【梶原景時ゆかりの地】梶原太刀洗水(鎌倉五名水)の名前の由来&歴史|鎌倉十二所

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鎌倉五名水の梶原太刀洗水とは❓

梶原太刀洗水とは❓

十二所バス停から朝夷奈切り通しへ向かう道中、左手側の岩の棚に小石祠があり、その傍らから湧き出す清水のこと。

古くから鎌倉五名水の1つとされる。鎌倉五名水とは鎌倉の中でも飛び切り透明かつ、美味とされる清水のこと。五名水なので他に4ヶ所存在する。

なお、現在の梶原太刀洗水には竹筧(かけひ)が設置され、竹の筒先から水が下垂れ落ちる。(上掲写真参照)

その下垂れ落ちた水は、やがて滑川(なめりがわ)へと到るが、その間、川水となったこの太刀洗水は「太刀洗川」とも呼ばれる。うきゃ




梶原太刀洗水の名前の由来とは❓

梶原景時が源頼朝卿の命によって上総介広常(かずさ のすけ ひろつね)を斬殺し、この水で血太刀を洗い流したという伝承に基づき、後世にて「梶原太刀洗水」と呼ばれるようになったと伝わる。

ただ、あくまでも伝承の域を出るものではなく、実際に景時がこの場所で太刀を洗ったのかは判然とはしないものの、上総介広常の居館が当地周辺には在ったとされる。

なお、広常が景時に切られたのは頼朝卿の大倉御所であり、ちょうど広常が御所で双六(すごろく)の勝負を楽しんでいた最中に景時の不意打ちによって斬り殺されたと伝わる。

したがって、広常を斬り殺した後に当地で太刀を洗ったというのは、距離的な実情を鑑みて現実味が湧いてくることはないが、厳密には当地周辺に在った広常館には息子の小権介 良常(/かずさ よしつね/上総 能常)以下、一族郎党が居り、これを景時が皆殺しにしたと云われる。

つまり、広常の一族郎党を広常の十二所館で根絶やしにした後、血で染まった太刀をこの場所で洗ったことになる。

梶原太刀洗水の歴史

上総広常誅殺事件

1180年(治承四年)、後白河天皇の第三皇子・以仁王が平氏討滅を命じる令旨を全国の諸将に発給し、これに呼応した木曽の山猿こと木曽義仲は1183年7月27日に後白河院を伴って入洛を果たした。

清盛の強引な圧政を警戒した後白河院は比叡山に逃げ延びており、これを救出する形で陣中に推戴したものだった。

だがしクぁし!

1183年(寿永二年)12月、京の都を占領していた木曽義仲軍は都で暴挙を働くようになり、この事態を警戒した後白河院は源氏の御曹司たる源頼朝を頼り、上洛を求める密書を送った。

頼朝卿も兵を起こして今すぐにでも京師へ進軍する手ハズを整えるよぅ命を下したが、頼朝麾下にて最大勢力を誇る大豪族・上総介 広常は東国支配論を唱え、猛反対した。(この当時の広常は上総国全域の支配者だった)




広常曰く、『関東すら平定できていない現状において、なぜに京師などに出兵できるのか!』‥‥というものだった。

確かに、広常の言い分にはもっともなところもあり、特にこの当時、奥州・藤原氏の権勢は西(西国)の脅威となるほど肥大化しており、例えば京師へ進軍した後、奥州藤原氏に背後から鎌倉を急襲される恐れもあった。

ただ、広常は自身が上総国全域の支配者であることを笠に着て、身分違いの貴種である頼朝卿に対しても下馬もせずに平気で暴言を吐き飛ばしたりしていたこともあり、頼朝卿の癇(カン)に障ってい‥申した。アヒョっ

このような広常の言動や態度は頼朝に仕える御家人の統制上、けっして都合の良いものではなく、そのような理由から頼朝卿は景時を呼び寄せ、広常殺害を命じたのだった。

‥‥そして、1183年(寿永二年)12月22日、何も知らない広常は景時の申し出によって双六(すごろく)に興じ、その最中に景時に首を掻き切られたというもの。

広常が消え失せた直後の鎌倉は頼朝一辺倒に傾向し、ついに頼朝卿は弟である範頼・義経を総大将に任じて幕軍を率いさせ、義仲追討の軍勢を京師へ差し向けたのだった。

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