【源実朝の生誕地】北条時政の名越亭の歴史(年表)‥‥場所はドコなのか❓実在したのか❓|大町釈迦堂口遺跡

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北条時政の名越亭とは❓

元来、鎌倉における北条時政の居館となるもの。

また、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が生誕した場所でもあり、元服した場所でもある。実朝にとっては人生の節目に登場する重要な舞台ともなる場所。

時政の世子となる北条義時の次男・朝時は、時政が失脚して伊豆へ移った後、この館を相続し、以降の子孫たちは「名越流北条氏」を名乗る。

⬆️北条時政の名越邸跡地(伝)※現在は「釈迦堂口遺跡」とは呼ばれるものの進入は不可※

北条時政とは❓

北条時政は鎌倉幕府が源静香‥‥ではなく、源頼朝卿!!によって開かれる以前から頼朝卿に仕えた古参の宿老ともなる重鎮中の重鎮。ふぅ 最近このクダリ多い

出自は桓武平氏。貞盛の子孫。祖父の時家が伊豆介(伊豆守の1つ下の官職)となると、伊豆北條を根拠地として根付き、北條氏を称する。

1177年(治承元年)時政の長女の政子が源頼朝卿と夫婦の契りを交わしたのを機とし、平家一門から離反、源氏御曹司であった頼朝卿の平家打倒の挙兵に随従する。以後は頼朝卿や政子、嫡子(次男坊)の義時らと共に血と欲にまみれた数奇な運命を辿る。

通説では頼朝卿が鎌倉に幕府を創設後、名越(現在の鎌倉市名越)に所領を下賜され、時政亭は「名越亭」などと呼ばれた。

名越亭の別名

浜ノ御所、名越殿、名越山荘など

名越亭は謀殺・誘殺にも活用された

時政の権威は政子と義時が担保とされているところが大きかったが、やがて、武蔵最大の豪族とされる蛭子能‥‥ではなく、比企能員(ひきよしかず)!!と幕府内での権力抗争を繰り広げるまでに膨張し、仁田忠常と天野遠景に命じて自邸(名越亭)にて誘殺させる。(比企能員の乱

さらにその後、能員討取りの賞罰のため仁田忠常へを自邸へと呼び出したが、帰りに義時麾下の加藤景廉に殺害される事件もあった。(仁田事件)

時政の名越亭は3代将軍・実朝が誕生した場所❗️

また、有名どころのエピソードとしては、1192年(建久三年)8月9日・巳の刻(午前10時頃)、‥‥オぎゃ〜、オぎゃ〜、‥と千幡(後の3代将軍・実朝)がこの世に生を得た場所でもある。

これに先立つこと1192年(建久三年)7月18日、吾妻鏡には浜ノ御所(時政名越亭)に北条政子が渡御し、同24日には頼朝卿が名越殿に入御す。

そして8月9日に実朝が誕生してい‥‥‥申す。ヤっ .…最近ネタ切れ

おそらく7月18日の時点で実朝を妊み、サーバーごと一気ビール腹だったことが想像できる。 なんやそれ




時政の居館「名越亭」の歴史(年表)

以下、吾妻鏡参照

実朝誕生の翌日(1192年(建久三年)8月20日)には頼朝卿が再び渡御し、10月19日条には政子と実朝が「名越ノ浜ノ御所」より大倉御所に移ったとある。

それから後の歴史は以下で述べるとおり。

年月日できごと
1195年(建久六年)7月29日頼朝卿が浜ノ御所へ渡御し、時政が接待してい申す。
1200年(正治二年)10月21日頼家が浜ノ御所へ渡御し、同様に時政が接待してい申す。ガハっ
1203年(建仁三年)9月2日時政が当居館に待ち伏せさせておいた天野連景(あまの つらかげ)と仁田忠常(にた ただつね)に命じて、比企能員を当館で謀殺(誘殺)する。
この時の記述により名越亭内に竹林と惣門の存在が確認される。
9月6日時政が賞罰のために仁田忠常を名越亭へ呼び入れたが、その帰り、北条義時の命を受けた加藤景廉が誅殺する。
10月8日戌の刻(午後八時)実朝が「遠州ノ名越亭」にて元服す。
この日、ほとんどの御家人衆が参列したと記す。(時政は正治二年4月に任官されてから後は「遠州」と呼ばれてい申す。)
1205年(元久二年)閏7月19日時政と牧ノ方夫妻が平賀朝雅を将軍へと擁立する陰謀を企てる。
この陰謀を察知した北条政子は御家人に命じて当居館に逗留していた実朝を義時亭へ移す。
7月20日
丑の刻(午前2時)
時政が出家する。
牧ノ方夫妻との陰謀(朝雅擁立)が御家人衆の知るところとなり、大半が離反し、義時と政子の傘下へ入ったため孤立する。

これにより時政は出家と相成り、同日、辰ノ刻(午前8時)に幕府創設以前からの本領でもある伊豆北条郡へと追却される。
以後、同地にて隠居の身となる。
1227年(安貞元年)12月14日頼家の娘っ子「竹ノ御所」が越後守(北条朝時)ノ名越亭に方違えしたと記す。
(「方違え」とは、占いの結果による凶方位を避けるべく、一旦別の方向へ行くこと。主に平安貴族が便宜上していた行為。迷信の類ではありつつも武家でも重んじられた。)
1228年(安貞二年)12月12日
辰ノ刻(午前8時)
由比ヶ浜の家屋から出火し、越後守(北条朝時のこと)ノ名越亭、後ろ山の際(きわ)に迫って鎮火したとある。
1231年(寛喜三年)9月27日悪党が越後守ノ第(第=邸宅。名越亭のこと)へ討ち入ったとの急報を受け、北条泰時が重要な評定を放棄の上、馬駆して弟・朝時に感激されたとある。
1235年(嘉禎元年)正月9日4代将軍・九条頼経が越後守ノ名越亭に方違え。
閏6月15日頼経の越後守の名越への方違えを中止させたとある。
1238年(歴仁元年)12月19日頼経節分の方違えして遠江守(とおとうみのかみ)ノ名越宿所へ向かぅ。
12月23日戌の刻(午後8時)遠江守ノ名越亭に入御し、同二十五日まで2泊す。
1241年(仁治二年)2月22日、頼経が遠江守ノ名越亭に方違えした後、1泊。
1257年(正嘉元年)8月18日前尾州時章ノ名越亭へ方違えあり。(前尾州/=北条時章のこと。前尾州とは「前任の尾張国司」という意味)
1258年(正嘉二年)5月5日来たる29日の6代将軍・宗尊親王の方違えが尾張前司(北条時章のこと。前司は「前任の国司」の意味)ノ名越山荘(新善光寺の辺り)と決まる。
同8日、将軍の入御のために尾張前司ノ山荘では檜皮葺(ひわだぶき)の宿所などを数棟、新造す。
5月29日予定通り宗尊親王(むねたかしんのう)は尾張前司ノ山荘に方違えする。

「名越亭」は2つある❓

鏡の1263年(弘長三年)8月9日条に、「左近大夫将監・義政(極楽流支流・塩田流)の北条義政のこと)朝臣ノ名越亭」とある。

同12月28日条にも「左近大夫将監・公時(名越流の北条公時のこと)朝臣ノ名越亭」ともある。

場所で示すと現在の極楽寺の谷戸と、名越とは真逆の方角となることから、誤りのようにも思える。

北条時政の名越亭の場所

  • 鎌倉市大町6丁目9ー15

鎌倉駅から徒歩約36分

鎌倉時代以降の北条時政名越亭の歴史

室町時代

鎌倉市が平成20年7月末〜12月初旬にかけて同地にて実施した遺跡発掘調査によると、出土品や地中の地層などを総合的に分析したところ、およそ13世紀後半から15世紀(西暦1250年頃〜西暦1500年頃)の遺構・遺物であることが判明したとのこと。

平成20年度大町釈迦堂口遺跡発掘調査の概要(鎌倉市)

北条時政は生誕1138年(保延4年)、死去1215年(建保3年)1月6日になるので、仮にもし時政亭が当地に建っていたとするならば、当遺跡から出土した遺物・遺構においての年代的な齟齬が生じる。

‥‥‥のだが、

鎌倉市の遺跡発掘調査は中止された⁉️

2009年に同地、布張山自治会が発行した大町釈迦堂口遺跡の資料によると、室町時代の寺院と思わしき柱穴などの遺構が発見されつつも、それで調査が一旦、打ち切られ、中止されたとのこと。(資料を見せていただき本当にありがとうございました)

理由は単純明快でそれ以上、掘りすすめると室町時代の遺構そのものを破壊してしまうことになるため。

分かりやすく言うと、鎌倉時代の人々(仮に時政)が踏みしめていた地面は、まだ室町時代の地面よりも地中にあるということ。

⬆️現在の時政名越亭の様子。露出保存のため室町時代の遺構は埋められてい‥る。ふぅ

現在、鎌倉市では、室町時代の当地には一個人の邸宅などではなく、荘厳さを兼ね備えた寺院が建っていたと公式発表しているが、もしまだ見ぬ未知の鎌倉時代の地表調査を行なったのであれば、結果が変わってくる可能性もある。

しかしながら、2021年5月度のタウンニュースの記事によると、2008年に実施された発掘調査の結果、(時政の生没年と)年代が違っていることが判明したと記しており、事実関係が判然としない部分のもある。

ただもし、室町時代の遺構をさらに掘り進めた場合、同地に時政の名越亭が建っていた可能性もまだアリエールを洗濯槽へ流し込むかの如くにぅぃ!”有り得る”‥ということ。 どんな度合いや

〜昭和時代

鎌倉幕府が滅んだ後、鎌倉には室町幕府の東国監視の出張機関として鎌倉府が置かれ、当地も鎌倉公方の所管とされたものの、当地がどのような有り様だったのかは未詳とされる。

昭和時代

昭和の初め頃、当地には和様平屋建ての家屋が建ち、ドイツ人が住んでいたらっしぅぃ

その土地面積は大町側の釈迦堂切り通しも含まれていたが、一般が切り通しを通行できた事実を加味すれば、私有地の一部を一般へ無償開放していたことになる。

現在、大町側の釈迦堂切り通しの丘上には、雅ぅぃ〜な朱色の木橋と、1棟の四阿(あずまや)が遺構として現存しているが、これこそまさにぅぃ!ソーセージ主人(ドイツ人=ソーセージを由来とし便宜上、勝手に今この場で命名)が個人趣味か何かで建造したものらっしぅぃ。ドイツといえばビールとソーセージ!ヒャッホっ

⬆️鼻毛を3本つまんで引っこ抜いた時に溢れ出る涙ほどウワサの‥「雅な朱色の木橋」(..よく見れば!ソーセージの形❗️えっ⁉️こんな偶然‥明日死ぬんちゃぅか…オホ

どうやらその雅な朱色の木橋の真下部分(懸崖)がソーセージ邸‥‥‥ではなく、北条時政の名越亭!!の裏門にあたるとのこと(上掲写真参照)。カっ!

上掲写真のように時政の名越亭は懸崖と尾根に囲まれた天然の要害の地に築かれていたようで南面以外の防御に一役買っていたとみられる。

また、北側(北東)に朝夷奈、南側(南東)に名越の各切り通しがあることからも推測できるように時政の名越亭は鎌倉東を護る要所でもあり、その名目もはらんで頼朝卿より名越を下賜されたのだろぅと思われる。

話が逸れ申したが、太平洋戦争の最中、軍部がソーセージ宅の敷地内に高射砲を配置しようと訪問した折、ソーセージ主人はその要求を厳しく突っぱねたらっしぅぃ。ぎャ

このソーセージ主人の激しいブチ切れ抵抗によって、釈迦堂切り通しの景観は護られたことになる。

⬆️ソーセージ主人が鎌倉市中と自邸とを馬で往来したとされる坂道(名越亭跡前からケツを向けて撮影)

⬆️坂下から時政名越亭跡地を見て撮影(遠景)




昭和時代〜平成時代

ソーセージ時代が終わって以降の当地の歴史については未詳とされるが、最近まで国際自動車株式会社が当地の所有者として、同社の社員寮があった。

入口の両側の門脇には韓服をまとった韓人の像が立ち、敷地奥には庭園の意匠として池が造池されていた。

⬆️上空から見た現在の時政邸跡(釈迦堂口遺跡)。埋没した上、緑草が繁茂するので現在、何があるのか確認できない。

ちなみに像の下に敷かれた台座らしきものが、現存してい‥‥‥申す。ゾっ(”像”だけに)

現在は鎌倉市が所有者とのこと

国際自動車株式会社が当地から撤退することが決まった際、市民の声が募ってか鎌倉市が名乗りを挙げて当地を買収。

2010年(平成22年)8月5日にその一部(釈迦堂切り通し)が国の史跡指定を受けるに到る。

なお、釈迦堂切り通しは1977年(昭和52年)に崩落があった影響で巨大な岩々が道を塞ぎ、復旧の目処はたっておらず、現在、40年来の通行禁止区域となってい‥‥‥ます。クっ(耐)

これに対し鎌倉市は、2022年に大河ドラマ(鎌倉殿の13人)で鎌倉に注目が寄せられたことや、鎌倉の貴重な観光資源として、史跡環境整備事業費・約2億円を計上して復旧を目指しているとのこと。

⬆️現在の当地に設置された看板

余談だが、上掲写真の道から釈迦堂切り通しの丘上にいける。(ソーセージ邸の四阿と雅〜♪な朱色の木橋)

崩落対策の看板に記された内容

ご協力をお願いします

史跡保存のための崩落対策を行っています

令和5年3月24日まで
時間帯 8時〜17時

史跡崩落対策工事

発注者:鎌倉市都市整備部 道路課
施工者:鎌倉土建株式会社

時政の名越亭は「大町釈迦堂口遺跡」とも呼ばれる

現在、時政の名越亭の場所は「大町釈迦堂口遺跡」とも呼ばれ、当地の周囲をとりまく釈迦堂切り通しが、その構成資産の一部に含まれる。

現在の大町側の釈迦堂切通し出入口(「通行禁止」の看板がある)

現在の釈迦堂ヶ谷側の釈迦堂切通し出入口(大町側と真反対)「通行禁止」の看板がある。




通行できた在りし日の釈迦堂切り通し(大町側)の姿

画像引用先:https://ja.wikipedia.org/

ちなみにGoogleマップに表示される釈迦堂切り通しの写真を見ると以下のような文字が記載された案内板らしきものも見える。

北条時政邸裏門跡

この切り通しは時政亭の裏門として釈迦堂口への間道に通じ、亭の防備も兼ねて造られたものと推定されます。
切り通しの両岸壁は風化により美しい縞模様をつくっていますが、昔のままであることがこれに良く立証されています。

この他、釈迦堂切り通しには「唐糸やぐら」、「日月やぐら」などの鎌倉後期〜室町前期に造立されたとみられる五輪塔が置かれた”やぐら”もある。

現在の釈迦堂切り通しの様子(大町側)

現在は陰毛級に草がボーホーと生い茂る

釈迦堂ヶ谷側出入口の看板

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