源頼朝の墓【国史跡】と頼朝の法華堂の歴史|鎌倉市雪ノ下

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源頼朝の墓【国史跡】

  • 層塔:高さ186㎝
  • 国史跡指定年月日:1927年(昭和2年)6月14日

実は1189年(文治5年)頃より、現在の頼朝の墓の場所には頼朝卿の持仏堂が建っていたとされ、この持仏堂は真下に広がる大倉幕府造営に伴って建造されたものだった。

この持仏堂には頼朝卿がお守りのようにして持ち歩いたとされる持仏(髻観音/もとどりかんのん)を奉安され、すなわち、頼朝卿が観音像に礼拝するための御堂だったことになる。

頼朝卿が挙兵して初の大戦となった石橋山合戦の折、自らの髻(もとどり/ちょんまげ)の中に小さな観音像を入れ込んで戦いに挑んだと伝わるが、大倉御所を造営にさしあたって建造されたものが、持仏堂となる。

1199年正月13日に頼朝卿が没した後は、すみやかに現在の石段上のこの場所にあった当該、持仏堂に遺骸が葬られたとされる。

その後、持仏堂は廃され、新たに墳墓堂(後に法華堂と呼ばれる)が建造されたが、星霜経てその墳墓堂は廃され、江戸時代になると頼朝卿の子孫と自称する島津家の島津重豪(島津藩主)によって供養塔として五輪塔ならびに層塔が建献されたと伝わる。

吾妻鏡によると、頼朝卿没後には四十九日および、百か日法要が営まれた事実を記し、翌年(1200年)正月13日の頼朝卿一周忌が勤修された際には「”法花堂”(法華堂)」と記し、これが「法華堂」としての有史上の初見とされる。

法華堂とは❓

法華堂とは法華三昧堂の略語。元来、法華三昧(ほっけざんまい)と呼ばれる行を修する道場とするのが一般的とされるが、隣地にある北条義時公の法華堂跡が存在するように高貴な人物の墳墓堂や納骨堂をも指した。

話は少し逸れるが、北条氏は後年、鎌倉の実権を掌握すると鎌倉の方々に法華堂を営んでい申す。アヒャっ (常楽寺もその前身は北条泰時公の法華堂)と伝わる。

なお、頼朝卿の法華堂に関しては当地から鎌倉初期のものと推定される屋根瓦が出土していることから、瓦で葺かれていた説が濃厚とされる。(ただし昭和44年の調査では瓦は出土せずとも)

頼朝卿の法華堂は寺院だった

頼朝卿の法華堂は、単なる墳墓堂としてだけではなく、鎌倉時代を通して頼朝卿を奉斎するための寺院だったと云われる。

吾妻鏡の1211年(建暦元年)10月13日条によると、三代将軍の源実朝に謁見するために鎌倉へ訪れていた「方丈記」で著名な鴨長明(かものちょうめい)は頼朝の法華堂へも足を運び、次のような詩を詠んだ。

「草も木も なびきし秋の霜消えて 空しき苔を払う山風」

鴨長明はこの一首を法華堂の柱に記して当地を後にしたと伝わる。

法華堂の大きさ

頼朝卿の御霊を奉斎した法華堂の大きさは歴史学者によると、三間四面ほどだったとする見解もある。(確たる長さは未詳)

下掲写真は湘南工科大学の長澤・井上研究室と鎌倉市教育委員会が作成したARの北条義時公の法華堂にはなるが、年代や時代背景を加味して頼朝卿の法華堂も同様のものが建てられていたと推測する。

義時公の法華堂が営まれた当時(1224年以降)、頼朝卿の法華堂が現在地に建っていたのであれば敷地面積から想定するに頼朝卿の法華堂の方が小規模となる。

⬆️北条泰時公の法華堂(推定)

法華堂(頼朝の墓所)の歴史

法華堂は宝治合戦の折、三浦の地で染まった地

頼朝卿の死後、その遺児である頼家、実朝も死没すると、やがて執権北条氏による独裁政権が続く。

その北条氏繁栄のために鎌倉幕府有りきだった様相に不満を唱える勢力が出没するのだが、その勢力こそが頼朝卿の頃から幕府の宿老的な立場を担ってきた三浦一族、ならびに安達一族となる。

1247年(宝治元年)6月5日、三者の均衡が、まるで張り詰めたピアノ線が勢いよくハチ切れるかの如く、安達泰盛が甘縄(あまなわ/甘縄神社を中心とした地域/現在の長谷東部)の自邸から勇ましく怒号を上げながら軍勢を発し、西御門(鶴岡八幡宮の東門の近く)の三浦泰村邸めがけて一目散に駆けた。

三浦勢は自邸に籠る形での防戦と相成ったが、勢いづく安達勢を押し込めるなどよく奮戦した。

しクぁし!

この合戦は双方の一族ゆかりの者共も駆けつけて続々と参戦したが、将軍御所の執権得宗・北条時頼が三浦泰村討伐命令を発し、北条時定が参戦すると趨勢は大きく安達方に傾く。

この機に乗じ、火に油を注ぐように安達勢が三浦邸の周囲に火を放つと、その火が強風で煽られ、結果、三浦の館へも延焼す。

館(たち)という砦が燃え落ちていく様を見た三浦方は、陣内に敗色ムードが漂いはじめ、やがて士気が乱れ始める。

そしてついに館の放棄を決した三浦一族は、大蔵幕府後方の高台にあった頼朝卿の法華堂へと逃げ込み、主君・泰村以下、主たる276人、総勢500余名が自害に到った。(宝治合戦 )

現在、三浦一族の御霊を供養するための供養塔が北条義時公の法華堂跡地奥に佇む。

⬆️現在の北条義時公の法華堂跡にある「三浦一族のやぐら」(写真左の洞穴)

「やぐら」とは❓

「やぐら」とは鎌倉を中心とした地域で見られる特徴的な横穴式の墳墓のこと。鎌倉は谷戸(やと/谷状の地形)囲われた大自然が織り成す要害の地であり、鎌倉時代初期から末期を通して繁栄していく中で、急増した人口分に対しての墓所の土地問題が生じた。

当時の鎌倉では石工によって鎌倉石と呼ばれる凝灰質砂岩が採掘されており、その鎌倉石を採掘した際に出来た横穴を活用して墓所とする文化が芽生えた。

また、当時は土葬が主だったことからシ骸ではなく、”死骸”!!の腐敗臭がひどかったと見られ、鎌倉都のブランド向上や、何より穢れを取り除くために横穴が最適だったとみられる。 ”シ骸”はFF
近年、鎌倉市教育委員会が行った調査によると3000基以上の”やぐら”が確認されてい‥‥申す。キャ

三浦一族のやぐら内部

【忘れてはいけない❗️】三浦一族のやぐら近くで見つけたKUSOデケぇ丸虫

そしてぇ!

これが!KOREGA!三浦一族のやぐら前で偶然に見つけた丸虫よ!YOYOYO

丸虫‥‥‥そぅ!通称「ダンゴムシっし‥ フンがハっハハっ」 はぃ!もぅいっちょ私に続けてご一緒にぅぃ!

「ダンゴムシっし‥ フンがハっハハっ」

‥‥‥

はぃ、後半サザエさんYO 分かった❓

はぃ!で次、この写真の虫はなんて虫か分かる❓

画像引用先:https://ja.wikipedia.org

‥‥‥え❓分からん❓

そんなヤツは、”フンがハっハハっ” もぅ3回くりかえして反省しておくように! ..なんか変わんのか?

へぃ!これは「ワラジムシ」ね。イェイ。

この2匹は種類が異なる。特徴としてはダンゴムシの方が触ると堅い、ワラジムシの方は柔かぃのが特徴!ヘィ!カモンべぃべぃ

‥こホンっ。

で、三浦一族のやぐら周辺の丸虫は、何故かゼカぜかコノヤローなほどに肥え太っとてデカぃ!

まさか❗️三浦一族の血を吸って‥‥‥フっフっフっ。….フキンて洗濯する? なんの話や

ただ、このサイズの丸虫は、そぅはいない。最近の記憶では、まさにぅぃ!切通し生息級!(朝夷奈はDEKAI)

17日分の鼻クソに匹敵サイズ。うきゃきゃ ”17”の半パさがストレス

‥‥‥あ!おっと、ぜんぜん関係なかったね。 フんにゃっ


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江戸時代

‥‥‥あ〜、コホんっ。

江戸時代になると、現在の頼朝の墓所入口に佇む白旗神社の場所に「法華堂」という寺院が再興される。

この法華堂は旧鶴岡八幡宮寺・二十五坊の相承院(そうしょういん/当時は京都仁和寺の末寺)の所管のもと、堂内には如意輪観音像や地蔵菩薩像、跋陀婆羅尊者像などが安置され、相承院の寺僧が管理していたとされる。

法華堂内部では頼朝卿の御霊を供養し、墳墓を護るという役割があったが、明治初頭に発せられた神仏分離令により様相が一変する。

島津重豪より層塔と五輪塔が建献される

1772年〜1780年(安永年間)には、鶴岡八幡宮寺・二十五坊の荘厳院(しょうごんいん)の住僧が大御堂(おおみどう/勝長寿院のこと。現在は廃絶し跡地が残る。)から層塔を移建したと伝わる。

もしくは当初、五輪塔であったものを薩摩藩主・島津重豪(しげひで/1745年〜1833年)が層塔に立て直したとも云われる。

1795年(寛政七年)に宮川春暉(はるき)が著した「東西遊記」には頼朝卿の屋敷跡の上方頼朝卿の塚があると記し、その付近には薩摩侯・島津氏献納の手水鉢、島津氏祖先の墓所があると記す。

1814年(文化十一年)に小川顕道が著した「塵塚談(ちりつかばなし)」では、現在のような層塔ではなく、五輪塔が建っていたことを記すが、これは当人の誤認で実際は層塔が建っていたとも考えられる。

玉垣・石灯籠・手水鉢も島津重豪が奉献したもの

1779年(安永八年)、島津重豪が玉垣、石灯籠、石手水鉢を奉献し、この時に墳墓周辺の景観を整えたと伝わる。

この事は石段下に佇む石碑に以下のような陰刻が見える。(かつては玉垣の横に建てられていた)

正面:「頼朝公御石塔 及 元祖 島津豊後守 忠久 石塔道」

右側面:「安永八年 乙亥(きのとい)二月 薩摩中将 重豪 建之」

⬆️石碑は歌碑と頼朝卿の顕彰碑の真後ろに佇む


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「石塔道」とは、六浦道(むつらみち/現・金沢街道)のことを指し、島津忠久によって六浦道沿いに建立されたことを意味するもの。

現在、頼朝卿の墳墓(頼朝の墓)の玉垣の右脇に建つ石塔(厳密には標柱)こそが、当該、石塔となるものであり、現地に移してこられたことになる。

冬の赤ギレのプチ痛さほど噂の石塔 …どんな噂や

江戸時代の相模風土記に見る頼朝の墓の様子

この墨絵は江戸後期のもの。

注目すべきは左下の方形造りの堂(右)と、その左の入母屋造の建造物。

寄棟造(よせむねづくり)の建造物は今はもう見られないが、現在は代わりに白旗神社が建つ。

入口に見える案内板と思わしき建造物の場所には現在、頼朝卿の顕彰碑の説明板がある。

特に気になるのが方形造りの一宇。この一宇こそが江戸時代に再興された法華堂と見られるが‥‥。だとすれば内部に3躯の仏像を安置し、頼朝卿の御霊を供養していたとされるが‥‥‥かつてのように頼朝卿の御影(画像)を掛けて奉祀していたのだろぅか。

‥‥いずれにせよ現在は二宇ともすでになく、寄棟造の二層の建造物が白旗神社へ置き換わっていることになる。

頼朝卿を奉斎する白旗神社(鶴岡八幡宮境内にもある)

明治初頭に現在の白旗神社が誕生する!

1872年(明治5年)、法華堂は神仏分離令のもと、頼朝卿の墓所と分離されることが決定する。

そこで新たに鶴岡八幡宮の白旗神社から神霊を当地に配祀し、新たに白旗神社を建造し、頼朝卿の御霊を白旗大明神として奉祀するに到る。

つまり、厳密には現在の白旗神社は旧法華堂ということになり、現在の白旗神社の前身であったことになる。

この時に境内地を「法華堂跡」とし、これが後に国の史跡指定を受ける運びとなり、現在に到る。

源希義の墓石

源頼朝の墓の右脇に目をやると何やら看板が目に入る。この看板には次のような説明文が書かれてい申す。イイヤヒャっ

希義公の土と石

父・義朝が平清盛の前に屈した平治の乱(1159年)の折、平家方に捕縛された兄・頼朝は当時13歳、同じ父母の下に生まれた希義は当時3歳と言われていますが、其の後一度として兄弟の再会なく今日に至っています。
公家政治から武家政治へ行こうの戦乱狭間、兄弟の悲哀を想い、今日互いの墓所の土と石を交換し835年の時を経て兄弟を再会させたものです。

1994年(平成6年)9月25日
源頼朝公 報恩会
源希義公 顕彰会

お問い合わせ先
高知市介良乙1927 野村起一
TEL:0888-60-3847

源希義の墓所の場所(地図)

どうやら高知県高知市にある若くして死没した頼朝卿の実弟・源希義(みなもとの しず‥では無く”まれよし”!!)の墓から運んできた土と石を、現在の頼朝卿の墓所に敷き詰めたとのこと。

逆に頼朝卿の墓所の土と石がアッチへ(高知の希義の墓所)へ運び込まれ、敷き詰めたと記されてい‥‥申す。ヒャ

昔は木々が繁茂する自然豊かな場所だった

往時の法華堂(現在の頼朝卿の墳墓)および、その周辺は木々が繁茂する自然に恵まれた場所と伝わる。

吾妻鏡によると1186年(文治二年)のこと。現在の頼朝卿の墳墓の高台には狐の棲家があって狐の子供が大蔵御所内の頼朝卿の御帳台(ちょうだい/寝所)にまで入ってきて来たことが記される。

現在は白旗神社が鎮魂社として墓の手前に佇む。

前述したように江戸時代にはこの場所に入母屋造の建物が建っており、その建物は法華堂と呼ばれてい‥‥‥申した。アウっアウっ (訳:”アウっ”=”早くビールとレモン酎ハイ‥” / ”アウっ”=”流し込みたいよぅ💘)


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現地の案内板の説明

史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)

源頼朝卿は、治承四年(1180年)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦二年(げんりゃく/1185年)に平家を滅ぼしました。

また、鎌倉幕府を大蔵(おおくら/現在の雪ノ下三丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。

正治元年(1199年)に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂(ほっけどう)に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。

法華堂は後に廃絶し、この丘の上一帯がその跡です。

現在建っている塔は後に島津藩主・島津重豪(しげひで)が整備したものとされます。

毎度おなじみ!鎌倉青年団の「法華堂跡」の石版(石碑)

この石版は頼朝卿の墳墓の入口付近に立てられているもの。

碑文の内容

法華堂跡

堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ
頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル建保五年五
月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時
将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ
實治元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ
北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ一族郎
等五百餘人ト偕ニ自盡シ滿庭朱殷ニ染
メシ處トス

大正十三年三月建
鎌倉町青年團

※邀(まちうける)
※矢盡(矢が尽きる)
※滿庭(まんてい/全体に満ち)
※朱殷(しゅあん/血のような暗い朱色)

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