【比企能員の墓(比企能員邸跡)】比企能員とは❓|鎌倉(比企ヶ谷)妙本寺

比企能員の墓とは❓

日蓮宗の宗祖「日蓮」が創祀した鎌倉は妙本寺境内の祖師堂脇には、比企能員とその比企一族の墓が佇む。

⬆️妙本寺・祖霊堂 …それぃ❗️..どぅ❓ …..。….え?

墓とはいえ、苔むした五輪塔と暮石が数本、建つのみであり、それがかつて鎌倉幕府内で栄華を誇った比企一族の墳墓とは誰も思わなぅぃ。

⬆️噂のウワサの比企一族の墓

妙本寺に比企氏一族の墳墓がある理由は、妙本寺が建つ場所こそ、かつて比企一族の邸宅があったからに他ならぬぅぁぃ。




比企能員とは?

「比企能員」とは「ひきよしかず」と読み、元来、藤原氏流の氏族である(自称・藤原秀郷の末裔)と伝わるが、比企氏の系譜については謎が多い。

それゆえ、系図によっては相模の武家波多野氏の末裔と見なされたり、阿波(もしくは安房)の国人だと云われる説もある。

なお、吾妻鏡には「比企尼の甥っ子」と記されてい‥申す。ギャヘっ

平安末期頃から鎌倉初頭にかけては、この鎌倉以外にも武蔵国 比企郡(ひきぐん/現在の埼玉県比企郡と東松山市)を領有した武蔵国最大の豪族とされるが、実際のところ比企氏の所領については文献上に見るかぎり、大豪族とは言い難い。

比企氏の所領一覧

武蔵国比企郡、信濃国目代&守護、上野国守護‥‥etc

比企能員は父親は比企郡の代官を務めた「比企 掃部允 遠宗(ひき かもんのじょう とおむね /※「掃部允」は官職)」であり、かつては在京(京都)の官吏だった。

話は少し逸れて、1159年(平治元年)の平治の乱(平清盛と源氏の戦争)の折、頼朝卿は2人の兄を戦で失い、父・源義朝は自らの郎党に謀殺されると、その長子たる14才の頼朝は平家方に捕縛され、清盛の御前へ連れ出された。

本来ならば源氏の嫡流とだけあって死罪は免れなかったが、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)の口添えによって死罪を免れ、その代わりに伊豆へ”配流”されることとなり、伊豆国は蛭ケ小島へ”入る”運びとなった。 ……。…?…ふぅ。

それと並行する形で比企 掃部允は武蔵国比企郡の郡司職に補任され、自らの妻子を随伴させて都から当地へと下向した。(一説に乳母として頼朝卿の世話をするためとも)

比企一族を繁栄に導いた「比企尼」とは❓

実のところ、頼朝卿には複数人の乳母の存在が確認されているが、その中の一人に比企掃部允の妻である「比企尼(ひきのあま)」の名前がある。

乳母とは母乳を射出させる乳首をチュウチュウと吸引されてお乳を乳飲み子にタ〜っぷりぷりぷりプリキュアなほど与えるが、主人から預けられた子を一家総出で献身的に育て上げるのがその役目となる。どんな度合いや

それら頼朝卿の乳母となった複数人の熟女たちはいずれも頼朝卿を我が子のように可愛がったと云われ、それは比企尼も例外なく、頼朝卿を我が子同然に可愛がったと伝わる。

吾妻鏡の寿永元年10月17日条にはそのことがよくにじみ出ている記述があり、流人となった頼朝卿に1180年(治承4年)秋までの約20年もの間、米を送り続けたことが記されてい‥‥‥申す。シオョキョっ(”仕送り”を表現)

乳母夫妻は乳飲み子が元服するとその良き相談役となり、自らの息子たちは乳兄弟(ちきょうだい)として新たな主人となる乳飲み子に奉仕させる。

一方、元服した乳飲み子の方も、もっとも信頼のおける家臣として乳兄弟を重用する。

それゆえ、自らの3人の娘婿たち(のちの安達盛長・河越重頼・伊東祐清)の他、盛長の推薦にて中原光家(なかはら みついえ)、藤原邦通(ふじわらの くにみち※のちの「藤判官代」)らも頼朝卿に奉仕するようにと命じた。

娘婿の3人のうち安達(藤九郎)盛長(この当時はまだ「小野田」姓)は、後に北条幕府の根幹を担ぅ、13人の合議制のメンバーに選出されているが、頼朝卿の流人時代は比企尼の命令を忠実に守り抜き、頼朝卿の身の回りの世話をよくしたと伝わる。

比企能員の比企家当主就任

比企氏は男子に恵まれなかったこともあり、比企尼は自らの猶子として比企能員を迎え、比企家の家督を継がせた。

以後、比企一族は比企能員を筆頭として、頼朝卿への忠節を誓ぅことになる。

頼家の乳母夫に任ぜられた比企能員!幕府内で権勢を得る

頼朝卿は比企尼の恩を終生忘れなかったと云われ、その一端が垣間見えるのが、1182年(寿永元年)に比企能員を自らの嫡子「頼家」の乳母夫に任じたことにある。

それだけにとどまらず、比企能員の娘である若狭局を頼家の妾(側室)とすることを容認し、やがて局は嫡子たる「一幡」を産む。

これにより能員は、次代当主となる頼家の嫡子「一幡」の後見役ともなり、幕府内部の御家人衆の中での権威や地位は跳ね上がった。

その跳ね上がりようは、もはや琵琶湖のブラックバスが跳ね上がる程度では済まなくなったと云われる。…その跳ね具合が知りたぃ! …誰が云うねん




比企能員と頼朝卿との関係(家系図)

画像引用先:朝日新聞社「週刊朝日ムック」より

この家系図を見れば分かるが、比企寄りの一幡(一幡丸)が仮に3代目将軍=鎌倉殿になった場合、北条氏よりも比企氏の方が権威が増すのは必定。

それだけにとどまらず、ヘタ打てば北条一族が比企氏に滅ぼされるかもしれなぅぃ。

そこで時政と政子は、実朝の乳母であり時政の娘っ子である阿波局を利用し、北条寄りの実朝を3代目将軍に担ぐ(擁立する)計画を立案する。

実朝を3代目将軍に据えるためにはまず、比企一族を葬り去ることが必須条件だったが、時政は一幡の乳母夫であった相模最大の豪族である三浦義村に目をつけ、義村を懐柔(かいじゅう/自勢力に取り込む)する手はずを整え始めた。

1203年(建仁3年)8月4日、時政は三浦義村を土佐国守護に任命する旨の下文を義村に送りつけ、義村はこれを無言で受け取った。義村はおそらく時政か政子が認めたものだと分かっていたため、この快諾は北条氏に加担することを意味した。

義村が北条氏に加担した理由はまだ他にあり、時政の嫡孫(義時の長子)にあたる北条泰時と三浦義村の娘っ子(のちの矢部尼)が結婚していたことから、両家は婚姻関係にあった。

それと義村が勢力を増大させる比企氏に対し、警戒心を抱いていたこともその理由に挙げられる。

ただ、問題となるのはこの下文の送り主。この当時、守護を任命できる権限を有するのは鎌倉殿のみであり、つまりは「将軍頼家」が送り主になるのだが、この当時、頼家は病床に在ったため、おそらく時政と政子のいずれかが頼家の名前を騙って(かたって/利用して)書いたものとみられてい‥る。ピクっ

これで比企との一戦を交えた際にも隣国である三浦半島から陸路と海路とで三浦勢を送り込むことが可能になり、まさに「いざ鎌倉!」として大軍を短期間のうちに鎌倉市内へ投入できることになる。

また、それとは別の吉報が時政の元へともたらされるが、それこそが能員と頼家による時政殺害の謀議の事実を政子が知った事になる。

これが起点となって幕府内の権力者である大江広元をも抱き込むことが可能となり、比企一族掃討の地盤は強固なものとなった。

時政と政子は広元を交えての謀議を重ねた結果、仏像の完成供養を執行する名目で能員を自邸に誘い出し、謀殺する計画が遂行されることになる。

なお、不思議なことに比企尼と比企遠宗の間には比企朝宗という息子がいたとされるが、能員が殺害された後、比企の名跡を継いでいないが、朝宗の娘が北条義時に嫁いでいる。

比企能員の墓の場所(地図)

鎌倉駅から妙本寺までのルート

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鎌倉駅から妙本寺までは歩いて10分圏内なので歩くのがオススメ💘

はじめて鎌倉へ来た方は本覚寺の境内を通り抜ける形で巡拝するのがベスト

妙本寺境内への入口はココ💘

鎌倉駅から本覚寺へお参りしてから妙本寺へ訪れる場合、滑川(なめりかわ)に架かる橋を渡ってくることになるが、上掲写真は滑川の橋を渡ったところで妙本寺の方を向いて撮影したもの。

左端にはこの先にお寺があることを示すような、お題目(南無妙法蓮華経)が刻字されたクソでけぇ石標が見える。




途中の坂道は映画のロケでも使用される💗

⬆️途中の坂道は映画「午前0時にキスしに来てよ💋」のロケ地💕

0キス(Amazon)

妙本寺境内図

妙本寺境内は縦に長げぇぃが、幅はそ〜れほど無ぇ印象があるので迷うようなことはねぇだろぅ。….急にどないしてん

ただ、比企一族の墓周辺には似たような墓がいくつもあるので、暮石の刻字を確認する必要はある。

妙本寺入口(総門)に建つ「比企能員邸址」の石碑

毎度おなじみ!鎌倉町青年団が建てた石碑が建つ。

碑文の内容

能員ハ頼朝ノ乳母比企襌尼ノ養子ナルガ
襌尼ト共ニ此ノ地ニ住セリ此ノ地比企ヶ
谷ノ名アルモ之ニ基ク能員ノ女頼家ノ寵
ヲ受ケ若狭局ト稱シ子一幡ヲ生ム建仁三
年頼家疾ムヤ母政子關西ノ地頭職ヲ分チ
テ頼家ノ第千幡ニ授ケントス能員之ヲ憤
リ密ニ北條氏ヲ除カント謀ル謀泄レテ郤
ツテ北條氏ノ為一族此ノ地ニ於テ滅サル

大正十二年三月 鎌倉町青年團建

大まかな意味

能員は頼朝卿の乳母である比企の尼の養子となるが、比企の尼と共にこの地に住むことになり、この地(谷戸)は「比企の谷」と呼ばれるようになった。

能員の娘の若狭局は2代将軍・頼家の寵愛を受け、一幡を生むも翌年(1203年/建仁3年)に頼家が生死の境をさまようほどの病床に伏す。

頼家の母政子は頼家亡き後の遺産分割として、関西の地頭職を時政の甥っ子(頼朝と政子の次男坊)となる千幡(後の3代将軍・実朝)へも遺産が分配されるよに仕向ける。

能員は嫡流筋(頼家の長子)の一幡がすべてを継承することが順当だとしたことから、北条氏を排除すべく時政誅殺を画策するが、逆に時政に謀殺され、この地(比企の谷)にて滅び去る。

比企谷・妙本寺のINFO

所在地:〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町1丁目15−1

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