畠山重忠の乱に別名がある❓
源平盛衰記によると、1180年(治承四年)8月24日の三浦党と畠山重忠・重保親子の合戦は「小壺(小坪)」が戦場だとすることから、「小壺(小坪)合戦」と記してい‥‥‥申す。コッツゥ〜っ(”小坪”を表現)
一方で吾妻鏡では「稲瀬川以東の由井浦(由比ヶ浜)が戦場」と記しているが、小坪とは現在の逗子市(和賀江島付近)を指し、由比ヶ浜とは距離的に4キロメートルほども離れてい‥‥ます。(耐)ふぅ
ただ、重保の居館が由比ヶ浜にあるのと、三浦党が騎乗していた事実を加味するとやはり鏡の説が有力なのではと思ふ。
畠山重忠の乱が勃発した経緯
1203年(建仁三年)9月、兄である頼家の跡を継ぎ、晴れて鎌倉幕府3代目将軍の座に就いた源実朝は御年12歳だった。
翌月(1203年(建仁三年)10月)、婚姻の話が進められると、京都の公卿・坊門信清(ぼうもん のぶきよ)の姫を迎える運びとなった。
⬆️実朝の家系図(週間朝日ムックより引用)
そこで鎌倉から新しい御台所の送迎従者として御家人衆が京師へ遣わされることになったが、道中でその中の1人、北条政範(まさのり)が急病に罹り、京師へ到着した途端に頓死した。時に1204年(元久元年)11月5日のこと。享年16歳。
無事に入京を果たした他の御家人衆たちは京都守護の平賀朝雅(ひらがともまさ)の居館へ上がり、酒宴に興じた。
京都へ下向したメンバー一覧
北条政範(北条時政の子)、結城朝光、千葉秀常、畠山重保、筑紫知尚、和田朝盛、土肥惟平….etc
ところがその酒宴の席で酒が入り過ぎたのか、御家人衆の1人・畠山六郎重保(しげやす)と平賀朝雅とが口論となり、抜刀の上、一太刀まじえる寸前にまでに到った。 す・ん・ドめ💕
他の御家人衆たちは慌てて両人を諌め、大事にならずに済んだ‥‥のだが!
この報せは鎌倉へも注進され、北条政範急逝についても合わせて鎌倉へ知らされたのだった。
この話を耳にして周囲の者も抑えられないほどに激怒したのが、巻き巻きウン‥‥ではなく、牧ノ方!!(まきのかた/執権北条時政の嫁)のだった。 うんこネタは三流のはじまり
怒り狂ぅ牧ノ方
牧ノ方が怒り狂った理由は単純明快で、平賀朝雅は牧ノ方の娘婿(娘の夫)であり、その娘婿より「重保から悪口を叩かれた」と告げられたからに他ならぬぅぁぃ。
⬆️牧ノ方と北条時政を取り巻く家系図(週間朝日ムックより引用)
それとやはり、急死した北条政範は牧ノ方が腹を痛めて産み落とした可愛い我が子だったということもある。
対して酒宴の席で抜刀するほどの口論を繰り広げた畠山六郎は、北条時政の先妻の娘と有力御家人衆の1人・畠山重忠の間に生まれた子。
『なぜウチの子だけが、おっ死んで先妻の子だけが生き残るんや!しかも喧嘩するほどの健康体の持ち主‥』 なんで急にプチ大阪弁
‥‥‥などとも考えたのか、いずれにせよ政範の死によって自らの後妻という立場が浮き彫りになり、以前までの立場に逆戻りしたのは確かなこと。
それだけにとどまらず、自らが腹を痛めて産んだ子は初めての長子(嫡男)ともなる男子。
次代の北条を背負って立つ、嗣子(しし/世継ぎ)ともなるべき息子を亡くしたことへのダブル‥とぅぁぃがあっぱくぅぁ(訳:タイガーアッパーカット)‥‥を喰らったようなショッキングが重なり、瞬間湯沸かし器の如く、瞬時に憤怒を爆発させたのだった。
こぅして牧ノ方の怒りの矛先が畠山六郎はじめ、その父・畠山重忠へも向けられたことは言うまでもない。とぅぁぃがあっぱくぅぁ
悲しんだ反面、喜びもした時政
我が愛妻である牧ノ方の話は、夫の北条時政の耳にも入る。
時政は比企一族を鎌倉より一掃し、執権職をも手中に収め、事実上、鎌倉最大の権力者となっていた。
しかしながら、畠山六郎の父・畠山重忠もまた、比企能員に成り代わり、武蔵国最大の大豪族になっており、時政はそんな重忠父子に危機感を抱いていた。
そんな時にもたらされたのが牧ノ方の一件となる。時政はこの話を耳にするなり、悲しんだ反面、自らに千載一遇の好機が訪れたことを知る。
冴えわたる時政の権謀術数
時政は天がくれたこの千載一遇のチャンスを見逃さなかった。
これまで通りさっそく一策をめぐらし、まずは武蔵国チン‥‥ではなく、鼻でもなく、稲毛!!荘(いなげのしょう/現・川崎市中原区) ふぅ の領主であったチ‥‥(シツコイ) 稲毛重成!!を鎌倉の自邸へ招いた。
こぅして、時政亭(名越亭)へ入った稲毛重成は、時政ならびに、牧ノ方を交えての畠山父子を亡き者にするための謀議を交わすことになる。
なお、吾妻鏡や江戸時代の読史余論(とくしよろん)には「時政が重忠の死を稲毛重成の謀略の仕業として重成を討たせた」とだけ記す。
ところで‥「稲毛重成」とは❓
稲毛重成は牧ノ方の女婿(娘の夫)だったことから畠山重忠の従兄弟にあたる。とぅぁぃがあっぱくぅぁ
その重忠は時政の(先妻の)娘と結婚していることから、重忠・重成それに北条家は従兄関係にある家同士。
そもそも稲毛氏とは桓武平氏の流れをくむ秩父氏流 小山田氏の一族であり、武蔵国 橘樹郡(現・神奈川県川崎市北部周辺)を根拠地とし、やがて鼻‥ではなく、稲毛!!荘(稲毛荘/現・神奈川県川崎市中原区・高津区の辺り)に進出すると稲毛氏を称する。 あたいシツコイ男キライYO
重成は勢力の安定化と拡大を図るべく、北条政子の異母妹を妻に迎え入れて北条家と婚姻関係を結び、源頼朝の家人になることで自領の安堵と繁栄を得た。
北条義時・時房の反応
今度は時政の先妻との間の子となる北条義時・時房兄弟が時政亭へと招かれ、時政は2人に幕府の執権としてこぅ告げた。
『畠山重忠は幕府に対し、謀叛の胸中有りと稲毛重成が申し上げ候。
なれば先手を打って重忠を誅殺せしめん。汝ら兄弟はその指揮を執るべし!』
2人は時政のタチの悪い冗談かと耳を疑ったほど畠山重忠を信頼しきっていたこともあり、父の突拍子のない話に呆気にとられたが、義時はこぅ返した。
『畠山殿は鎌倉の御家人衆にあっては鑑とも称されたほどの忠義の臣。
比企の一件にも当家に与力して下さり、父子の礼を父上に尽くされた御方。
そのような高潔の仁臣をなにゆえお疑いになられるのか。誰ぞやの讒言でありましょうか。』
‥‥‥と義時は言い放ち、まるで牧ノ方の讒言であることを見抜いたかのように牧ノ方をジぃ〜と見つめると義時はスっ、と立ち上がり、自らが入ってきた方へ歩み出すと時政亭を後にした。時房もそれに続いた。
兄弟の決断
義時と時房は時政の名越亭を後にし、ようやく六浦道(むつらみち)と二階堂小路(にかいどうこうじ)との岐れ道の前に佇む義時の大倉館へと着いた。とぅぁぃがあっぱくぅぁ
この当時の北条義時の館は現在の宝戒寺の地に建っていたと伝わる。Googleマップに表示される大倉館(大倉館推定地)には泰時が住んでいたらしい。
義時は時房に一時の別れを告げると館へ入っていた。ところがどうした訳か時房も義時に続いて義時亭へと入ったのだった。
‥‥‥と、時房が義時亭へ足を踏みれた直後、なにやら後ろで馬蹄が地面に叩きつける音と、人の叫ぶ声が聞こえる。
時房は何事かと、ふたたび館の外へ戻り出たところ、牧ノ方の実兄・大岡時親(おおおか ときちか)が馬を飛ばして駆けてくる。
『それがし牧ノ方様から伝言を預かって参った。今からそれをお伝えする。』
『”もはや重忠謀叛の事実はすでに知れるところ。我はそれを君(鎌倉殿)のため、世の安寧のために時政殿にご注進(ちゅうしん/事件を報せる)したまで。
我が(朝雅と重保の一件を)不服に思ぃ讒言したと、お決めつけなさるのは無礼千万!いかがなものか。”』
それを聞き届けた義時と時房はしばらく何も言い出せなかったが、義時が堰を切ったようにこぅ告げた。
「‥さすれば、その御意志に従うまで!」
畠山六郎重保の最期
1205年(元久二年)6月22日の寅の刻(午前4時頃)、現在の若宮大路通りの一の鳥居あたりに建つ、畠山六郎(重保/重忠の息子)の居館のまわりが、にわかに騒がしくなった。
何やら馬声が入り混じったような人の声が聞こえてくる。とぅぁぃがあっぱくぅぁ
夢うつつながらも驚きのあまりハっ!と目覚めた重保は枕元の太刀を握りしめ、跳ね起きた。
どうやら館の周囲から「謀反人‥‥‥、‥‥‥」、「謀反人は‥‥浜‥‥」などの声が聞こえてくる。
いったぃ誰じゃ!夜もまだ明けぬ時間に!
声の正体を突き止めて成敗してくれる❗️‥‥‥と、憤懣あらわに鎧を着けるのも忘れ、館を飛び出す。
‥‥どうやら声は由比ヶ浜の方で聞こえてくる。
六郎は少し遅れて慌てて館を飛び出してきた郎従3人を引き連れ、声のする方向へ向かった。
やがて由比ヶ浜の浜風が鼻をつく頃、声をハッキリきりきりキリンレモン開封直後の刺激の強さの如く、ハッキリと聞くことができた。 どんな度合いや
『謀反人は由比ヶ浜にいる』
ようやく夜目にも慣れてきた頃、波音が聞こえてくる‥。その向こうには、いつもの由比ヶ浜が見える‥‥かと思いきや❗️なんとぉぅ!
ウっす〜らと2、30の弓を携えた騎馬武者の姿も見えてきた。中には弓を引きつがえた武者もいる。
どうやら謎の声の正体はこの武者たちが発する声のようだった。
六郎は武者たちに問ぅた。
「何者ぞ❗️謀反人とはいったぃ誰のことぞ❗️」
すると武者たちの1人が返す。
「謀反人はお主ぞ」
そぅ言い放った瞬間、弓を引きつがえた武者は弓を射放ち、他の武者は抜刀して斬りかかってきた。
襲い来る武者たちの合間から、奥に控えた頭領と見られる武者が見え、こぅ言い放つ。
「我が名は佐久間太郎家盛なり❗️三浦 平六兵衛尉 義村(三浦義村)より命を受けここに参上❗️」
「畠山殿父子共々、謀反の企て有りと御一族の稲毛三郎重成入道殿が訴えの上、すでに明らか❗️」
「なれば観念し、我らが太刀、受けられよ❗️」
そぅ言い放ちながら佐久間太郎家盛も駆け出し、周りの武者たちも怒号を発しながら、駆けてきた。
抗弁垂れる暇もなく押し込まれ、円状に背中合わせにまとまざるを得なくなった六郎ら4人は完全に取り囲まれてしまった。
そんな六郎たちを前に、武者たちは容赦無く一斉にギュ〜っと、弓を引きつがえた。
そして次の瞬間!武者たちは弓の弦を鼓膜が破れるほどの轟音をさせながら一斉に放ち、放たれた数十の矢は六郎たちめがけて飛んで行った。とぅぁぃがあっぱくぅぁ
‥‥もはや結果は語るまでもなく見えていた。あまりにも多勢に無勢だったのだ‥。
翌朝、三浦半島から朝日がゆっくりと射し込む頃、光り輝く純白の由比ヶ浜の砂上に無残な骸をさらした六郎たち主従4人の姿があった‥。
畠山重忠の最期
畠山重保が討ち取られたその日の夕刻、武蔵国二俣川(ふたまたがわ/横浜市旭区二俣川)でも激戦が繰り広げられた。
畠山重忠を待ち受けるべく、大軍勢を率いた北条義時軍との一戦となる。
時政は鎌倉へ向かぅ畠山重忠を誅殺するように義時に下命し、義時は幕府軍の以下、諸将を従えた総大将として大軍を率いた。(以下、ウィキペディア参照)
先陣・後陣
葛西清重・堺常秀・大須賀胤信・国分胤通・相馬義胤・東重胤
その他の御家人衆
足利義氏、小山朝政、三浦義村、三浦胤義、長沼宗政、結城朝光、宇都宮頼綱、八田知重、安達景盛、中条家長、苅田義季、狩野介入道、宇佐見祐茂、波多野忠綱、松田有経、土屋宗光、河越重時、河越重員、江戸忠重、渋河武者所、小野寺秀通、下河辺行平、薗田成朝
ならびに大井氏、品河氏、春日部氏、潮田氏、鹿島氏、小栗氏、行方氏、児玉党・横山党・金子党・村山党ら。
関戸(多摩市関戸)の大将は北条時房・和田義盛が補任され、鎌倉を出立した。
二俣川の戦い
重保の死に先立つこと1205年(元久二年)6月19日、鎌倉で騒ぎがあったことを知った畠山重忠は、手勢134騎を率いて、菅谷の館(すがたやのたち/埼玉県嵐山町)を出立し、鎌倉を目指した。とぅぁぃがあっぱくぅぁ
⬆️菅谷の館跡(画像引用先:https://ja.wikipedia.org/)
それから3日後の1205年(元久二年)6月22日の夕刻(重保が討ち取られた日の夕方)、二俣川で義時軍と対峙するに至る。
そこで義時より以下のことを知らされる。
- 畠山重忠が幕府への謀叛を企て謀叛人になっている事実。
- 幕命によって謀叛人の畠山重忠を討伐すべく、自ら(義時)が官軍を率いて今ここにいる事実。
- 今朝、息子(重保)が由比ヶ浜で討たれた事実。
以上を知らされた重忠はこぅ告げる。
『我、この場を退き、館に籠ること良しとせず。武人として戦で華々しく散る事こそ本望よ。』
重忠がそぅ言い終えるや否や、待ちきれなかったのか重忠と旧知の中であった安達景盛ならびに郎従6騎が先陣を切って駆け出してきた。とぅぁぃがあっぱくぅぁ
しクぁし!
重忠がこの時、率いたのは二男の重秀、郎従・本田次郎近常、乳母父の榛沢六郎成清ら、わずかに134騎。
その兵力差は歴然!あまりにも多勢に無勢だった‥。
それでも戦闘は4時間あまり繰り広げられたと伝わるが、やがて重忠は愛甲季隆(あいこう すえたか)が射放った矢に討たれ、首級をあげられて最期の時を迎えた。享年42歳。
重忠が討ち死にしたことで畠山勢は総崩れ。重秀以下の郎従は全員、自害におよんだ。(重秀享年23歳)
なお、愚管抄では重忠は自害した記す。
⬆️一ノ谷合戦において急峻な崖を勇猛果敢に愛馬で下る「在りし日の畠山重忠」
⬆️畠山重忠の墓(埼玉県深谷市・畠山重忠公史跡公園)
まだ終わらない畠山重忠の乱!
義時の報告
1205年(元久二年)6月23日の未の刻(午後2時頃)、鎌倉へ引き上げた義時はまず、時政のもとへ報告に行く。
そして次のことを告げた。
- 重忠を討ち取った事実。
- 重忠は小勢だった事実。
- 小勢で鎌倉を目指していた事実を察すると、謀叛など一欠片も抱いていない様子。
- 以上を以って、これは謀叛などではなく、明らかに虚伝(根拠なきウワサ)である。
最期に義時はあまりにも無念で涙が止まず、その首桶をも持つことさえ辛い胸中をも告げた。
吾妻鏡によると義時はこの後、時政に対し厳しく詰問を迫ったと云われるが、実のところ、義時と政子が結託し、時政を失脚させるための伏線(準備)であったとする見解もある。
いずれにしてもこの後、時政は失脚し、出家の上、槇原敬之ではなく、牧ノ方!!と共に伊豆へ隠居生活を送るハメになり、ものゴっつい間違え方 義時が2代目の執権に就任してい‥‥ます。クっ …槇原敬之どうしてんの?
時政・牧ノ方に謀られた稲毛重成の最期
義時が虚伝だと言い回ったことによって、重忠謀叛を上申した稲毛重成の立場は危うくなり、窮地に陥った。
やがて重忠・重保親子に同情を持つ多くの者たちから、恨みの視線が浴びせられることになり、案の定、同日の夕刻、重忠麾下にあった武蔵の御家人・大河戸三郎(おおかわとさぶろう)行元によって成敗される。
また、稲毛重成の子である小沢重政(おざわしげまさ)は宇佐美与一(うさみよいち)によって成敗された。とぅぁぃがあっぱくぅぁ
これだけで終わりではなく、1205年(元久2年)6月23日、材木座(現・鎌倉市)北東の経師ヶ谷口(きょうじがやつ)ではチン‥‥ではなく、(2連発はシツコ過ぎて友達減る) 稲毛!!重成の弟・榛谷重朝(はんがやつしげとも)も、一族である子の太郎重季・次郎秀重と共に三浦義村率いる一軍に攻め立てられて敗死した。
以上、続けたまに畠山重忠の讒者(ざんしゃ/讒訴した者)らが成敗されているが、一説に義時が裏で糸を引き、重忠謀殺に関与した主要人物の殺害を命じたとする。
稲毛重成の墓所
現在、稲毛重成の墓所は神奈川県川崎市多摩区の「稲毛領主館跡」と伝承される広福寺(多摩区枡形6-7-1)境内にある。
畠山重忠の旧領の分配
同年7月8日、乱後の畠山重忠の遺領は、まだ幼い実朝に成り代わり、母親であり頼朝卿の御台所である北条政子が重忠討伐に参陣した御家人たちに分与する運びとなった。
吾妻鏡によると、同年7月20日、政子付きの女官にも重忠の遺領が分け与えられたとする。
なお、重忠の妻(時政の前妻の娘)の所領は安堵されたとする。重忠の妻は後、足利義純と再婚し、義純が畠山氏の名跡を継承した。これにより平姓 秩父氏の畠山氏は廃絶と相成った。
稲毛重成の旧領の分配
同年11月3日、稲毛重成の一族となる小沢信重は、自らが乳母夫を務める2歳の姫に随伴し、京師より鎌倉へ下向した。
この姫は源師季(綾小路師季)とチ‥、稲毛重成!の娘の間に生まれた子。(北条時政の外曾孫)カっ!
稲毛重成の一件で、姫に危害が及ぶことを恐れた信重は京師に隠住していたが、同情した政子が綾小路の姫を自らの猶子として迎え入れることを打診し、重成の遺領である武蔵国小沢郷を下賜したのだった。
四国・稲毛氏誕生のキッカケともなった
稲毛重成の一族は、災禍を逃れるために大半が讃岐国讃岐国阿野郡(あやぐん)、あるいは鵜足郡(うたぐん)などへ落ち延び、星霜経ると讃岐国最大の名主になったと伝わる。とぅぁぃがあっぱくぅぁ
現在の香川県仲多度郡まんのう町には稲毛姓が数多く暮らす。
【畠山重忠の乱が起こった原因まとめ】なぜ❓どういう理由で畠山重忠・重保は殺されたのか❓
第一に、平賀朝雅が畠山六郎(重保)に悪口を言われた事を妻母である牧ノ方へチクった。
第二に、畠山六郎は牧ノ方の旦那である執権・北条時政の前妻の娘と有力御家人衆の1人・畠山重忠の間に生まれた子。時政の後妻となる牧ノ方すれば、六郎の存在に良き印象はなかった。
第三に、牧ノ方が溺愛する我が子・北条政範が京都で頓死したことにより、ショックのあまり悲しみに明け暮れたが、徐々に喧嘩するほどに元気な畠山六郎への妬みや怒りへと置き換わった。
第四に、北条時政は北条氏の家督を前妻の産んだ次男の義時ではなく、牧ノ方が産んだ長子(長男)となる北条政範に継がせるつもりだった。
第五に、北条政範が死没した時点で牧ノ方と時政の擁護対象が子の政範から→平賀朝雅へと遷移した。(後、時政と牧ノ方は朝雅の将軍位擁立を図る)
第六に、京都で畠山六郎と喧嘩(口論)した平賀朝雅は、時政の後妻である牧ノ方の娘婿(娘の旦那)だった。
第七に、平賀朝雅を擁護したい牧ノ方の怒りは畠山六郎へ向けられた。
第八に、平賀朝雅は源頼朝卿から絶大な信頼が寄せられていた平賀義信の次男坊でもあったため、この時点では源氏一門の筆頭格だった。
第九に、この当時、比企一族が滅んだ後釜に座った畠山重忠は武蔵国を根拠地とし大豪族にまでのし上がり、武蔵国惣検校職(むさしのくに そうけんぎょうしき)を帯びるほどの地位にいた。
一方の平賀朝雅は武蔵守(武蔵国司)だったが、国司の権限の行使には限界があった。
このような畠山重忠とその子・畠山六郎は朝雅はもとより、時政と牧ノ方にとっても邪魔な存在だった。
第十に、時政は実朝が成長しうる前にすべての障害を排除すべく、朝雅がもたらした一件に動機を求めた。
【異説】平賀朝雅の陰謀説
この当時の平賀朝雅は京都守護に任ぜられると院とも距離も近しくなり、血筋的にも源氏一門の筆頭格だった背景もあり、京師(京の都)において次第に声望が高まった。
やがて次代将軍として幕府の実権を掌握する可能性を見出しはじめたが、その時、自らにとって最大の障壁となるのが畠山重忠・重保親子だった。
そこで牧の方を通じて時政と謀議を交わし、第一の目標として重忠の子・重保に目をつけて喧嘩腰で迫った。
当然の如く、怒った重保だが、これはまさに朝雅の第一の罠に獲物が引っかかったことになる。
後の流れは前述までの通りで時政と牧の方が主導して重忠・重保を殺すことに成功する。
グァ!しクぁし!
想定外の自体が起こるのだが、それこそが義時と政子の造反になる。
実は義時も重忠を殺害する意思があった❗️
前述までの話の中で義時が時政の名越亭からの帰り、自らの居館に入ろうとしたところで牧の方のパシリ〜(使番)であり、実兄でもある大岡時親(おおおか ときちか)が馬を飛ばして駆けてきたシーンがあった。
ここで大岡は牧の方の胸中(意向)を義時に打ち明けたが、この時の義時の対応の仕方に違和感を感じた方も多いと思ふ。
おかしなことに義時はこの時、大した反論もせずに、むしろ半ば諦める‥というか折れる形で牧の方に従った。これは後々の重忠殺害後に激しく時政に迫る義時の様子とは相反する。
つまり義時はこの時、重忠を殺すことに同意したことになり、義時の中で時政と牧の方を鎌倉から排除する考えが浮かんだともみれる。
そして重忠を葬った後、時政に報告をするが、無実の罪で誅殺された重忠殺害の責を時政に負わせる形で激しく迫った。
その様子はまるで他の御家人衆たちにも噂が広まるようにワザと激しく怒りをブツけた様にもみえる。
そして動揺した御家人衆たちの心という油にさらに火を注ぐように重忠が無実だった事実も広めた。
つまり、時政が重忠誅殺を打ち明けた際、義時の中で時政と牧の方を鎌倉から排除しようとした動機が生じ、ここに時政&牧の方追放の伏線が成立したとも考えられる。
畠山重忠の乱は複雑な思惑が絡み合った政争
畠山重忠の乱は経過を俯瞰しながら見ていくと、平賀朝雅と畠山六郎(重保)の一件を利用して朝雅を将軍位へ擁立する謀略をはべらせた時政と牧ノ方の姑息で残忍な人物像が浮かび上がってくる。
その計画に利用されたのが稲毛重成であり、畠山六郎しかり、畠山重忠だということになる。
また、その経過の中で時政と牧ノ方を鎌倉から排除する衝動が義時と政子の間で生じる。
表面的に見れば有力御家人の畠山父子が些細なケンカの揉め事で犠牲になった一変事に過ぎないが、冷静に経過をみつめていくと色々と複雑な人間模様がそこにあり、興味がつきない。
もう1つ畠山重忠の乱があった❓
実は重忠は過去に所領を奪われるほどの罪に問われたことがあったことはあまり知られていない。
詳細は下記ページにて💘
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