【鎌倉十橋】筋違橋(筋替橋)の場所や名前の由来&歴史(架けた人)とは❓

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「筋違橋(筋替橋)」の読み方

  • すじかえばし
  • すじがえはし

 

筋違橋(筋替橋)とは❓

筋替橋は鎌倉十橋の1つ。

現在、横大路は八幡宮境内入口(三の鳥居)前や東門(東側鳥居)脇に佇む横浜国立大学附属小学校(雪ノ下3-5-10)の正門手前を通る。

その横大路を谷奥から南流してくる西御門川(にしみかどがわ)が横断するが、まさに西御門川上に架橋されていた橋こそが筋替橋(筋違橋)となる。

なお、西御門川は横浜国立大学附属小学校の校庭から当地まで縦断していたが、現在は暗渠化しているので橋は無い。

現在は「筋替橋」と陰刻された板碑だけが残る。

  • 石碑の場所:雪ノ下三丁目3-20あたりの歩道。

 




筋替橋の別名

  • 須地賀江橋
  • 須知替橋
  • 筋替橋
  • 筋違橋
  • 政所の橋

筋替橋の名前の由来

筋替橋の名前の由来は諸説ある。

「筋違橋」※斜めに架けられた橋※

横大路に対して橋が斜めに架けられていたため、「筋違い(筋交い)状態の橋」ということで「筋違橋」と命名された‥‥‥という説。

「筋替橋」※替えられた道筋に架橋された橋※

頼朝卿が鎌倉に幕府を創設する前の横大路は現在の筋違橋の板碑辺りから一直線状に寿福寺方向へ延びていたと云われる。

現在の横大路は鉄の井あたりで屈折して川喜多映画館の前を通過して「窟堂道(いわやどうみち)」と名前を変えて寿福寺へと到る。

往時は現在の源平池の場所も横大路に含まれていたが、鶴岡八幡宮造営の折、源平池(げんぺいいけ/現在の八幡宮入口にある大池)が造池されることになり、横大路が削り取られることになった。

その時、道筋が替えられ、その道に架けられた橋であることから、「筋替橋」や「筋違橋」と呼ばれるようになったという説。

筋替橋(筋違橋)の歴史

1213年(建保元年)3月2日、和田合戦の前に起こった泉親衡の乱(泉親衡の陰謀事件)では、倒幕を企てたとする泉小次郎親衡が、この「違橋に隠れて居る」という情報があり、同氏を捕縛するために幕吏が派遣された。

しクぁし!

泉親衡は逆に幕吏と随従する手勢数人を討ち取り、自身はそのまま逐電したとされる。

この時の「違橋」というのが現在の「筋違橋」のことだとされる。

なお、この文面(「違橋に隠れて居る」)の意味だけでは、当時の状況が汲み取りにくく、橋の下に居たのか、それとも近隣の建物に暮らす住民に匿われていたのかは判然としない。

しかしながら、当時、泉親衡が幕吏に追われていた状況を加味すれば、人家よりも橋の下に隠れ潜んでいたとする方が、話の筋が、まさに“筋違“わないほどに直線的にマッチする。

1247年(宝治元年)6月5日

三浦合戦(宝治合戦)は安達泰盛はこの筋替橋(筋違橋)のあたりで軍勢を整え、配下の小鹿島十郎公義は筋替橋(筋違橋)の辺りで鳴鏑(なりかぶら)を三浦館に向けて射放ち、三浦館へ攻め込んだと伝わる。

また、八田知定は筋替橋にて三浦泰村の郎従・岩崎兵衛尉を討ち取った伝承もある。

なお、この当時の三浦館は現在の横浜国立大附属の敷地内の北寄りにあったとされる。

1265年(文永二年)3月5日

鎌倉中に散在していた町屋のうち7ヶ所以外は禁止されたが、「須地賀江橋」は許可されたとある。

おそらく当地は小町大路と六浦道(金沢街道)とが直交する付近にあり、商業地域としての要所とされたのだろぅか。

1200年(正治二年)5月12日

伊勢称念と称する僧侶は、二代将軍・頼家の政治や所業に対し、厳しく批判した。

将軍への批判を逆賊とした頼家は、配下の比企弥四郎時員に下命し、念仏僧14人を呼び出して、その黒衣を剥ぎ取るよぅ命じた。

時員はその後、「その政所の橋の辺」で剥ぎ取った黒衣を焼いたとされるが、「政所(大倉幕府)の橋の辺」というのは、どうやらこの筋替橋に比定されるとの事。

確かに位置的にも当時、政所が置かれた御所の郭内(取り囲む壁)から目と鼻の先の距離になり、他に候補が特に見当たらないことから可能性は高い。

1213年(建保元年)5月2日の和田合戦では「御所の西南の前の政所」の前で激戦が繰り広げられた‥‥と記すことから、まさに御所郭内の政所の壁外から筋替橋を目視できたのではないか。

また、同合戦において北条方の足利義氏と和田方の朝夷那義秀が一戦交え、義氏は「堀の西に跳んで逃げた」と記すが、この堀こそが西御門川に比定されるものであり、つまり、政所の前の橋は西御門川に架橋されていた筋替橋を指すと考えられてい‥‥‥申す。クァェっ(筋替の”替”を表現)

なお、余談にはなるが、吾妻鏡の正治二年(1200年)2月26日条に「比企判官四郎宗員」という人物が登場するが、これがはたして同一人物であるのかは判然としない。




毎度おなじみ!鎌倉青年団の筋替橋(筋違橋)跡の石碑

碑文(内容)

鎌倉十橋ノ一(1つ)ナリ宝治元年(1247年/皇紀一九〇七)六月
三浦康村一族ノ叛乱ニ際シ北条時頼ノ外祖タル安
達景盛ハ其ノ一族ト共ニ兵ヲ率イ此ノ橋ノ北辺ヨ
リ康村ノ第(居館)ヲ攻メシコト東鑑(吾妻鏡)ニ見エタリ又文永二
年(1265年/皇紀一九二五)三月鎌倉ニ於ケル商家ノ営業地
域ヲ数ケ所ニ限定セル触書中ニ「一所須地賀江橋」トアルハ即チ此附近ノ事ナリ

昭和十四年三月 鎌倉町青年団

筋替橋(筋違橋)跡の場所(地図)

旭屋本店の前。鎌倉駅から徒歩約20分。

⬆️旭屋本店と手前右下に石碑が佇む。

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