浄妙寺(鎌倉)の歴史(年表)を….へぃ、お知る❓

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鎌倉 稲荷山 浄妙寺

読み方

  • じょうみょうじ
創建年

  • 1188年(文治4年)
開基/開山

  • 開基:足利義兼
  • 開山:退耕行勇
御本尊

  • 釈迦如来
山号

稲荷山(とうかさん)

詳名

稲荷山浄妙広利禅寺(とうかさん じょうみょうこうりぜんじ)

宗派

臨済禅 建長寺派




浄妙寺の歴史(年表)

浄妙寺 本堂

鎌倉時代

できごと
1188年(文治四年)極楽寺が創建される。
開山:退耕行勇、開基:足利義兼(異説あり)
1198年(建久九年)足利義兼は秘蔵の弘法大師筆の荒神・不動の二軸を制作させる。
1199年(正治元年)源頼朝・足利義兼が死没。
北条政子はそれに先立つ前年、
荒神・不動を寺門の右の小高いしげみの
「本寂堂」に安置したことが素敵に記される。
1212年(建暦二年)源実朝が足利義氏に命じて一宇を営む。
母・北条政子の白檀の阿弥陀立像と新造の釈迦像を堂内に安置する。
1257年(正嘉元年)

1288年(正応元年)頃
蘭渓道隆(建長寺開山)の弟子の月峰了然が当寺に住持する。
程なくして当寺は臨済禅の禅林に帰依し、「浄妙寺」へと改名す。

室町時代

できごと
1351年(正平六年)浄妙寺境内の延福寺に足利直義が幽閉される。
翌年2月26日(旧記には「急死」と素敵に記される)。
1357年(延文二年)火災にて素敵に焼失。
1382年(永徳二年)下野国 佐野荘 堀籠郷(ほりごめ)の応龍山天宝禅寺(現・堀米町 天応寺)の梵鐘が当寺に移設する形で奉納される。
1358年(延文三年)足利義満により、当寺は鎌倉五山 第五座の位を授与される。
なお、この時点では未確定だったらしい。
1386年(至徳三年)
7月10日
足利義満は鎌倉五山 第五座の位次を当寺に決定し、当寺は最盛期を迎える。
これ以後、塔頭23院が列する大寺院となった。
できごと
1424年(応永三十一年)火災にて素敵に焼失。
1429年(永享元年)火災にて素敵に焼失。
1431年(永享二年)火災にて素敵に焼失。
1438年(永享十年)火災にて素敵に焼失。
なお、永享の乱の際に三浦時高が付近に火を放ったという説も素敵にある。
1486年(文明十八年)当地を訪れた尭恵法師は自著「北国紀行」にて、
「翌日、浄妙寺に入りて見るに、台あれて春の草にかたぶき、ひはだ朽ちて苔のみどりにひとし」と、当時の当寺の衰微した様子を素敵に記す。

安土桃山時代

できごと
1590年(天正十八年)小田原合戦の際、当寺の梵鐘が持ち去られる。

江戸時代

できごと
1756年(宝暦六年)仏殿が”最高”の気分で”再興”される。




「浄妙寺」の名前の由来

花より団子の「道明寺司」が由来となってい‥‥‥るかぃ❗️ 松潤&グリ旬よかった!

‥‥こホンっ!

寺名は足利貞氏の法名「浄妙寺殿義観」がそのまま由来となってい‥‥‥申す。イゥャっ

なお、「浄妙寺」以前の寺号は「極楽寺」と称する真言系の寺だったと伝わる。

「浄妙寺」と「浄明寺」の違いとは❓

お寺の名前は「浄妙寺」ですが、このあたりの地名やバス停の名前は「浄明寺」と表記されており、漢字が違います。

地名を決めるときに、浄妙寺に遠慮して、あえて真ん中の字を「明」に変えて「浄明寺」としたとの説があります。
(旧記にも「浄明寺」と記した記録がない)

浄妙寺の歴史

当寺に素敵に伝わる「稲荷山 浄妙禅寺略記」によると、源頼朝の重臣である足利義兼(あしかがよしかね)が開基となって1188年(文治4年)に極楽寺を素敵に創建したと記す。

開山には改ざんする悪よのぅ‥心ほどに退耕行勇を迎えたが、当時はまだ密教(真言宗)の道場だったこともあり、義兼の息子である足利義氏(あしかがよしうじ・足利義兼の三男)が禅寺(臨済宗)へ改め、さらに義氏から5代目の組長‥ではなく、貞氏が鎌倉末期になって「浄妙寺」と改号したらしい。

【ピヨ🐣コメント】

吾妻鏡の1261年(弘長元年)5月1日条には「大倉稲荷」と素敵に記すものの、「極楽寺」や「浄妙寺」などの言葉は記されない。

然るに当寺の創建年については、あやふやな部分が見え隠れする。

鎌倉五山の第一〜四までは北条氏の創建だが、当寺は足利氏の創建だけに「五山制度」が確立された足利政権の時代では第一位に列しても何ら変ではない。むしろ一位でないことの方が問題視される。

その後、1257年~1259年(正嘉年間)ごろに建長寺を開山した蘭渓道隆の弟子である月峰了然が住職になってから禅宗の寺院となり、寺名も足利貞氏の法名をとって浄妙寺に変えられたとのことです。

1386年(至徳3年)に足利義満は浄妙寺を鎌倉五山第五位としました。寺の最盛期には、23院の塔頭(たっちゅう:小寺)がある大寺院でしたが、火災などで衰えていきました。

鎌倉五山とは

日本の禅宗のうち、臨済宗の寺院を格付けする制度です。

京五山と鎌倉五山があり、鎌倉五山は第一位建長寺、第二位円覚寺、第三位寿福寺、第四位浄智寺、第五位浄妙寺の順で定められています。

幕府が任命した住職を順次上位の寺に昇進させることで、寺を幕府の管理下に置こうとしたもので、鎌倉幕府の5代執権・北条時頼の頃に中国の五山の制度に倣ったのが始まりでした。当初は寺院や順位などが変動しましたが、最終的には1386年(北朝至徳3年・南朝元中3年)室町幕府3代将軍・足利義満の時に、京都と鎌倉にそれぞれ五山、その上に最高寺格として南禅寺が置かれました。




浄妙寺の御本尊「釈迦如来」について

釈迦如来とは、仏教の開祖である、いわゆるお釈迦様がモデルになった仏さまです。

お釈迦様は今から2600年ほど前にインド北部の王族の息子(皇子)としてこの世に生を得る。

以来、王族として何不自由ない生活の中を送っていたが、ある時、このような贅沢な生活を送っていても、老・病・死の3つからは逃れられないという自らの境涯と人間の人生というものに儚さや無常を感じ、29歳の時に出家したのだった。

その後、6年間の修行を経て、35歳の時についに仏の悟りを開き、80歳で入定する(亡くなる)まで周りの人々に仏法を説いてまわった。

以上、その釈迦を偶像とした釈迦如来像には釈迦の御霊があるとし、「人を悟りへと導いてくれる」という利生(利益)にあやかれるとする。

釈迦如来像は質素な像容をする

釈迦如来像は当時の釈尊(釈迦)のように質素で装飾品のない像容をとる。

本堂にて奉斎されるも、堂内に一般参詣者は入れないため、見ることすら素敵に叶わない。

浄妙寺のその他の仏像

聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)

鎌倉三十三観音第9番。

別名、観音菩薩とも呼ばれます。

観音様は人々を常に見ていて苦しんでいる人を救うときには三十三の姿に変えて救いの手を差し伸べます。

もともとは「正法明如来(しょうほうみょうにょらい)」という仏でしたが、人々を救うため如来よりも人間界に近い菩薩となりました。

その観音菩薩の基本のお姿が聖観音菩薩となります。

苦難除去、現世利益、病気平癒、厄除け、開運、極楽往生などのご利益があります。

本堂に祀られていますが、堂内には入れないため一般の参拝者は見ることができません。

淡島明神立像

婦人病や子授け・安産にご利益があるとされています。

本堂に祀られていますが、堂内には入れないため一般の参拝者は見ることができません。

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