鎌倉 妙本寺「蛇苦止堂」
読み方:じゃくしどう
御祭神:蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)
蛇苦止堂とは?
蛇苦止堂は目と鼻の先にある妙本寺(みょうほんじ/鎌倉 比企谷)の鎮守神(守り神)である蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)を奉斎した堂になる。
妙本寺とは❓
妙本寺は1260年(文応元年/鎌倉時代)に日蓮聖人が開山、その弟子となった比企一族の比企能本(ひき よしもと)を開基として開創された寺院となる。
山号を長興山、寺号を妙本寺と称す。山号の「長興」は比企能本の父親へ、「妙本」は母ジャへ贈った法号と伝わる。
以来、昭和16年まで池上本門寺(日蓮聖人が入滅した霊跡)と、妙本寺は日蓮宗の本山格に位置付けられ、日蓮宗の信仰の中心地となった。
なお、開山については日蓮聖人の直弟子である「日朗聖人」を開山として創建されたという説もあるが判然としない。妙本寺の寺伝では日蓮聖人が開山と記されてい‥‥‥申す。パキャっ
御祭神「蛇苦止明神」の正体
蛇苦止明神の正体は、頼家の側室となった比企能員(ひきよしかず)の娘である讃岐局(さぬきのつぼね)とされる。
実は比企能員にはもう1人、若狭局(わかさのつぼね)と呼ばれる娘っ子がいて、後世では讃岐局と若狭局は同一人物とみなされているが、そうではなく、まったく別々の人物であり、姉妹だったとされる。
若狭局とは?
若狭局は生前、北条氏(北条時政&北条義時)の謀略によって父・比企能員や、息子・一幡丸(いちまんまる)と共に命を落とした悲運な運命を歩んだ人物。
北条氏が比企能員および、その一族を滅ぼした理由は、頼家と若狭局の嫡子であるとともに3代目将軍と目された一幡丸が誕生したことにより、比企能員の権威が高まり、自ら(北条氏)の立場が危ぶまれたことにある。
讃岐局とは?
讃岐局のことを詳しく記した資料がなく、その人物像は謎とされる。実在する人物なのかすらも不明。
北条政村の娘に取り憑いた讃岐局
上記、比企一族が滅ぼされた政変は現在、「比企能員の乱」や「比企能員の変」などと通称されるが、この乱より50年ほど時代を下った後の1260年(文応元年)10月15日のこと。
北条義時の息子であり、当時の鎌倉幕府第7代執権「北条政村(ほうじょう まさむら)」の娘は、蛇のように舌を出して唇を舐めまわし、腰を落として足を小刻みに動かし、それこそまるで蛇のような動きをし始めた。
そして、次のように話はじめたとされる。
「わらわは北条に恨みがある者。名を讃岐局と云う。ゲハっ 頂に大いなる角を持ち、大蛇に身をやつし、比企谷の地中で苦しみ続ける‥」
日蓮聖人と比企能本が創建した説
妙本寺の寺伝によると、この讃岐局の弟(比企能員の末子)こそが妙本寺の開基とされる「比企能本(通称・日学聖人)」であり、能本は師である日蓮聖人に相談しに行くと、日蓮聖人は讃岐局の怨霊を法華経の法力によって慰めたのだった。
そして讃岐局に明神号を与えて「蛇苦止明神」とし、多くの人々のためにその力を使うようにと諭し、当地に奉斎(ほうさい/=まつる)したとされる。
以来、毎月1日(正月は2日)に例祭を執行し、現在も変わらずに信徒と共に法華経読誦唱題が継続されてい‥‥‥申す。ジャクシゥィっ(”蛇苦止”を表現)
なお、故事にはもう1つ次のような説も存在する。
北条政村創建説
讃岐局が正村の娘に憑依した後の11月27日のこと。正村は1日こもって経典を頓写し、夜に鶴岡八幡宮・若宮の別当「隆弁」に請い、加持祈祷を行った。
加持が終わった瞬間、娘は惆然(ちゅうぜん/がっかりと肩を落として悲しみ嘆く)し始め、気を取り戻したとされる。
その後、讃岐局の御霊を鎮めるべく、一宇の堂を建立し、「蛇苦止明神」の号を贈ったと云われる。
蛇苦止明神のご利益
蛇苦止明神は妙本寺の総鎮守神であるとともに法華経を信仰する人々、参拝に訪れる人々の願いを聞き届けてくださり、護っていただける明神として今日も変わらずに尊崇が寄せられる。
蛇苦止堂(蛇苦止明神)の例祭日
- 例祭:毎月1日
- 大祭:正月2日(開催場所は本堂)、5月1日(開催場所は蛇苦止堂)、9月1日(開催場所は蛇苦止堂)
蛇苦止堂(蛇苦止明神)の開運祈祷会
前述のとおり、妙本寺では毎月1日になると、守護神である蛇苦止明神の霊験ある利益をいただくべく、日蓮宗に伝承される秘法のもと、開運祈祷会がの厳修される。
参加資格
特になし。当日の申し込みの可能とのこと。1人でも多くの方々の参列をお待ち申し上げているとのこと。うきゃ
開始時間
毎月1日、午後2時より
開運祈祷会のご利益
- 家内安全、身体健全、商売繁盛、発育増進‥‥‥etc
蛇苦止明神は豪雨を降らせた故事があることから、農家を営む人々は時に嬉しい「雨ふらし」、はたまた、蛇神で日蓮聖人ゆかりの曼荼羅図(寺宝)を守護した功績から蓄財の利益もあるとされる。
祈願願目
家内安全、身体健全、当病平癒(病気全快)、除災得幸、商売繁盛、社運隆昌、交通安全、学業成就、発育増進、良縁成就、除厄開運、心願成就 ‥‥‥etc
一幡丸のお墓(一幡之君袖塚)もある!
隣地に建つ、妙本寺境内には若狭局の子「一幡丸」が、最後を迎えるその時まで着用していた着衣の袖が祀られ五輪塔がある。
現在、この一幡丸の墓は「一幡之君袖塚」と名付けられ、妙本寺境内の祖師堂を向かい見て右手前に建てられ、大切に管理されてい‥‥‥申す。バヒャっ
手水舎
付近の住民が置いていったカップやペットボトル、そして缶ジュースだろぅか。ホースが蛇口に設置されているところ見ると管理者がいて現在も大切にされている様子がうかがえる。
なお、石像の前に見えるのは手水鉢。そぅ!分かりづらいが、ここは手水舎なのである!
蛇形の井戸(蛇苦止井戸)
一説には比企能員の変(乱)の折、北条義時軍に追い詰められた若狭局は、この井戸に身投げしたと伝わる。(他に池という説や、一幡を抱きかかえて焼死したという説もある)
別名「蛇形の井戸(じゃぎょうのいど)」とも云われる。
現在は写真のように覆屋が新造され、真新しい雰囲気がある。
関連記事:蛇形の井戸(蛇苦止堂)|鎌倉 妙本寺
名もなき石像
女神を象った観音像か。台座には以下のような刻字が見える。
「先祖源氏肉親相剋(相剋そうこく=対立関係にある者同士が互いに相手に勝とうと争うこと。)」
「宿業一切罪障消滅(前世の罪障の一切の消滅)」
どうやら前世となる源氏一門が過去に犯した罪障の消滅を今現在、祈願するためにこの石像を奉納したのだろぅ。
お稲荷さん❓何かの祠
覆屋の中には朱色の鳥居と手前に陶器製のキツネ像が左右に2体見える。
だとすれば‥‥‥お稲荷さんか?
蛇苦止堂(蛇苦止明神)の境内図
「名もなき祠」の右側に「蛇形の井戸(蛇苦止井戸)」がある。
比企能員の乱(変)については下記ページを参照💘
蛇苦止堂の場所と行き方については下記ページを要‥チェックやでぃ!
関連記事:【蛇苦止堂】の場所と行き方|鎌倉 妙本寺
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