【長谷の場所や歴史】地名の由来や意味とは❓|神奈川県 鎌倉市

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「長谷」とは❓

元来、甘縄や深沢に含まれる地域だったとみられている。

市史総説編によると、長谷界隈が稲瀬川以西、鎌倉の境目にあたるとされていたことから、大庭御厨(おおばのみくりや/伊勢神宮の神領)に含まれる地域だったともみられてい‥‥‥ます。カっ!(耐)

地域内の東西には長谷小路(現・由比ヶ浜大通りの一部)、南北には大仏坂切り通しと極楽寺切り通しがあり、鎌倉における交通の要衝となってい‥‥ます。ふぅ

伝承によると奈良時代に長谷観音(長谷寺)、中世以降になると北側に鎌倉大仏高徳院などの大寺院が建立され、光則寺や収玄寺など日蓮宗系寺院も建立されたことから、鎌倉における信仰の地だった様子がうかがえる。

地名の由来

鎌倉中頃に長谷寺が創建されてから以降に誕生した地名とみられてい‥‥申さん。….あ、イヤ、やっぱ申す。アヒョっ(新バージョン)

当地に建つ長谷寺(通称:長谷観音)に因むとされるが、鎌倉幕府側の公式資料である吾妻鏡には「長谷」という地名は登場しない。

当寺の寺伝では創建は736年(天平八年)とされ、長谷寺境内の梵鐘に1264年(文永元年)の銘があることから、鎌倉時代後期には栄華を誇り、信仰が寄せられていた様子がうかがえる。




長谷の歴史

上杉文庫(大日本古文書)によると、1333年(元弘三年)12月29日、足利尊氏の充行状の押し紙(おおし)に「相模国 山内荘内 長谷郷」とあり、これが有史上の初見とされる。

鎌倉末期から室町時代初頭

鎌倉末期から室町時代初頭には長谷郷と呼ばれていたことが分かる。

江戸時代

江戸時代には「長谷村」と呼ばれ、当代の村の石高は約146石と伝わる。

明治時代

1889年(明治22年)の町村制施行によって長谷村は西鎌倉村に併合され、同村の大字となる。

昭和時代

昭和14年より鎌倉市の大字となる。

1972年(昭和47年)10月1日施行の住居表示によって現在の長谷1丁目〜5丁目の新町名が誕生する。

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