一幡の袖塚(鎌倉幕府2代将軍・頼家嫡子「一幡丸の墓所」)|鎌倉(比企ヶ谷)妙本寺

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一幡とは❓

⬆️一幡丸の墓所ともなる噂の「一幡の袖塚」

一幡丸とも呼ばれる。一幡とは2代将軍頼家と若狭局(わかさのつぼね)の嫡子であり、将軍の世子(次代将軍)だった人物。

若狭局は史上にあまり登場しないことから、謎多き人物とされる。生年は不詳、鎌倉幕府宿老・比企能員(ひきよしかず)の娘と伝わる。

頼家が17歳の時に頼家の世子となる一幡を受胎し、出産する。

1199年正月13日、頼朝卿が死没すると、時を待たずして2代将軍の座に就いた頼家だったが、それからわずか4年後となる1203年(建仁3年)7月、突如、病床に伏し、危篤状態にまで陥る。

愚管抄(ぐかんしょう)よると、大江広元の館にて突如として倒れた後、そのまま広元邸にて病床に伏し、いよいよ自らの最期を悟った頼家は、次代将軍位を一幡へ譲位することを伝えたとされる。

吾妻鏡によると頼家死後の遺産相続については、13人の合議制によって一幡に関東28ヶ国の守護・地頭職、千幡(頼朝卿の次男坊。後の実朝。北条時政寄り。)には西国38ヶ国の守護・地頭職を譲るとしたが、比企能員はこの沙汰に納得ができず、意義を唱えた。

それから程なくして頼家の病気快復祈願を兼ねた薬師如来像の開眼供養を行う運びとなり、北条時政の名越邸に呼び出された比企能員だったが、邸内にて待ち伏せされ討ち取られた。(比企能員の変の勃発)

1203年(建仁3年)9月2日、比企能員死去の知らせを受けた北条政子は、ここぞとばかりに比企能員を謀反人として吊るし上げ、幕命によって弟・義時を総大将に任じて比企ヶ谷の比企能員の館へ軍勢を差し向けた。

こぅして比企の館は燃え上がり、一幡はじめ、その母ジャたる若狭局も業火に飲まれて逝ったと伝わる。

翌朝早朝、まだ方々で煙が立ち、無残にも燃え尽きて焼け野原となり果てた比企館に将軍・頼家が寵愛する蹴鞠(けまり)の達人・大輔房 源性(たゆうぼう げんしょう)が訪れ、焼け跡から焼け焦げた小袖の一片を拾い見ると、わずかに菊の文様が見えた。

源性はそれが一幡丸がよく身につけていた着衣であったことを思い出すと、静かに目を閉じて胸前で両手を合わせた。

これにより頼家は梶原景時に続き、比企能員といぅ自らの左/右大臣を失い、もはや両手をもがれた完全フルチン状態となったのだった。ちゃんちゃん




一幡の振袖塚

鎌倉妙本寺の祖師堂の前には比企能員の菩提を弔うための墳墓(比企一族の墓)と、一幡丸を供養するための塚(一幡の袖塚)が並び立つ。

一幡丸の袖塚は竹垣に囲われ、現在も大切に供養されている様子がうかがえる。

⬆️竹垣の左側には「源頼家嫡男 一幡君‥‥」などの陰刻が見える

標柱の側面に目をやると「享和三年〇〇三月」などの刻銘が見える‥‥ということはこの標柱は1803年/江戸時代に奉献されたことになる。




夏、急にワキガのドブ臭さほど噂の一幡の袖塚

 

竹垣の最奥には五輪塔が建てられているが、これが一幡の袖塚と思われる。

ところで‥‥「袖塚」の意味とは❓

前述にて比企館の焼け跡から蹴鞠の名人・源性が一幡の小袖を拾い上げたが、まさにその小袖がこの袖塚の地中に埋められ、こぅして現在も供養されていると伝わる。

一幡の法号

妙本寺の寺伝によると一幡丸には「英才儀道芳縁大童子尊霊」と言う諡号(法号)が贈られたと伝わる。

塚石の後ろには卒塔婆(そとば)が数本、見えるがいずれにも「英才儀道芳縁大童子尊霊」の墨字が見える。(実際の法号では「縁」が旧字とのこと)

 

若狭局は讃岐局とも呼ばれる❓

妙本寺の寺伝によると若狭局は讃岐局(さぬきのつぼね)とも呼ばれ、これが当寺の伝承になっているとのこと。

その讃岐局は2人の子を産み落としたとされ、嫡子の一幡のほか、竹御所という少々ピチピチとした娘っ子がおったそぅな。うギャギャ

また、妙本寺の寺伝では比企の乱の最中、讃岐局(若狭局)は焼死や逃亡したのではなく、池に身を投げて入水を図ったとされ(もしくは井戸に飛び込んで自害とも)、一幡は小御所内で焼死したと伝えられているとのこと。

なお、妙本寺境内(プチ飛び地)には讃岐局(若狭局)の御霊を供養するための蛇苦止堂と呼ばれる御堂までも建てられてい‥‥申す。アヒャっ

蛇苦止堂については下記ページを参照。

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