梶原景時の乱(梶原景時の変)とは❓なぜ梶原景時は殺された❓

景時の独断により罪人にされた「結城朝光」

⬆️梶原景時の墓

吾妻鏡によると1199年(正治元年)10月、頼朝卿を心底から崇めていた結城朝光(ゆうきともみつ)は、頼朝卿の死をまるで我が親の死に直面した時のように嘆き悲しみ、こぅ叫んだと云われる。

「忠臣は二君に仕えずというが、なぜ私は頼朝様と時を同じくして死ぬことができなかったのか! うぇ〜ん…”うぇ〜ん” は余計

朝光の慟哭を耳にした周りの御家人衆も同様に涙を流したが、その後、景時が「忠臣は二君に仕えず」と言い放った朝光の言葉を問題視し、こともあろうか朝光が謀反を企んでいると二代将軍となった頼家に密告したのだった。

分かりやすく言うと、「忠臣は二君に仕えず=頼家には仕えない=出奔するor頼家を排除or殺害する」‥‥などのように受け取られたということ。




幕府女官「阿波局」の正体

しかし驚くのは、朝光がこの話を耳にしたのが、それなりの地位にあるものではなく、政子の妹である阿波局(あわのつぼね)よりの口伝によるという事実。

さらに驚くのが阿波局が時政の娘である事実をほとんどの者が知らなかったといぅ事実。

将軍頼家に出された御家人66人分の訴状

とにもかくにも朝光はどう立ち回ってよいか分からず、とりあえず、親交のあった13人の御家人衆の1人である三浦義澄の世子・三浦義村に相談することにした。

実は義村も景時の存在を危惧していたこともあり、今度は義村も加わって13人の御家人衆の和田義盛、安達盛長にも相談を持ちかけることになった。(三浦義村と和田義盛は同族(親戚筋)とされる)

特に和田義盛は景時から侍所の別当職を奪われた経緯があり、以前より景時という人間とはソリが合わなかったことから、両人が新たに加わる形となった。

4人は密談を重ねた後、景時糾弾の訴状を出す方向でまとまり、さらに仲間を募った。

こぅして1999年(正治元年)10月28日、景時の讒訴を糾弾した結城朝光をはじめ、三浦義村、和田義盛、安達盛長ら御家人衆が鶴岡八幡宮の廻廊に参集する運びとなった。

この結果、66人もの有力御家人衆たちが景時糾弾に賛同し、皆々、鼻息荒げに鶴岡廻廊に寄り集い、1199年11月、66人分の連判(連署)が認められた訴状が頼家に提出されたのだった。

景時糾弾の訴状に連署した66人一覧(一部)

千葉常胤 千葉胤正 小山朝政 結城朝光 安達盛長 安達景盛 東重胤 土肥惟光 河野通信 曽我祐綱
三浦義澄 三浦義村 和田義盛 和田常盛 若狭忠季 八田知重 波多野忠綱 渋谷高重 山内首藤経俊 榛谷重朝
畠山重忠 比企能員 足立遠元 天野遠景 大井実久 葛西清重 二階堂民部丞行光 所左衛門尉(藤原)朝光 佐々木盛綱 土屋義清
宇都宮頼綱 稲毛三郎重成 岡崎義実入道 二宮四郎 長江明義 毛呂次郎季綱 工藤行光 中原仲業 二階堂行光

‥‥他、御家人28名。

実のところ、この当時の鎌倉幕府の御家人衆は大きく「東国御家人衆(東国に在住)」と「在京御家人衆(京の都に在住)」に分かれていたが、連判に名を連ねた御家人のほとんどは東国御家人衆だった。

彼らは平時は鎌倉に与えられた館で暮らし、 本補の所領に戻ることは無かった。

なお、この連判は頼朝卿の右筆(代理で書状を認める役目)を務めた中原仲業(なかはらなかなり)が筆を走らせたものだったが、次のような文面が書かれていたと云われる。

鶏を養う者は狐を飼わず、獣を飼うものは狼を育てず

仲業が自らが書した訴状を読み上げた時、この一文を耳にした義村は納得の笑みを浮かべながら、「まったくその通りだ」と呟いたと伝わる。(狐、狼を景時に例えた景時への悪口。もしくは景時という危険人物を幕内に置くことへの警鐘の意味)

その後、この訴状は和田義盛と三浦義村に預けられ、2人は公文所(くもんじょ/公文書などを担当する部署)の別当であり、将軍補佐役だった大江広元の居館を訪れ、訴状を手渡した。

しクぁし!

広元は景時が頼家の良き理解者である事を知っていたこともあり、訴状を懐内にしまい込んだまま頼家に渡せずにいたのだったが後日、その為体(ていたらく)を知った和田義盛が声を荒げて催促に訪れ、圧倒された広元は是非も無く、頼家に提出する運びとなった。

訴状を一読した頼家はさっそく景時を召喚し、その訴状を見せて弁明を求めたが、景時は微動だにもせず、ついに口を開くことがなかったと云われる。

頼家も自らの良き理解者である景時を庇い(かばい)きれず、景時は追却処分(鎌倉追放)と相成り、一族郎党を随従させて自らの所領である相模国一乃宮(現・神奈川県寒川町)に謹慎したのだった。

後日、その様子が連判に名を連ねた数人の御家人たちの心を動かしたのか、微力ながら支持を獲得した景時は12月9日に再び鎌倉へ帰参することになった‥

の、だグぁしクぁし!

再び同月18日、その他大勢の御家人衆より景時糾弾の意が唱えられ、将軍・頼家はまたしても景時を庇いきれず、翌1200年(正治二年)、再び景時は鎌倉を追われることとなった。

十二所の梶原館の廃材は永福寺の僧坊に下賜された⁉️

景時が鎌倉を去った後、梶原ヶ谷(かじわらがやつ/現在の鎌倉市梶原)や十二所(じゅうにそ/現在の鎌倉市十二所)にあった梶原館(かじわらのたち)は破却され、廃材は頼朝卿が発願した永福寺(ようふくじ)の僧坊造営の建材として再利用されたらしい。

しクぁしながら、梶原ヶ谷(現・梶原住宅一帯の地)の梶原館の破却については未詳とされる。

ただ、史実によると当地は以後、景時の末裔を名乗る鎌倉党・梶原太郎景久(?〜天正10年6月2日(1582年6月21日)? ※生没年未詳)以降の梶原一族が根拠地としたとのこと。

(この当時の梶原景久は織田信長家臣となり、羽黒城主(現在の愛知県犬山市に在った城)として羽黒姓を名乗っていたらしい)




‥‥景時死す!グハっ

吾妻鏡によると、鎌倉を追われた景時は1200年(正治二年)正月20日の亥ノ刻(午後10時頃)、いよいよ幕府を離れて京師(京の都)を目指す決意をする。後鳥羽院に取り入って京師にて宮仕えするというものだった。

しクぁし!

この動きは他の御家人衆に察知されており、御家人衆の間で「景時が甲斐源氏・武田有義を将軍に擁立して幕府の転覆を図っている」という噂が流れ始めると、道中(東海道)の駿河国清見関(きよみがせき/静岡市清水区)の近くで景時はじめ、その一族郎党まで斬殺されてしまったのだった。

襲撃したのは吉香一族(吉香小次郎、船越三郎、矢部小次郎、庵原小次郎など)や、鎌倉郡飯田郷(横浜市泉区)の地頭である飯田五郎家義(いいだ ごろう いえよし)、同じく地元の地頭「吉川友兼(きっかわともかね)」らの手勢によるもの。(飯田家義は義時の命を受けて景時討伐へ向かったとも‥)

襲撃を察知した梶原一族は、すぐさま戦闘態勢を整えたこともあり、狐ヶ崎(清水区)にての斬り合いになる。

結果、主翼格の飯田家義は豪勇無双で知られた梶原景茂(かじわら かげもち/景時の三男坊)と相打ちとなり戦死したが、数で圧倒した駿河勢が景時はじめ、その一族郎党33人の首を討ち取るに到り、数多の首はその後、東海道に晒されたと伝わる。

現在、首がさらされた付近には「梶原堂」や「梶原山」なる「梶原」を冠したスポットが点在するが、追い込まれた景時は長男坊の景季、次男坊の景高と梶原山(現在は公園)に逃げ込んで自害したと伝わる。

なお、武田有義を将軍位へ擁立する話の出所としては、武田信光(有義の弟)が甲斐の有義の居館にて景時の密書を見つけたことによるもの。

吾妻鏡の正月28日条によると、景時は朝廷より九州全体を監視する長官(国司を監視するような役目)のような職に任命されており、その地位を利用して武田有義を将軍位へ擁立する構想あったことが記されてい‥‥‥申す。カっ ..”カっ”だけ?

梶原景時討伐の恩賞

飯田家義は景時一族を討ち取った恩賞として、駿河国大岡(沼津市)の地頭に補任された。

吉川友兼は深手を負って結局、死没に到ったが、子の朝経が吉川家の嗣子(家督相続者)として加増され、梶原氏の所領であった播磨国 揖保郡 福井荘を与えられ、地頭に補任されてい‥‥‥申す。ラリゃっ




玉葉(ぎょくよう)に記された異説の梶原景時の変

後白河院が崩御した後、後鳥羽天皇が即位するまでの間、朝廷を指揮した九条兼実の日記である「玉葉」の正治2年正月2日条によると、自らを弾劾する訴状が提出されたことを知った景時は、頼家から弁明を求められた際、次のように告げた云われる。

「(自らを陥れた御家人衆を含めた)御家人衆たちが、頼家を廃して頼家の弟である千幡(せんまん/=源実朝)を擁立する陰謀を企てている」

この事実を頼家より知らされた御家人衆は当然の如く、声を荒げて反論し、頼家は御家人衆の圧力に抗えないまま是非も無く、景時に鎌倉追放の命を下したとされる。

‥‥以上、阿波局が結城朝光へ密告し、朝光が三浦義村へ相談を持ちかけて以降、景時の死まで一連の流れが、後世にて「梶原景時の変」や「梶原景時の乱」と呼ばれる内容となる。

景時弾劾状の連署に北条氏の名前が一切ない!その理由とは?

なお、朝光・義村を含めた66人の御家人衆たちの中に北条氏の名前が一切無いことから、一説に時政・政子・義時が幕府内での権威や立場を確固たるものにすべく、謀略を働かせたのではないかとも云われる。(駿河国には時政の所領が点在する)

また、阿波局が朝光に伝えた内容は阿波局だけが聞いたことになっており、その事実を裏付ける文献や文面は他に無いことから、その真否が問われる。

しかし、疑問となるのが讒言、いわゆるチクりを代々の将軍に行うことで信任を得てきた景時が、なぜに頼家の権力が半減(13人の合議制)したにも関わらず、結城朝光の讒言を行なったのか?

頼家の権威なしに景時の権威など無いにも等しく、讒言など行ったところで窮地に立たされるのは必定。

頭脳明晰な景時であれば、哀れな末路になることくらい読めたハズ。‥‥謎は深まるばかりである。オホっ

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