比企能員と北条時政との対立
⬆️比企能員の墓
鎌倉幕府内では頼朝卿の正妻である政子を筆頭にその父親である時政も権勢を持ち続けたが、頼朝卿が亡くなると次代将軍に頼家が就任する運びとなり、頼家の乳母夫であり後見役ともなった比企能員とその一族が幕府内で権勢を持ち始め、北条氏と並ぶほどになった。
しクぁし!
吾妻鏡によると1203年(建仁三年)8月27日、頼家が急病で危篤状態に陥り、幕府内では頼家亡き後の次代将軍についての幕議が13人の有力御家人の合議制によって開かれたが、ここで問題が起きた。
北条氏は頼家の弟で12才の千幡(せんまん/のちの実朝)を推し、比企氏は頼家と比企能員の娘(若狭局)との間に出来た子でもある6才の一幡(いちまん/一幡丸とも)が次代将軍を継承するのは当然であると主張する。
確かにこの時代、相続は分割されるのがごく自然だったこともあり、北条氏(時政)が主張する意見にも一理あった。
ここで以下のような妥協案が提出され、多数決で決する運びとなった。
- 関東38カ国の地頭職を千幡が受け継ぐ。
- 関東28カ国の地頭ならびに守護職を一幡丸が受け継ぐ。
ここで守護と地頭の話をすると、守護とは元来、朝廷の官職の1つである「追捕使(ついぶし)」のこと。
承久の乱(1221年)以前の守護職は、頼朝卿が1190年に朝廷より「日本国惣追捕使(国家的な軍事・警察権を有した担当者)」に補任されたのを機とし、朝廷から鎌倉幕府の所管へと移管された。
その職掌は追捕使を踏襲する形で、領地の監督(軍事権・警察権の行使)が主たるものとされ、やがて幕府によって追捕使から→「守護」へと名称が改られる。
守護は原則その国に1人置かれ、守護の職掌(とりあえず1232年の貞永式目制定以前と仮定)では当該管理国においては警察権を発動させて地頭(荘郷地頭)および、当該地頭が所有する軍兵を自在に領内各所へ出動させることができたとされる。
他にも頼朝卿は1192年頃に「地頭の輩(地方の荘郷地頭or下司、在庁官人や豪族などの総称)」に対する命令権を朝廷より獲得しており、地頭の輩の中から御家人を選出し、守護が当該管理国内の御家人衆を率いて京都の警護にあたった。(平易に京都大番役のこと)
一方の地頭職はと云ぅと、全国の公領・荘園に置かれたのが始まりとされるが、これは厳密に「国地頭(くにじとう)」のことを指す。
当初の地頭は「国地頭」と「荘郷地頭(しょうごうじとう)」とに区別され、荘郷地頭は平氏の没官領や謀反人の旧領に限定されて配置された。(国地頭は1186年に廃止されたので以後、単に「地頭」と呼ぶ場合は概ね「荘郷地頭」を指す。うきゃ)
地頭の職掌としては年貢(兵糧米)の徴収、所領の治安維持など、所領全般の管理を行えた。
地頭に与えられた土地の面積は限られていたものの、当該土地の従来からの慣例に則る収入が認められたほか、1反(たん/991.74平方メートル/約300坪)につき五升(しょう/約9リットル分/米50合)の兵糧米の徴収権も付与された。
このように地頭は、ほぼ完全に自分の土地(領地)とすることができたので、自らで畑を耕し、農民を養ぃ、年貢を徴収して自らの肥やしとしたりするなど守護とは異なり、直接、経済に関わることができた。
守護は言うなれば朝廷が追捕使の職をアウトソーシング(外部委託)して幕府が請負ったような形の官職にはなるが、地頭のような経済的機能はもたないものの地頭よりも社会的地位は格上になり、自らを他所でアピールするには打ってつけだった。
以上の事柄を鑑みると譲与される土地が多い場合、地頭をもらう方に利があることが分かる。
ただ、比企能員は嫡流が2代目を継ぐというのが筋だとする考えが根底にあったことから、妥協案の内容云々の話ではなく、妥協案が出されたこと自体に不服があったとみられる。
こぅして北条時政率いる北条一族と、比企能員率いる比企一族との戦いの火蓋が切って落とされたのだった‥。
比企の乱(比企能員の変)
吾妻鏡によると、幕議の決定にどうしても納得ができない比企能員は、やがて武力に訴えかけて時政を葬り去ることを考える。
そこで比企寄りの将軍・頼家に北条時政討伐を訴えて頼家もそれを承諾した。
能員は時政を亡き者にするための謀議を病床にある頼家のもとへ訪れて行ったが、その話し声がたまたま障子の際に居た頼家の母ジャである北条政子に聞かれてしまぅ。
政子の存在に気づかない頼家と能員はさらに謀議を重ね、その内容をすべて聞き届けた政子は父・時政へ洗いざらい報告した。
驚いた時政は(外孫の頼家が自らの殺害を企てたことに落涙したとも)、幕府内での権力者の一人者でもある大江広元(おおえのひろもと)へ比企の企てを暴露し、その上で比企一族討滅の意向も伝えた。
しかしながら、広元は中立を保っていたことから時政への加担をしきりに拒んでいたが、あきらめの悪い時政は自邸へ広元を招待し、酒宴の席で半ば強引に能員殺害を承知させた。
その後、時政は自らが立てた殺害計画を広元へ打ち明け、後日、その計画が遂行されることになる。
比企能員の謀殺
この頃、北条氏と比企氏の険悪なムードは鎌倉市中に知れるところだったが、そんな中、時政は名越の北条館にて栄西を導師として招聘し、北条政子と大江広元も参列して薬師如来像の完成祝い(供養)ならびに、頼家の病気平癒祈願を執り行ぅと比企能員に使いを送った。
確たる断る理由が見当たらない比企能員はこれを止む無く承諾したが、一族の者たちは出仕を引き止めたり、武装して行くよぅ進言する。
しクぁし!
政子に頼家との謀議の内容(時政殺害の謀略)が聞かれているのを知らない比企能員は、「出向かないことや武装するのは逆に怪しまれる」また、「頼家が深く帰依した栄西に対して無礼である」と考え、普段の平服(平礼、白水干)で時政の居館に入った。
能員には供人もいたが、郎従(ろうじゅう/従者)2人、雑色(ぞうしき/下級役人)5人、馬の口輪持ちの童僕1人‥‥といぅ何の警戒心も感じさせなぃ、ごくありふれた平凡な行列だった。
やがて時政邸の惣門前が見えてくると、案内人と思われる時政の従者の姿が視界に入る。
能員は門前で下馬し、口輪を童僕に預けたまま門前に待機させ、他の供人を引き連れて時政の従者に案内されるがまま、惣門をくぐり抜け、外庭を通り、廊下の靴脱ぎに案内された。
靴を脱いだ能員は残りの供人にここで待つように告げ、能員1人で館へ上がった。
その後、廊下の突き当たりの妻戸を通り抜け、時政のいる北側へ行こうとした‥‥と、その瞬間!
妻戸を挟み込む形で内側両脇に待機していた天野連景(あまの つらかげ)と仁田忠常(にた ただつね)が、キングメタルスラ〜が上から急に落っこちて出現するかの如く、門脇からいきなり能員の両腕をガッシリと掴んで抜刀を封じ、能員の身体を押し出しながら内庭の竹林へ押し伏せた。
能員は思わず、『ギぃぃャぁぁぅぉぁーーーー!!!』‥‥と、絶叫したかと思いきや、その瞬間、能員の首は胴体から離れた。
このとき能員が靴脱ぎに残した供は主君のわずかな絶叫を耳にし、刀の鞘に手をかけたが、時政が武装した配下をすでに差し向けていたこともあり、程なくして討ち取られた。
そして忘れてはならないのが門前に待たせた口輪取りの童だが、館内からザワザワと物騒な物音がするのを耳にし、勘の良ぃ童は主人の身に危険があったことを察知し、すぐさま比企館へ向けて走り出した。
童によって能員の危急を知らされた比企一族は、急ぎ、頼家の嫡子である一幡丸を擁し、比企ヶ谷(ひきがやつ)にある一幡の小御所に立てこもった。(一幡の小御所の場所に関しては諸説あり)
比企館にかけつけた比企を味方した御家人など
比企側には比企一族の他、能員の猶子(養子)である下野国河原田郷(かわらたごう/栃木県川原田町)の領主「河原田朝綱(かわらた ともつな)」や、大慌てで戦支度を整えた能員の女婿3人が駆けつける。
また、中山郷(埼玉県飯能市中山)からは領主「中山為重(なかやま ためしげ)」、相模国糟屋荘(さがみこく かすやのしょう/伊勢原市粕谷)の領主「糟屋有季(かすや ありすえ)」なども参陣した。
しかし、比企能員を失った比企氏は脱衣野球拳で着衣(鎧)をもがれたフルチン状態も同然。意味不明
ここぞとばかりに追い打ちをかける政子は比企一族を謀反人として吊るし上げ、御家人たちに討伐命令を発し、弟・北条義時を総大将に任じて比企ヶ谷にある比企館(ひきのたち)へ出陣させた。
北条義時軍に加わった御家人一覧
北条泰時、平賀朝雅、小山朝政、小山(長沼)宗政、小山朝光、畠山重忠、榛谷重朝(ほんがやつ)、三浦義村、和田義盛、和田常盛、土肥維平、後藤左衛門尉信康、所右衛門尉朝光、尾藤知景、工藤行光、金窪行親(かなくぼ)、加藤次景廉、加藤(遠山)景朝、仁田忠常 …etc
比企ヶ谷へ到着した義時軍は大軍を擁して屋敷を取り囲んだが、比企勢の予想外の抵抗に遭ぃ、義時勢にも多くの被害が出た。
しかし、畠山重忠が郎党たちを鼓舞したため義時勢は息を吹き返した。
比企側は義時勢に比べて小勢だったが、比企ヶ谷の地形をたくみに活かした戦型を採り、未(ひつじ)の三刻(午後2時)頃から申(さる)の刻(午後4時)まで戦闘が続けられた。
そして、ついに屋敷に押し込まれた比企方はHPが赤色ゲージぴこんピコン(訳:点滅)状態に陥ったのを悟り、ついに戦のエンドロールが見えはじめると、自らの屋敷に火を放ち戦ぃの幕を下ろしたのだった。
その後、若狭局は殺されたとも、一幡丸を抱きかかえて焼死した、もしくは抱きかかえて逃げおおせたとも云われる。
現在、比企館の跡地に建つ妙本寺には比企能員の墳墓の他、一幡(一幡丸)の振袖塚、讃岐局の蛇苦止堂もある。
比企の乱後に比企一族に下された処分
能員の長男・余一兵衛尉 時員(よいち ひょうえのじょう よしかず)は女装して戦場からの離脱を図ったが、義時側の加藤次景廉(かとうじかげかど)に見つかって斬殺された。
能員の妻・妾や能員の末子(2歳の男子)は一旦、和田義盛が引き取り、その後、安房国へ配流。そのほかの郎党は徹底的に探し出され、ことごとく処刑された。
能員の残党である小笠原長経、中野能成、細野兵衛尉は9月4日に拘禁され、中野能成は所領を没収の上、11月7日に遠流。小笠原長経は鎌倉を追われた。
島津忠久は能員の縁者ということで、責任連座で大隅国・薩摩国・日向国の守護を没収された。
仁田忠常は時政により能員追討の恩賞を与えられることになっていたが、実は頼家からも時政討伐の命令を受けており、9月6日の夜、その恩賞を受けるべく時政邸へ向かったのだが、帰りが遅いことを一族の者に怪しまれ、謀反の嫌疑をかけられ、時政邸を出たところで待ち伏せしていた加藤景廉に惨殺された。
愚管抄では侍所の同僚だった和田義盛に殺害されたとしてい‥申す。..ちょぃ考える余裕ない
戦後の比企館の姿
翌9月3日の早朝、まだ方々で煙が立ち、無残にも燃え尽きて焼け野原となり果てた比企館に将軍・頼家が寵愛する蹴鞠(けまり)の達人・大輔房 源性(たゆうぼう げんしょう)が訪れ、焼け跡から焼け焦げた小袖の一片を拾い見ると、わずかに菊の文様が見えた。
源性はそれが一幡丸がよく身につけていた着衣であったことを思い出すと、静かに目を閉じて胸前で両手を合わせた。
これにより頼家は梶原景時に続き、比企能員といぅ自らの左/右大臣を失い、もはや両手をもがれた完全フルチン状態となったのだった。
用意周到!頭の切れる北条時政
比企能員を確実に亡き者にするためには、比企一族を上回る勢力を構築する必要があった。
そこで時政は、一幡丸の乳母夫であった相模最大の豪族である三浦氏の三浦義村に対する懐柔(かいじゅう/自勢力に取り込む)の手はずも忘れなかった。
1203年(建仁3年)8月4日、時政は三浦義村を土佐国守護に任命する旨の下文を義村に送りつけ、義村はこれを無言で受け取って懐にしまい込んだとされる。
義村はおそらく時政か政子が認めたものだと分かっていたため、この快諾は北条氏に加担することを意味した。
義村が北条氏に加担した理由はまだ他にあり、時政の嫡孫(義時の長子)にあたる北条泰時と三浦義村の娘っ子(のちの矢部尼)が結婚していたことから、両家は婚姻関係にあった。
それと何よりも青天井の如く勢力を増大させる比企氏に対し、義村が警戒心を抱いていたこともその理由に挙げられる。
ただ、問題となるのはこの下文の送り主。
この当時、守護を任命できる権限を有するのは鎌倉殿のみであり、つまりは「将軍頼家」が送り主になるのだが、この当時、頼家は病床に在ったため、おそらく時政と政子のいずれかが頼家の名前を騙って(かたって/利用して)書いたものとみられてい‥る。ピクっ
これで比企との一戦を交えた際にも隣国となる三浦半島から陸路と海路とで三浦勢を送り込むことが可能になり、まさに「いざ鎌倉!」として大軍を短期間のうちに鎌倉市中へ投入できることになる。
まさにこの時政の構想が現実のものとなったものが、比企館への襲撃になる。
まさか‼️重忠の鼓舞によって頼家も息を吹き返した❓
9月5日のこと。まるで死人が黄泉の国から生還したかの如く、急に肌ツヤが戻りはじめた頼家は息を吹き返し、みるみると生気を取り戻した。
回復後、時政の仕打ちを知った頼家は怒り狂ぃ、すぐさま時政追討の御教書(命令書)を認め、伯父・比企能員を殺害した張本人である仁田忠常と、侍所別当の和田義盛へも協力を仰ぐべく、配下の堀 親家(ほり ちかいえ)を使者に立てて渡した。
しかし、双人とも北条方に与していたことから、御教書は義盛によって時政へ届けられ、悲運にも親家は時政に捕縛され、工藤行光に斬り殺された。
生きながらにして歴史から存在を抹消された頼家
藤原家実が著した「猪熊関白日記(いのくまかんぱくにっき)」によると、時政は朝廷(後醍醐天皇)へ次のような申し出状を送ったとある。
『9月1日に将軍・頼家が病死したので、千幡に征夷大将軍号の宣下をお願い申し上げたい』
ここで驚かねばならないのが、この手紙が書かれた時の頼家は病床にはあったもののまだ息があり、文面では9月1日に頼家が病死したことになっている事。
しかも9月1日といえば、時政が比企能員を暗殺する前日もしくは当日にあたる。(比企館へ軍勢が差し向けられたのが9月2日)
さらに驚くのが、申し出状が朝廷のもとに到着したのが9月7日とされることから、書状を持った使者が鎌倉を出立したのが9月1日もしくは、2日と推定されるという事実。
この内容が事実なのであれば時政は綿密に練られた計画のもとに能員殺害計画を遂行していた、もしくは相当に臨機応変に立ち回ることのできる切れ者だったことになる。
やがて景時と能員という2つの巨塔(後ろ盾)を失った頼家にも時政の魔の手が忍び寄る‥。
9月7日のこと。頼家のもとへ訪れた政子は唐突に出家(僧侶)するように命じた。
これは自腹を痛めて産んだ我が子を思う母の母乳 愛‥‥ではなく「母性愛」!!の表れであり、…ふぅ。”母乳の呪ぃ” 一説には時政が頼家暗殺を企ていたことを察知した政子の知恵だったと云われる。
そして時政の思惑通り、9月15日に朝廷より千幡(実朝)に征夷大将軍の宣下がもたらされた。
これにより、頼家は将軍どころか、この世に存在しない人物になったことになる。
こぅして行き場を失った頼家は将軍の椅子から遠ざかることを余儀なくされ、9月21日、時政と広元との評議によって正式に鎌倉から追放処分が下った。
その後、頼家は政子の図らいで伊豆の修禅寺(すぜんじ)へ入寺する運びとなる。
そして晴れ々々、実朝(千幡)が3代将軍に就任すると時政は政所の別当に就任し、いよいよ執権としての手腕をふるっていくことになる。
こぅして頼家が修禅寺に入寺した事実を以って比企の乱は一応の終焉を迎えた‥‥ハズだったのだが‼️
1204年(元久元年)7月18日、修禅寺で僧侶となった頼家が何者かに暗殺されると云ぅ一報が幕府へもたらされた。
吾妻鏡にも頼家の死因については一切、記されておらず、愚管抄(ぐかんしょう/鎌倉初中期に編纂)には入浴中に刺客の襲撃を受けて抵抗したが、是非も無く、刺殺されたと記されている‥‥が、しかし!
いずれにしろ、現在に到るまで頼家の死因は不詳とされてい‥‥‥申す。シュチュゥェンジっ(”修禅寺”を表現)
以上、頼家の死ににより、比企の乱は比企一族の滅亡という形で結末を迎えたのだった。比企一族はわずか1日で滅んだことになる。
愚管抄(ぐかんしょう)に見る逆説の比企能員の変
現在まで鎌倉時代を語る上で重要視される吾妻鏡は、北条氏ゆかりの者が著したとされているが、実は比企能員の氏族が著したとされる書物も存在し、それが「愚管抄」になる。
北条氏によるクーデター
この愚管抄では吾妻鏡とは逆のことが書かれており、吾妻鑑では比企能員と頼家が謀略をはべらせて北条氏を殺害しようとしたとする一方で、愚管抄では北条時政が比企一族(比企能員)に対して、一方的に攻撃を仕掛けてきた時政による突然のクーデターであると書き記す。
頼家は大江広元の屋敷で病に倒れた
愚管抄によると頼家が病気になった後、次代将軍について頼家から長男(息子)の一幡丸に譲位するとだけ記されるのみで、吾妻鏡に記される分割譲与についての話など、一欠片も出てこない。
それと愚管抄での頼家は大江広元の屋敷で病に倒れたと記されてい‥‥‥申す。ガハっ
確かに吾妻鏡の政子が障子の際から頼家と能員が謀議を交わしているという話も、偶然にしてはタイミングが良すぎるし、そもそもいくら頼家の一の郎党である比企能員とはいえ、鎌倉殿である頼家の寝所で、しかも病床にある頼家と謀議を交わすなど出来ようか?
‥‥‥という疑問が生じる。
比企邸へ送り込まれたのは官軍ではなく北条氏の私兵
吾妻鏡では北条政子が比企能員を謀反人とし、幕命によって官軍(幕府軍)を比企館へ送り込んでいるが、愚管抄によると北条氏の独断による殺戮行為であると記す。
一幡丸は生きていた
また、吾妻鏡での一幡丸は焼死したことになっているが、愚管抄では母に抱きかかえられて脱出することに成功し、(後に殺害されるが)しばらく生きていたとしてい‥‥申す。ギャヒェっ(殺害だけに)
以上、吾妻鏡は鎌倉時代の有力な史料とはなるが、信ぴょう性に欠けるものがあり、真実は闇の中と言わざるを得ない。
ただ、冷静に考えていくと一幡丸が生まれたことによって比企能員が権勢を誇るようになり、やがて北条時政を脅かす存在になったことから、時政が能員を殺害する方向に動いたとする方が話の辻褄は合ぅ。
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