【雪ノ下の歴史】地名の由来や意味とは❓|神奈川県 鎌倉市

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「雪ノ下」の名前の由来

「雪ノ下」の名称は、頼朝卿の命令により真夏の納涼のため、冬季に降り積もった雪を貯蔵させておく氷室があったことに因む。

1191年(建久二年)2月17日、雪見のために、かつて雪ノ下に所在した鶴岡八幡宮の別当坊へ足を運んだ頼朝卿は、佐々木盛綱、堀親家らに山辺の雪を長櫃に入れて北谷へ運ばせたと伝わる。

「その地は山陰にあって、日脚、相隔たる。氷室を構えて炎暑を消すべし」と命じている。

頼朝卿が政務を執った大倉幕府跡は雪ノ下になる。

着物の重ねの色目「雪の下」が語源とも?

十二単などの着物の重ノ色目の種類として冬の装いを示す「雪の下」という言葉がある。

一説に京の都での生活を懐かしんだ頼朝卿が雅語(がご/都人が和歌を詠む時などに用いた上品な言葉)として、当地の地名に用いたとする説もある。




「雪ノ下」の名称の初見

鎌倉時代の歴史書として有力視される「吾妻鏡(あずまかがみ)」の1213年(建保元年)正月4日条によると、「雪ノ下」ではなく、「雪下」と記されており、これが初見とされる。

「雪ノ下」という地名の初見

1219年(承久元年)正月27日の夜、3代将軍・源実朝の首を討ち取った鶴岡八幡宮の別当・公暁(くぎょう)は雪ノ下の当時、「本坊」と呼ばれた別当坊へ逃れる。

その入れ替わりで別当坊から出た公暁の弟子僧たちは公暁を追ってきた長尾定景(ながお さだかげ)と八幡宮背後にて斬り合いが繰り広げられた。

吾妻鏡にはこれを「雪ノ下の合戦」と書き記す。

その3日後となる正月30日、公暁の後見人となった備中・阿闍梨(あじゃり)の「雪ノ下の屋地」が収公されたとも書き記す。

「雪下」とも?

下野長沼氏の文書によると1416年(応永二十三年・二四年)の上杉禅秀の乱にて、応永二十四年正月九日、武蔵の瀬谷原(横浜市 瀬谷区)で敗れた禅秀は雪ノ下に逃れて自刃したと記す。

江戸初期には「雪ノ下村」と呼ばれる

どうやら江戸初期になると八幡宮境内とその周辺一帯は「雪ノ下村」と呼ばれるようになり、明治初年から「鎌倉町雪ノ下」と呼ばれるようになり、昭和37年の住居表示法制定以後も「雪ノ下」を踏襲し、現在の「鎌倉市雪ノ下」に到る。

当初は「奥の山」「奥山の下」などと呼ばれていた?

吾妻鏡によると、建久三年(1192年)7月26日、卜(ぼく/占い)の末、「奥山の下」に三島新宮(伊豆国一宮の三嶋大社の神)が上棟、建長三年8月3日に遷宮とあることから、当初は雪ノ下を「奥山の下」もしくは単に「奥山」と呼ばれたことが分かる。

近年の調査結果では鶴岡八幡宮の”奥の山”という意味があるとされ、雪ノ下という地名は八幡宮背後の御谷(おやつ/往時の二十五坊のあたり)のことを指すと云われる。

雪ノ下は意外に面積が広い

雪ノ下は面積が広いので鶴岡八幡宮を除いた以下、6ヶ町に分けられていた。

  • 御谷(おやつ)、小袋坂、岩井堂、置石、横町、大倉

この中でも御谷の土地全体は二十五坊が相当し、谷の入口には小浜屋と呼ばれる店が建っていた。

その小浜屋の前には大きな門が建っていて、その門より向こう側が二十五坊だったため、小浜屋は門番を一手に担うことで禄をもらっていたらしい。

明治30年頃の雪ノ下には156戸の民家が所在したと云われる。

雪ノ下の小字

巨福呂坂(こぶくろざか)、馬場町、岩谷堂、置石、横町、千度小路、鶯ヶ谷、御谷大御堂大蔵 など。

置石と横町は八幡宮の門前町!

置石(現在の若宮大路)と横町(八幡宮の三の鳥居の前の横道/横大路)は八幡宮の門前町として賑わい盛んだったと伝わる。

段葛(だんかづら)の両側側道沿いと、横町の南側には商家が軒を連ね、大正初期頃は商家の間に茅葺(かやぶき)屋根の農家が建ち、小家の裏側と横町には田畑が広がる風光明媚な場所でもあったと伝わる。(現在は住宅地)

段葛の西側は江戸時代より旅籠(たびかご)旅館が軒を連ね、その様相は大正初期頃まで続き、江ノ島まいりや、富士まいりの参拝客たちが、八幡宮へ詣でるためによく利用したと伝わる。

「雪ノ下」の場所

元来、鶴岡八幡宮背後の御谷一帯を指したとされるが、時代を下りながら拡大され、今日に到っては鶴岡八幡宮の境内地を中心としたその周辺地域を指すようになった。

雪ノ下の範囲

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