北条義時の墓【国史跡】と義時の法華堂の歴史|鎌倉市雪ノ下

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北条義時の墓(法華堂跡)【国指定史跡】

史跡登録年月日:2006年(平成18年)7月28日

登録史跡名勝:史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)

遺構の年代

13世紀末〜14世紀初頭(遺構の下限年代)

つまり、西暦1300年頃の遺構であると推定されたことになる。

年代的に吾妻鏡に記される義時没年齢や当地に埋葬された経緯とを比較すると、約80年の差異はあるものの程よく合致する。

鎌倉幕府2代目執権・北条義時の死と義時法華堂の建立

鎌倉幕府2代目執権・北条義時は承久の乱においては主導者として幕府軍を組織し、結果、朝廷軍(後鳥羽上皇軍)を破って見事、勝利に導いた。

この勝利は、これまでの貴族が支配した世から、鎌倉幕府という武家政権が史上初めて日の本全土を統治する世をもたらした。

義時はこの劇的な勝利に一喜一憂することなく、今まで以上に京師ならびに西国を監視するため、自らが心底信頼を寄せる嫡男の北条泰時を六波羅探題の首長に任じて在京させた。

1224年(元仁元年)6月12日の辰ノ刻(午前8時頃)、それは突然のことだった。

義時は倒れた。

この頃、義時は日頃から脚気をわづらい、心神違乱、心身ともに乱れがちだったが、それが急に悪化し、吐き下すことも多くなった。

翌早朝の寅ノ刻(午前4時頃)、ついに臨終間際という事態にまで瀕し、剃髪の上、出家法要までもが営まれ、「得宗(とくそう)」という法名までもが贈られた。

そして巳ノ刻(午前9時頃)を少し過ぎた頃、義時は静かに息を引き取った。享年62歳だった。

吾妻鏡によると、1224年(元仁元年)6月18日の戌ノ刻(午前8時頃)、故・右大将家 法華堂(頼朝卿の墓)の東山上(東側の山の頂)に義時の遺骸が埋葬され、すみやかに法華堂が営まれたことが記される

また、義時が埋葬されたその夜、義時法華堂の南麓、おおそ200坪ほどの平地に御家人たちが参集し、冥福を祈ったことが記される。

6月26日には北条泰時が鎌倉に着到し、翌日、自らの鎌倉の亭(小町の西北)へ入った。

⬆️義時法華堂跡全体の様子(奥にウっすら見える建物は清泉小学校)




義時の墓(義時法華堂跡の歴史)

1231年(寛喜三年)10月25日夜、鎌倉市中で火事があり、右大将家墓(頼朝卿の墓)と義時法華堂(当地)が焼失す。

同27日には再建計画が協議され、再建計画が成った。同年11月18日には上棟式が厳修される。

義時法華堂には管理する別当が置かれた?

1233年正月13日、鎌倉幕府3代目執権・北条泰時が右大将家・頼朝卿墳墓ならびに父・義時法華堂へ礼拝す。

泰時は父・義時が眠る法華堂下の地面に敷かれた敷皮に座して手を合わせて読誦した。

随伴した法花堂(法華堂)別当の尊範は気遣いから泰時に昇堂を勧めたが、泰時は静かに首を横に振り、座したままの念仏三昧を続けた。

「義時法華堂の周りには民家があった?」

1235年(嘉禎元年)9月1日、義時法華堂もしくは右大将家法華堂境内には湯屋があったらしく、この湯屋から失火が生じるや否や、延焼を防ぐために法華堂周りの民家数十棟を諏訪盛重が壊して鎮火したことが記される。

この湯屋失火の折、当地には民家数十棟が軒を連ねるほどの広さが在ったこと、そして、当地が鎌倉時代より平場だったことが分かる。

幕府要人の葬儀も義時法華堂で執行されるようになった?

1240年(仁治元年)12月21日、幕府評定衆・二階堂基行の初七日の法要を泰時主宰にて義時法華堂にて厳修された。

以後、幕府功労者および要人の追善が義時法華堂で執行されることが、幕府の慣例となる。

宝治合戦

1247年(宝治元年)6月5日、義時法華堂に立て籠もった三浦泰村とその一族郎党が堂内にて自害におよぶ。

吾妻鏡には泰村の弟・光村が自刃する直前、自らの骸と断定できないように自らの顔を短刀で切り刻んで果てたことが記される。

同9日、駿河金持荘の御家人・金持次郎左衛門尉が従者1騎を従えて麓から義時法華堂まで乗馬のまま一気に駆け登り、法華堂からの逃亡者を捕縛したことも記される。

同13日には下総国御家人の大須賀八郎範胤(君島範胤)が捕縛された。

⬆️義時法華堂跡入口には写真のような鎌倉市設置の看板もある

以後の歴史(年表)

1249年(宝治二年)閏12月13日、極楽寺流・北条重時&時頼が義時墳墓堂(義時法華堂)へ礼拝す。

同12月29日にも北条重時&時頼が幕府宿老を引き連れて義時墳墓堂ならびに右大将家頼朝墓、北条政子墓を巡拝す。

1280年(弘安三年)10月28日・丑ノ刻(午前2時)、「関東評定衆伝」によると、義時法華堂が焼失したと記す。

1284年(弘安七年)11月27日に評定衆・安達泰盛がこれを再建してい申す。きゃ

源家伝来の名刀「髭切丸」「膝丸」が義時法華堂にあった?

弘安合戦(弘安八年/11月)にて安達泰盛が滅び去ると、北条貞時は泰盛が所有していた源家伝来の「髭切丸」「膝丸」という名刀を義時法華堂へ寄進する。

「北条貞時寄進状」によると、安達泰盛が霜月騒動で滅んだ後、執権・北条貞時の所有物となり、その後、貞時は赤地の錦袋に包んで法華堂へ奉納したことが記される。

しかしながら現在、この刀の所在は知れず、実在性も判然とせず。また、奉納されたのが、義時法華堂ではなく、右隣の右大将家・頼朝卿の法華堂とも考えられないこともなぅぃ。

1336年(正慶四年)7月24日、中先代の乱(なかせんだいのらん)を起こした北条時行(北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児)は鎌倉を奪還し、翌月8月12日に頼朝&義時法華堂に所領を寄進する。

1541年(天文十年)9月、鶴岡八幡宮寺・二十五坊の相承院供僧・怪元は当供僧職と法華堂職を僧侶・融元に譲与す。これにより、頼朝&義時法華堂は二十五坊の相承院の所管にあったことが明らか。

1788年(天明八年)4月、徳川家康公が法華堂料・別当料として永32貫文の土地を相承院へ寄進す。(相承院文書)

この頃、頼朝卿伝来の法華堂本尊・銀製聖観音像が現存していたらしく、相承院文書の記録によると「髻観音(もとどりかんのん)」と呼ばれていたと記す。

明治初頭

神仏分離令によって相承院が廃院となり、頼朝法華堂下に白旗神社が創建される。

昭和初年

赤星直忠氏により当地の検分が実施され、現在の頼朝の墓西方あたりに法華堂遺趾が見つかる。

赤星氏の研究によると、鶴岡二十五坊・荘厳院の住持(住職)が大御堂ヶ谷より持ち出した層塔が、現在の頼朝墓の層塔の一部か、それ自体に相当するとのこと。

ゆえに伝・頼朝の墓とされる。

義時の法華堂は1310年以降、歴史から姿を消した?

鎌倉幕府側の歴史書とされる吾妻鏡(あずまかがみ)には1310年(延慶三年)に義時の法華堂が焼失して以降、ほとんどの歴史書に名前が記されることが無くなった。

もはや歴史から消えたと言ってもよぃ。

しクぁしながら吾妻鏡には確かに「前奥州禅門(義時)を葬送す。故右大将家(頼朝卿)の法華堂の東の山頂を以って墳墓となす」や、その8月には「新法華堂」と称した「墳墓堂」が建立された旨の記述がありながらも、これまで考古学的見地による確証がなされていなかった。

そこで2005年(平成17年)、本格的に当地の発掘調査が実施され、その結果、一辺が8.48メートルの堂宇(お堂)が建てられていたことが明らかにされた。

つまり、当地には吾妻鏡に記される内容とほぼ合致する、義時の墳墓となる法華堂が建っていたことになる。

具体的には以下のような遺構が発見された。




義時の法華堂で発見された物一覧

縁束

縁束とは堂宇の周囲の縁を支える柱のこと。

雨落ち溝

現代の家屋の屋根には雨樋(あまどい)が据付られるが、鎌倉時代の当時は雨が降ると屋根の軒先から雨垂れとしてそのまま地面に落とした。

その雨垂れした雨水を流すために造成されたのが「雨落ち溝」となる。

当時の雨落ち溝は石を三列に並べ、外側の石コロを高く積み、中央の一列は石コロを低く積んで溝とした。

礎石

礎石とは、上記、縁束を地面で支える石コロとなる。

残念ながら堂の屋根を支えていた礎石はすべて抜かれていて、礎石は発見されなかった。

おそらく漬物を漬けるための上の載せる石コロには最適てきてき敵多ぃ‥‥てな敵の多さほどに漬物石として使用すべく、現在までの間に誰かが持っていたのだろぅか。

この調査では瓦も出土しており、瓦葺きのお堂であったと考えられてい‥‥‥申す。パっ(ネタ切れ)

⬆️瓦の出土した状態

⬆️平瓦や丸瓦などの瓦が出土

義時の法華堂は上掲写真のような瓦が数多に出土していることから、瓦葺きであったことが明らかにされた。

瓦質火鉢

瓦質火鉢(がしつひばち)とは、粘土を焼き上げて制作された火鉢のこと。

火鉢とは、灰の上で炭を燃焼させて、暖房や湯沸かしなど、簡単な調理に使用したりするもの。

材質としては陶磁器や金属や木材など。

瓦質土器は中世後期頃の遺跡から出土することが多く、使用用途としては奢侈品や日常雑器に到るまで様々。

法華堂では上掲写真以外にも数多の火鉢類が出土した。

土器(かわらけ)

土器とは素焼きの皿、もしくは使い捨ての食器のこと。

上記、瓦と同時に土器(かわらけ)も出土しており、これらの調査結果も含め、お堂(建物)自体は13世紀末頃〜14世紀初頭頃には、すでに使用されていなかったことも明らかにされた。

この時代の土器は、ある程度、高貴な身分の者が用いた一面があり、特に宴会などで一度に多量に使われることもあった。実際に鎌倉市内の他所の発掘調査において大量に出土している例もある。

なお、土器は時代によって形状が若干、異なるため、遺構の年代を知る手がかりともなる。うきゃ

上記、火鉢といい、大量の土器といい、これらが大量に出土したということは、当地にて大勢の人が寄り集い、何か儀式のようなものが執行されていたことが想像につく。

義時公周忌供養の法要などが行われていたのだろぅか。

舶載磁器

舶載磁器(はくさいじき)とは中国や朝鮮半島から輸入されてきた焼き物のこと。

高麗青磁器の梅瓶、性磁器‥‥ではなく、青磁器!!の水柱、白磁の皿などが出土した。ふっ

雨落ち溝から割り出された義時法華堂の規模(大きさ)

屋根先から雨垂れとなった雨水を雨落ち溝で受けるとすれば、雨落ち溝の上には屋根があったことになる。

‥‥‥ということで調査の結果、一辺8.4メートル(28尺)の正方形の範囲に、三間四方の堂宇だということが明らかにされた。

義時法華堂の見取図

画像は現地案内板より

義時法華堂の柱間の長さ

9尺-10尺-9尺(推定)

屋根の軒出は1.96メートル(6.5尺)と推定




発見された建物(お堂)の遺跡跡

縁束の礎石と雨落ち溝

 

義時法華堂の特徴

この義時法華堂は調査の結果、西隣に建っていたと想定される頼朝法華堂よりも約3メートルも低かったことがあきらかにされた。

法華堂と呼ばれる所以(理由)

義時の墓は後世、「墳墓ノ堂」や「新法華堂」などと呼ばれたことから、法華堂様式の堂宇が建てられていたことされ、これが今日、「義時の法華堂跡」と呼ばれる理由となる。

本当に義時の法華堂なのか?

義時の法華堂跡ならびに、さらにその東北の中腹に伝・大江広元の墓ならびに、伝・島津忠久の墓があり、これらの墳墓は江戸時代に整備されており、実際に江戸時代の地図にも現在の平場が描かれる。

また、今日までの度重なる調査においても当地に義時の法華堂(墳墓)が在ったとされてい‥‥ます。ふぉ

もう1つ鎌倉に義時の墓があった?

鎌倉市西御門2丁目22番地、旧村上忠助宅(現・鎌倉みらいラボ)背後の山中には小径がある。

この小径を進むと左側に石段が現れ、これを登ると竹林が広がり、その向こう側に平場が見える。(現在この場所は草木に覆われて分かりにくく、近づけない)

この平場の左側には小石祠、右手の高台にはヤグラが2つ視認でき、右のヤグラに納置される墓石の後ろには「北条義時公尊霊云々」と陰刻された卒塔婆がみえる。

これがもう1つの義時の墓されるものだが、現在までの見解では義時の墳墓は前述のように法華堂が建立された法華堂様式だとされる。

つまり、当墳墓(墓石)は義時の正式な墳墓では無いことになる。

おそらく後世にて義時を信奉する者たちによって奉献された、もしくは現在の義時法華堂跡は平成17年になってよぅやく正式に公認された経緯を以ってして、当地が確かに義時の墳墓であったことを忘失しないために石標を兼ねた墳墓としたのだろぅとみる。

もう1つの義時の墓の場所(下掲地図の目玉親父の辺り)

⬆️真冬にコーンポータジュHOTやと思って飲み込んだらICEやった時の コレどないしまんねん 的な心境ほど噂の‥‥「旧村上邸跡」

義時の法華堂が建つ場所に注目!「頼朝卿の墓の鬼門」

考えてみれば義時の法華堂の場所は右大将家・頼朝卿の墓から見て北東の艮(うしとら)・俗に鬼門と呼ばれる方角に建つ。

その様子はまるで鬼門から頼朝卿を護っているようにもみえる。

実はこれは偶然などではなく、義時が頼朝卿一の寵臣であることを示すと同時に、頼朝卿の正当後継者だったことを世の人々が認めたことをも示す。

義時の法華堂をAR・3Dで見る!

現在、現地(義時法華堂跡地)に行けば、AR・3D映像で往時の義時法華堂の姿を見ることができる。

ただ、所定のバーコードを専用のアプリに読み込ますことが必須になるので、スマホやタブレットなどの携帯端末機が必要となる。

なお、当アプリは原則、現地にて敷地内を歩き回ることによって、四方八方から下掲写真(画像)のような義時法華堂が見られる。

斜め上から

少し離れて遠望

正面から

堂内の様子

堂内中央には須弥壇が設けられ、須弥壇上には下掲の頼朝卿の法華堂にかつて安置されていた如意輪観音坐像が見える。




堂内には頼朝卿法華堂に安置されていた如意輪観音菩薩が安置される!

以下のような説明看板までAR3D映像で描かれてい‥申す。アっ

説明

如意輪観世音菩薩(鎌倉市来迎寺の客仏)

江戸時代、現在の白旗神社の位置にあった源頼朝法華堂に安置されていた仏。

あらゆる願いを叶えてくださる。

アプリ「AR北条義時法華堂」の使用方法

スマホやタブレットにインストールして使用できる。

 インストールしたアプリのアイコンをタップし、アプリを起動する

 音声の有無を「はい」か「いいえ」で選択する。

 「現地でAR」をタップする。

 現地案内板のQRコードをにスマホカメラを向け、QRコードが画面に映るようにする。

 画面に矢印が出たら、矢印の方向にスマホを向けると復元CG画面が現れる。




QRコード

※法華堂が画面に表示されたら敷地内を歩きまわって建物の周りやお堂の中を見よう!(通行人に要注意)

アプリの取得方法

Googleプレイストア

「法華堂」で検索やでぃ!

 AR北条義時法華堂(GooglePlay)

Apple Store

同じく「法華堂」で検索や!

 AR北条義時法華堂(App)

三浦泰村or三浦一族の墓もある!

近くには、頼朝卿の側近かつ、鎌倉幕府政所初代別当を務めた大江広元ならびに、鎌倉幕府 評定衆・三浦泰村(みうら やすむら)とその一族の墓もある。

⬆️梅干しとかポン酢を見た時になぜか湧き出てくる唾液の量ほど噂の‥‥「三浦一族の墓」

三浦泰村は義時亡き後の北条氏のポストを狙ぃ、安達景盛の謀略にまんまと乗せられて鎌倉にて挙兵したが、安達軍を糾合した北条軍との一戦(宝治合戦)にて惨敗する。

追い詰められた泰村は義時法華堂へ逃げ込み、一族郎党ともに堂内にて自害して滅んだ。

これにより三浦義村が北条家に並ぶほどに発展させた三浦氏は滅び、以後、三浦氏勢力を併合した北条氏による北条得宗政治が始動する。

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