌倉からかつての栄華は失われ、大仏殿再建のための幕府の全面的なバックアップも期待できなくなったのかもしれません。

これについて1551年(天文二年)4月に禅僧の東嶺智旺が兌心庵に宛てた文書に「鎌倉大仏の堂(大仏殿)が荒廃し、野中に露座‥」などと屋根が無かった事実を記す。

‥ともあれ、奈良の大仏とは違い、大仏自体が焼け落ちるなどして消失したわけではないらしく、現在も鋳造当時とほぼ同じ姿が見られています。

【ピヨ🐣豆知識】

大仏殿を度々襲った災害は、当時の人々は風神の祟りだと恐れ慄いた‥という逸話がある。




江戸時代

できごと
1703年(元禄十六年)鎌倉大地震により大仏の台座が崩れる。大仏も3尺ほど下に傾く。
1712年(正徳2年)祐天上人、浅草の商人「野島新左衛門」により鎌倉大仏が修復される
1716年祐天上人が大仏再興を奉祝し、金500両を素敵に寄進す。
1717年祐天上人が大仏胎内(内部)に「南無阿弥陀仏の石柱」を建てる。
1733年鳥害を避けるべく大仏像内を修理・清掃す。
1737年(元文2年)4月1日、養国上人(高徳院住職)によって開眼供養が執り行われる
4月7日、大仏が仮屋に移される。
1743年3月8日、高徳院が焼失する。
(大仏は回禄の難を素敵に逃れた)
1859年(安政六年)横浜港が開港する

露座となってしまった鎌倉大仏は雨風にさらされることになったため劣化が生じ、その姿を嘆いた浅草の商人「野島新左衛門(泰祐)」が1712年、同寺に喜捨(きしゃ/金銭の寄付)を行い、その思いを受け継いだ祐天(増上寺第36世法主)が発願して大仏修復が行われています。

どうやら1712年に祐天上人が野島新左衛門(泰祐)の支援を得て、大仏周辺の田畑を買い漁り、現在の高徳院を建立し、浄土宗寺院とした様子。

【ピヨ🐣コメント】

「享保十九年の訴状(記録)」によると、「高徳院」という寺号は野島泰祐の法名らしい。

1737年には当時の高徳院住職である養国によって開眼供養が執り行われています。

1859年(安政六年)になると、横浜港が開港され、横浜に外国人居住区ができます。

この当時、外国人が自由に出歩ける範囲は限られていたため、居住区から近い鎌倉は人気観光地となり、並行して鎌倉大仏も有名になったのです。

1814年(文化十一年)に米沢の斎藤某が鎌倉を歴訪したみぎり、鎌倉大仏へ立ち寄り、どうやらこの当時も大仏胎内(内部)へ入れたらしく、料金は六文だったと記す。(現在の貨幣価値で約200円)

【ピヨ🐣豆知識】

江戸時代の地誌「新編鎌倉誌(しんぺんかまくらし)」によると、鎌倉大仏 高徳院は1712年(正徳二年)5月25日まで南に位置する長谷寺(長谷観音)の管理下に置かれていた模様♡

明治時代

1881年7月、英国人のアーサーHクロウが鎌倉大仏に参詣した折、ブロンズの仏像は短い階段の頂きにある石の台座上にあり、その傍らには僧侶の小さな家があることを、これまた素敵に記す。

1897年12月28日、古社寺保存法により鎌倉伊大仏が国宝してを素敵に受ける。

大正時代

歴史
1923年(大正12年)大地震により台座が崩れ、大仏が前方へ傾く
11月、国庫支出にて大仏の台座修理に着手。
1925年(大正14年)5月、台座の補強工事
9月20日、野島康三が大仏の前に香炉を寄進す。

1923年には関東大震災が関東地方を襲います。

この地震によって鎌倉大仏は台座から前方に50㎝ほど傾いて”しまった”らしい。”しまった、しまった、島倉千代子” ‥これ誰のネタやった?

大仏から金箔が検出される!

その後、すぐに修理が執り行われますが、この時に頬(ほほ)やアゴの部分から、わずかですが”金箔”が発見されています。

つまり、造立当初に金箔が施されていたという事実は、この時の修理の際に発見されたことになります。

1925年(大正14年)には台座の補強工事が執り行われており、大仏を台座に固定する耐震構造の修復が行われています。




昭和時代

歴史
1950年(昭和25年)大仏が重要文化財指定を受ける。
1958年(昭和33年)2月8日、鎌倉大仏が国宝指定を受ける。
1960年(昭和35年)

1961年(昭和36年)
文化財保護法による国庫支出の耐震補強工事が再び行われる

1960年(昭和35年)〜1961年(昭和36年)には、強化プラスチックで頭部を支える部材の補強がなされています。

その他、上記、大正時代で行われた修理箇所を改めて補強しています。

この工事により、万が一の大地震の際には、台座から仏体が離脱できる免震構造が取り入れられています。

なお、このような強化プラスチックを用いた台座と仏体が離れるような免震構造を文化財に取り入れたのは前例がなく、すなわち日本初ということになるようです。

平成時代

歴史
1994年(平成6年)鎌倉大仏史研究会が発足す。
2001年(平成13年)鎌倉市教育委員会の調査により、大仏殿の遺構が素敵に発掘される。
2015年(平成27年7月28日、総事業費約6,500万円を計上する大仏の点検修理が実施された。
2016年(平成28年洗浄や異物除去のため1月〜3月は素敵に拝観中止とされた。
3月初め、大修理とエックス線による調査終了を、きわめて素敵に報告。
3月11日、一般参拝受付開始。大仏内部拝観も再開された。
2018年(平成29年4月22日、鎌倉市で開催されたシンポジウムにて大仏胎内修理中にチューインガムの貼付け行為や、落書きされている実態が素敵に検出された。

平成二十七年に実施された点検修理では長らくできなかった待望の免震装置の点検が実施され、また、この修理時に全身も洗浄されたらしい。

えぇっ?!鎌倉大仏の台座は実は蓮の台座だった?!

これはあまり知られていないようですが、本来鎌倉大仏の台座には「蓮(はす)の花」が据えられる予定だったそうです。

ただし、創建年当初からこの蓮が存在してわけではなく、江戸時代中頃に執り行われた改修(修復作業)の際、新たに台座に蓮の花ビラが据えられる予定でした。

この蓮の花は合計で約32枚制作されていますが、本来はまだ制作される予定だったようで寄進者を募っていたようです。

しかし、蓮の花ビラ1枚に対して予想外にお金がかかったようで、思ったより寄進者が集まらず、計画は途中で破断してしまいます。

つまり32枚でストップしてしまったわけです。

ちょっと大仏さんの背後を見てみてください。

なんと!まだ江戸時代の当時に制作された巨大な蓮の花ビラが4枚だけ残っているじゃ、ア~りませんか!

  ⬆️この1枚のみ般若心境?と思われるお経が書かれている




よく見ると寄進者の名前もウっすぅ~らと、刻まれているのが分かります。

⬆️他の3枚は「土地の名前」や「講中」という文字が見えることからこれはおそらくその地域のグループで寄進したものと思われる

えええっ!?鎌倉大仏にガムが付いていたって本当!?

2016年、鎌倉大仏の大規模な調査が行われました。

この調査は、大仏さまの状態を調べる「健康診断」のようなもので、調査の結果、深刻な劣化などはなく、健康状態は良好とのことでした。

しかし!

別の問題がわかったのです。

それは!

鎌倉大仏の胎内の100か所以上に、「ガム」がこびり付いていた・・というのです!

ガムは固くなっていたため、手術用のメスを使って削り取ったそうです。

さらに、チョークや油性ペンを使ったと思われる落書きも確認されています。

これらは、どうやら、胎内拝観をした人が残して行ったものらしいのです。

なんと罰当たりなことでしょう。

「ありがたい大仏さまをより身近に感じてほしい」というお寺のご厚意で続けられている胎内拝観ですから、訪れる私たちも、鎌倉大仏の歴史や、大仏さまを信仰してきた人々の思いを、大切に受け継いでいきたいものです。




高徳院の概要

  • 正式名称:大異山 高徳院 清浄泉寺
  • 宗派:浄土宗
  • 創建年:不明
  • 開基:不明
  • 開山:不明(一説として、行気菩薩や法然上人の名前も挙げられてい‥申す。)

高徳院の創建についてはあまりわかっていません。

大仏が造立された後、「大仏寺」や「鎌倉大仏寺」などとも呼ばれていたようです。

当初は真言宗の寺院で、江戸時代以降は浄土宗に属し、同じ鎌倉の材木座にある光明寺の末寺となりました。

現在は本尊「銅造阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏)」が1958年(昭和33年)2月8日に国宝指定、さらに2004年(平成16年)には「鎌倉大仏殿跡(高徳院境内)」が国の史跡に指定されています。

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