佐助稲荷神社の歴史は様々に語り継がれており、定説がない。そればかりかいずれも伝説じみた説しか伝わっていない。
佐助稲荷神社の創建
佐介稲荷の社伝
社伝によると、頼朝卿が流人の頃に病床にあったある日の夜、「かくれ里の稲荷」と名乗る翁が卿の夢枕に立ち、挙兵平家討滅の挙兵を薦めた。
その後の経緯はご存知のとおり、平家は壇ノ浦に沈み、、頼朝卿は将軍となって鎌倉幕府を創設し、全国の武士を束ねる大親分となって「鎌倉殿」と呼ばれるに至る。
頼朝卿の「かくれ里」だった?
1159年(平治元年)の平治の乱の折、頼朝卿が「前右兵衛佐(うひょうえのごんのすけ)」という官位に就いたことにより、以後、「佐殿(すけどの)」と呼ばれるようになる。
この頃、「平家にあらずんば人にあらず」‥などという言葉が生じたように平家一門が京師を中心に跳梁跋扈していたが、頼朝卿は源氏の御曹司だったことから、平家から常に目を付けられていた。
そんな折、頼朝卿は当時、「隠れ里」と呼ばれていた現在の佐助の地に到り、当地に逗留したのだった。
余談だが、現在の佐助稲荷社と銭洗弁天社の御朱印に「隠れ里(かくれ里)」と書かれるのはこのため。
頼朝卿が隠れ里に逗留した折、隠れ里の地主神であった宇賀神が頼朝卿の夢枕に立ち、平家討滅の挙兵を薦めたとされる。
なお、この時、宇賀神が佐殿を助けたことから、当地は「佐助ガ谷」と呼ばれるようになったとする説もある。
佐助稲荷社の創建年
頼朝卿が源平合戦に大勝した後の1190年〜1199年頃(建久年間)、卿は忠臣たる有力御家人の畠山重忠に命じて「かくれ里の稲荷」を探させた。
斯くして稲荷の里を見つけた重忠は頼朝卿へ報告。すぐ様、頼朝卿は台(だい/大船地区)と山崎の地を寄進し、当地に創祀したとされる。(諸説あり)
なお、頼朝卿が台と山崎を寄進した理由として、鶴岡八幡宮の上下宮の修正会や月例祭などの神饌(しんせん/お供え物)の調製所を当地に建てたとする説もある。
鎌倉後期に編纂されたと伝わる吾妻鏡には「佐介」「佐介ガ谷」とだけ記されるのみで、「佐介稲荷神社」の名前は見えない。
佐介稲荷神社が有史上に登場するのが1359年(延文4年)12月11日のこと。
この日、鎌倉公方の足利基氏は暴徒撲滅の祈祷を「佐介稲荷社 別当 三位 僧都 御房」に命じる旨の記載がある。
佐介稲荷神社の前には北条時盛の別邸が建っていた?
吾妻鏡の宝治元年正月三十日 条によると、かつて胸‥‥ではなく、当地!!の谷間には北条時房の子である北条 越後守 時盛の別邸「佐介亭」が建っていたとされ、これが「佐介谷」「佐介ヶ谷」と呼ばれた由来となる。 ふぅ
佐介亭の場所は未詳とされるが、鎌倉〜藤沢線の道路から「佐助一丁目」交差点で入って直進し、佐介稲荷へ到る曲がり角が出てくるが、その反対側一帯とされる。(現在は住宅街)
以来、時盛の末裔たちも当地に住み着いたとされることから、時盛以降の一族は「佐介流北条氏」と呼ばれるようになる。
重用された佐介亭
吾妻鏡によると、どうやら時盛が建てた佐介亭は歴代将軍たちが京師へ追却(中世時代の刑罰の一種で平易に追放のこと)された際に宿泊所として利用したとされる。
追却された将軍一覧
- 九条頼経(4代将軍)1246年(寛元四年)6月27日に追却
- 九条頼嗣(5代将軍)1252年(建長四年)3月21日に追却
- 宗尊親王(5代将軍)1266年(文永三年)7月04日に追却
九条頼経が京師へ送還された際、若宮大路にあった御所を出立し、その後、「時盛の佐介第に渡御」などと記されることから、この先例を踏襲したものと見られる。
以上、この佐介亭が現在の佐助稲荷神社の前身‥‥というか、かつて佐助亭が建っていた場所に佐助稲荷社が建てられたとする見解もある。
佐介稲荷神社の霊験(ご利益)
佐助稲荷は京都伏見稲荷大社に総本社を置く稲荷社なので、五穀豊穣や商売繁盛が挙げられるが、鎌倉においてはそれだけではなく、次のような霊験譚が伝わる。
1243年〜1247年(寛元年間)、鎌倉中に疫病が蔓延したが、佐助稲荷の神が現出して薬草のタネを蒔きはじめ、指で数える間も無く生長した。
人々はこの薬草を煎じた薬を服して疫病を逃れることができたと伝わる。(もしくは平癒に到った)
なお、往時は現在の佐助稲荷の地(佐助ヶ谷)に蓮華寺が建ち、これが材木座へ移って現在の光明寺になったと伝えられる。(現在、鎌倉〜藤沢線の道路沿いに建つ法務局前に跡地を示す石碑が建つ)
その光明寺にも同様の霊験譚が伝えられており、なんでも蓮華寺を創建した良忠上人が、ある日、村の子供に捕まって殺されそうになっていた子ギツネを助けたそうな。
後日、上人の夢枕に白ギツネが立ち、助けてくれたお礼として薬草を数種類、置いて去っていった。
翌朝、上人の枕元に煎じた薬草が袋詰めされていたのだが、ほどなくして疫病が蔓延しはじめたことを知ると、上人は薬草を村中へ配って村人は九死に一生を得たと云われる。
現在、材木座の光明寺境内に「繁栄稲荷大明神」が奉斎されるが、当社はこの霊験譚に基づいて建立された社となる。きゃきゃきゃ
佐助稲荷の際立った年表
様々な文献を見ていくと、1418年(応永25年)2月、関東管領・上杉憲実(のりざね)が相承院(頓覚坊/鶴岡八幡宮寺・二十五坊)の供僧(ぐそう)である珍誉に当社の別当職に補任し社領を安堵した記述が見られる。
古くは鶴岡八幡宮の御旅所だった❓❗️
また、あまり知られていないが往時の当社は鶴岡八幡宮の非常時の御旅所(仮宮)に位置付けられており、それなりの待遇を以って管理されてい‥申した。ディヤハっ
以来、当社は鶴岡八幡宮の飛び地の末社で在り続けたが、1909年(明治42年)に独立して、単立社になったと云われる。
「佐助」の地名(名前)の由来
「佐助」の意味は、卿が若かりし頃、「前右兵衛佐」であったことから「佐殿(すけどの)」と呼ばれており、その「佐殿(頼朝卿)を助けた神」と言うことから「佐助」を付して「佐助稲荷」と命名されたと伝わる。
「佐助」の社号は、まさにその頼朝卿に由来した呼称。
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