北条義時の邸宅の場所はドコ❓【歴代執権館一覧】

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吾妻鏡を基本とした鎌倉時代の様々な歴史書を見て行くと、どうやら北条義時の鎌倉における居館は数カ所存在した模様。

以下、備忘録としたものだったが敢えて公開しておこぅと思ふ。(あくまでも参考程度に。)

北条義時の居館一覧と場所

執権館(しっけんのたち)

  • 所在地:雪ノ下
  • 別名:大倉亭、鎌倉の第(かまくらの だい)

執権館とは当初は義時公の邸宅となる大倉亭や小町亭、二階堂亭を指していたが、時代が下るにつれ、当代執権が政務と執った場所ともなっていく。

鎌倉ノ亭(旧・安田義定邸)

  • 所在地:小町大路と若宮大路の北端

「鎌倉ノ亭」は小町の北西の地に比定。

場所としては小町大路が東面、若宮大路が西面、横大路を北面とした地に比定。(どうやら泰時公は以前より定期的に当館(鎌倉ノ亭)の修理をしていたことが鏡に記される)

出典は鏡の六波羅探題・首長を務めた北条泰時公が鎌倉への帰着後、由比ヶ浜に宿し、翌日(元仁元年 6月27日)、吉日だったことから小町西北の鎌倉ノ亭に入ったとある。

一説に安田義定の居館だったものが幕府に収公され、それが義時に下賜された説がある。

この安田義定の居館こそが、小町の北西の地あったとする見解があり、つまりその居館こそが義時に下賜された後、「鎌倉ノ亭」と呼ばれるようになった説となる。

義定の居館が収公された理由は安田義定の父・安田義資にある。

義資は永福寺の法要の最中、儀式に奉仕した幕府女官にLOVEを抱き、抑えきれないLOVEな心は暴走を果たし、ついに渾身のラブレター💌を手渡しちまったが‥‥‥‥あえなく轟沈❗️😭

この事実が翌日にバレてしまったのだった….。フラれた瞬間の気持ち分かるでぃ〜

結果、梟首に処せられたとある。(安田義資が属した武田党は、かつて木曽義仲と盟友関係にあったことからその懲罰だと考えられてい‥‥ます。ふぅ

ちなみに、この頃の義時・大倉亭には北条義時の後妻・伊賀ノ方が居住したとされる。




御所北東の「鎌倉ノ亭」

実は鎌倉ノ亭は泰時公になってから改築されていて、それが若宮大路沿いに新造した執権館としての鎌倉ノ亭になる。

泰時公は当時、宇都宮辻子にあった鎌倉の幕府を北側200メートルの地へ移転する計画を掲げ、その折、同時に自亭を北側東端に移築して、その南側に幕府を配置する計画を立案。(鏡の「小山(朝政)館の正北方に相当る」に傍証)

これが後年、「若宮大路幕府」や「若宮幕府」と呼ばれる。敷地内には鎌倉殿の入御に備え、車宿(くるまやどり)が置かれ、得宗家被官の邸宅も軒を連ねたと伝わる。

泰時公の亭は横大路に面していたとのこと。だとすれば位置的には宝戒寺の隣地だったことになる。

若宮大路幕府は1236年(嘉禎2年)から1333年(元弘3年)の98年間、鎌倉の幕府として歴代将軍ならびに執権が政務を執った場所となる。

小町亭

吾妻鏡の1247年(宝治元年)7月17日条によると、北条経時(ほうじょう つねとき)は幕府郭内にあった泰時公の旧亭(北東隅館)に住み、時頼は「小町亭(現在の宝戒寺の地)」に住んでいたことが記される。

花亭

1247年(宝治元年)10月、時頼の小町亭で新第の造営が開始され、11月14日条によると、若宮大路東側北端に比定される「花亭」と呼ばれた居館に北条重時(極楽寺流)が入ったとある。(重時は同年7月27日にすでに連署に就任していた)

当館は評定所、訴訟人などが着座する間、東小侍などが附帯するなど執権館の典型とされる。

泉谷亭

  • 所在地:扇ヶ谷2丁目13,15,16,17(現在の鎌倉市川喜多映画記念館あたり

泉谷亭は直接、義時さんの執権館とは関係無いが、成り行きで一応掲載しておこうと思ふ。 なんやそれ

1252年(建長四年)7月、当代の鎌倉殿であった宗尊親王は新造された二条教定(飛鳥井とも)の泉谷亭に入り、新御所が完成するまでの約5ヶ月間、当地で過ごしたとされる。

この当時、泉谷亭は執権館として利用さていた説がある。

(7代執権の北条政村と教定は昵懇の仲だったのは有名な話)

相州館

鎌倉年代記裏書によると、宗尊親王の御子・鎌倉幕府第7代将軍・惟康親王(これやすしんのう)/在位:1266年〜1289年)は、1276年(建治二年)正月20日、当時、執権館とされた相州館へ入御し、御所としていたとある。

 

以上、新たな事実が分かり次第、逐次、更新予定。うきゃ

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