鎌倉 大船「常楽寺」の歴史(年表)を‥‥ビール浴びながら知るつもり❓

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鎌倉 大船「常楽寺」

 

読み方:じょうらくじ
創建年:1237年(嘉禎3年)※吾妻鏡に記載

開山:退耕行勇(たいこうぎょうゆう)
開基:北条泰時(鎌倉幕府3代目執権)
山号:粟船山
宗派:臨済宗・建長寺派
本尊:阿弥陀三尊
別称:粟船御堂、青船御塔、常楽禅寺

「常楽寺」とは❓

「常楽寺(じょうらくじ)」とは、北鎌倉のさらに以北、鎌倉一の歓楽街である大船駅付近に佇む古刹であり、山号を「粟船山(ぞくせんざん)」、寺号を「常楽寺(じょうらくじ)」と称する。

3代執権・北条泰時(ほうじょう やすとき)が創建した禅刹になる。

常楽寺の別名

往時は「粟船御堂(あわふねみどう)」や「青船御塔」とも呼ばれ、現在の「大船(おおふな」の地名の由来になったと云われる。




常楽寺の前身は「粟船御堂」

吾妻鏡によると、「山ノ内、小袋(巨福)礼の別居」と記されるように、かつてこの寺が常楽寺(じょうらくじ)と呼ばれる以前の当地には北条泰時公の別邸が建っていたらしい。‥‥が!

泰時公の別邸の場所は諸説あって、明月院のある明月谷あたりとも云われる。

何にせよ、その別邸内には泰時公の妻(三浦義村の娘の矢部尼禅阿or安保重員の娘)の亡母の菩提を弔うために建てた「粟船御堂(あわふねみどう)」もしくは「粟船堂」と呼ばれる堂もしくは道場があったらしい。(この頃、北条氏は山ノ内方面(現・北鎌倉)に進出して寺院や邸宅を盛んに営んだと伝わる)

その粟船御堂は北条泰時公が1237年(嘉禎3年)に退耕行勇を供養の導師として招聘し、当地に創建した。

それゆえ、現在の常楽寺は退耕行勇を開山、北条泰時公を開基とする。

このことは吾妻鏡の嘉禎3年(一二三七年)十二月十三日条にも記される。

粟船御堂の前身

常楽寺に伝蔵される「常楽寺略伝記」によると、粟船御堂にも前身と呼ばれる仏堂があったらしい。

この仏堂は北条政子が木曽義仲の息子である「清水冠者・義高」と、その嫁御である頼朝卿と自身の愛娘「大姫」の菩提を弔うために営み、堂内に阿弥陀三尊像を奉祀したと云われる。

また、今日まで北条泰時公が善光寺信仰の影響を受けて堂内に安置したとされる阿弥陀三尊像は、実は北条政子が上記、2人の極楽往生を願って奉安したものとする説もある。

三代執権・北条泰時の死

北条泰時公は1242年(仁治三年)6月、60才にて逝去後、すみやかに粟船御堂に墳墓(五輪塔)が築かれ、当地に埋葬されたと伝わる。

公は日本最大級の変事とも云われる「承久の乱(じょうきゅうのらん)」では幕府軍の総大将を務め、その後、西国を治めるために創設された六波羅探題では初代北方の首長を務めた。(六波羅探題には北方と南方とに別れ、それぞれに首長がいた)

また、西国における紛争の早期解決を図るため、貞永式目(じょうえいしきもく/御成敗式目)を制定するなど、執権政治ならびに北条幕府の土台・基礎を作り上げた。

その半生は花を愛でる暇さえ無いほどに政務に忙殺された生涯だったと云われ、赤痢に身体がむしばまれながらも、血反吐を吐き飛ばしながら政務に励んだと伝わる。

公の一周忌が1243年(寛元元年)6月15日に厳修された際には大阿闍梨の信濃法印「道禅」なる僧侶が導師役を務め、曼荼羅供の儀式が執行された。

この儀式には5代目執権・北条時頼はじめ、泰時公と所縁の深かった御家人衆、武士、その他一般人が参列したと伝わる。

1254年(建長6年)6月15日の十三年忌の際も、同様の儀式(曼荼羅供)が執行されている事から、当初は密教色が濃かったとみれる。

鎌倉志によると、この当時の常楽寺は天台宗に属したが、蘭渓道隆の入寺後、禅刹へと改められたことから、道隆を開山と仰ぐ節もあるとする。

なお、上記の13年忌には現在の「粟船御堂」ではなく、「青船御塔」の名前が見えることから、この頃にはまだ寺号が定まっていたなかったと見られてい申す。アッフゥェァっ(”青船”を表現)

「常楽寺」の名前の由来や起源

1248年(宝治二年)3月11日に鋳造・造進された境内の梵鐘には「一二四八年(宝治二年)三月十一日」&「寺を常楽と号す」などの刻銘があり、実はこの刻銘こそが「常楽寺」の名前の初見とされる。

この梵鐘には他にも次のような陰刻もある。(当鐘は状態が良く、陰刻の文字の美麗さで知られる)

「家君禅閤墳墓道場也(家君禅閤墳墓の道場)」
「家君禅閤の遺恩に報いんと欲す」

「足催坐禅の空観」

‥‥これらの内容から察するに泰時公の甥である時頼が、祖父の追善供養のために鋳造・造進したとみる向きがある。

また、泰時公が当地に埋葬された折、法華堂が築かれたとする説もある。(現存せず)

ちなみに「家君(かくん)」とは「一族の長」、「禅閤(ぜんこう)」とは在家のまま剃髪した者を意味する。これすなわち、北条泰時その人を示すと考えられてい‥‥‥申す。クァクンっ(”家君”を表現)

以上の事実を以って「常楽寺」の名前の由来とは、時頼が祖父である泰時の法名の「常楽院(常楽寺殿観阿とも)」を戴いて命名したとされる。

なお、この梵鐘は「鎌倉三名鐘(かまくらさんめいしょう)」の1つであり、後に国の重文指定を受けるに際し、現在は鎌倉国宝館(鶴岡八幡宮境内)へ寄託され同館にて収蔵されてい‥‥‥ます。連発はサブさを生む




蘭渓道隆が入寺

1248年(宝治二年)12月、ちょうど上記梵鐘(鐘)が鋳造された年の12月、中国宋の禅僧「蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)」が北条時頼の招きで入寺する(寺へ住職として入る)に至り、中国禅を広めた。

ちなみにこの5年後に蘭渓道隆は初期の日の本五山(現行は「鎌倉五山・第一位」の寺格)に列せられる大刹・「建長寺(けんちょうじ)」を創建する。

  • 初期の日の本五山:建長寺(鎌倉)、円覚寺(鎌倉)、南禅寺(京都)、東福寺(京都)、建仁寺(京都) ※諸説あり

常楽寺の伽藍

1248年および1249年(建長元年)頃の常楽寺の寺勢は華々しく、南面には三門、仏殿、方丈が建ちならび、翌1250年4月には僧堂が造営されるなど、北条時頼も蘭渓道隆にスッカリかりかりカリフラワーな如く帰依を表し、政務の間を見つけては来山し、参禅したと伝わる。….どゆ意味や

大覚録(だいかくろく/大覚禅師語録)の上巻によると、「常楽寺に一百の来僧あり」と記されていることからも理解が進むように、蘭渓道隆の権威や中国禅という新たな異風に注目が寄せられていたことになり申す。パギョっ

建長寺の根本たる常楽寺!『常楽寺なくして建長寺なし』

1253年(建長五年)11月、5代目執権北条時頼の心底よりの希求によって、開山に蘭渓道隆を据え、禅道場の大刹(巨大寺院)・「建長寺」の開堂供養が執行された。(建長寺の創建・誕生)

当初の建長寺の住持(住職)は常楽寺の住職も兼任し、僧衆の配置なども定められたと伝わる。

蘭渓道隆は「常楽寺なくして建長寺なし」と広言したと云われ、後世では常楽寺が蘭渓道隆の出身地として「建長寺の根本」と評されるに至る。

建長寺創建後の常楽寺

常楽寺は建長寺創建後も鎌倉臨済禅の根本・起源として在り続け、禅宗史はもとより、宗教史上にその名を刻んでいくことになり、そして今日に至る。

江戸時代の常楽寺の伽藍

この画像(墨絵)は鎌倉志に描かれた江戸時代の常楽寺の伽藍の様子になる。

この図を見るとすでに木曽塚が現在地にあることから、江戸時代後期あたりの伽藍の様子とみれる。

中央に見える長細い入母屋造の長方形の建物は僧坊もしくは現在の本堂といったところか。

池の配置が仏殿の上にきているという点にも注目したい。この場所には常楽寺を創建した北条泰時公の墳墓がある。(ある程度描いた後で池描くの忘れとって、ア”❗️てなって、もぅこれでイっとけ‥みたぃな感じで無理やり上に書き入れたのか❓)

以下はまた別の江戸時代後期の常楽寺境内絵図となる。

この絵図をみると池が現在地に描かれているのが分かる。また、泰時公の墳墓と思わしき五輪塔も仏殿の裏側に描かれてい‥‥申す。キゃっ

手前に描かれる大木は葉の形からしてイチョウか❓




注目すべきは”田んぼ”❗️

そしてもっとも注目しておきたぃのが墨絵の真下部分。(最上の墨絵図参照)

これすべて田んぼ❓

この墨絵を見ると江戸時代の常楽寺の前は田地が広がっていたことがよく分かる。

木曽清水冠者義高(源義高)の首塚が田んぼの地中から掘り出されたと云ぅ伝承も、この墨絵を一目見て合点がいく。

それと右上に「粟船山」の記載が見えることから、古くは山として認識できるほどの景観を成していたのだろぅ。

ちなみに「粟船山」の山の由来とは、粟を積んだ船に山の形状が似ていたことから「粟船山」という地名が付されたと伝わる。

ある時、地形変動が生じてポッコリあそこモッコリと、この一角だけ山になってい申す。モコっ

現在の常楽寺は境内入口となる山門前から延びる参道すらも住宅街に溶け込み、後方の粟船山の山頂も公園になっているなど、スッカリかりかりカリフラワー‥なほどに都会の喧騒に染まりきってい‥‥‥申す。カリフラワー2発目挑戦 ちょぃサブぃかな.. オホ

右端、中ほどには「粟船村」の記載が見えるが、この粟船村も1888年に国鉄が開通すると大きな転換期を迎えることになる。

国鉄開通を機とし1936年には松竹の撮影所が蒲田から移り込み(後の松竹大船撮影所)、有名俳優や映画関係者が付近に住んだことで世間の注目が集まると、移住者が増えてさらに開発が進んだ

大手企業の三菱電気や資生堂(2013年に閉鎖)の工場があるのもその一因となるものであろぅ。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、…あんた誰や

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