鶴岡八幡宮の二十五坊とは?
鶴岡八幡宮境内の奥の地、ちょうど「鶴岡文庫」や「神奈川県立近代美術館(鎌倉別館)」が建つあたりは「御谷(おやつ)」と呼ばれる地域であり、往時は25人の住坊が軒を連ねた。
また、鎌倉時代以降、御谷全体を指す名称でもあったとされる。
頼朝卿は供僧(ぐそう)の数を定めた際、二十五菩薩になぞらえて25人と定めたと伝わる。
なお、頼朝卿が選出した供僧の16人までが平家一門だったと伝わる。うきゃ
八幡宮に供僧が初めて置かれた年
八幡宮に伝わる「供僧次第」という旧記によると、1180年(治承4年)11月13日に善松坊重桁(じゅうえん)および、蓮華坊勝円(しょうえん)という僧が、源頼朝の一存により供僧職を賜り、京都から八幡宮へ下向したとある。
頼朝卿は鎌倉都建設の構想をふくらませて充満させた頃、まずは八幡宮を由比郷から現在地となる小林郷北山へ移す計画を立てる。
そこで由比の八幡神を源氏の神として奉斎することで鎌倉都の核にしようと計画した。しかし祭祀を取り仕切る僧侶がいない。
僧侶といっても阿闍梨(あじゃり)ぐらいの僧位を有し、尚且つ、評判や知名度のある僧侶が必要だった。だから鎌倉一の古刹とされる杉本寺の住職には目もくれなかった。
そこで条件に見合う僧侶を探すことになるのだが、最初に見つけたのが上総国に流されていた定兼という僧侶だった。
その定兼を上総国にいる源義朝の郎党であった平広常(上総広常/かずさひろつね)に連れてこさせた。
さらに同年度中に良喜、尊念、仲円、良成が鎌倉入りし、次年の1181年(養和元年)になると円信が供僧職を賜る。
これ以降もさらに供僧は増え続け、1191年(建久2年)11月22日に記された源頼朝寄進状には「鶴岳八幡宮寺廿五口」、吾妻鏡の1192年(建久3年)7月23日の条項にも「鶴岡供僧廿五口」と記されるように、およそ建久2年から建久3年頃に25人の供僧職が八幡宮に置かれたことになる。
また、旧書「諸職次第」の記述には「鶴岡八幡宮寺供僧二十五口」と記されており、当初は「二十五口」と呼ばれていた背景がうかがえる。
「鶴岡八幡宮寺供僧二十五口」とは?
「鶴岡八幡宮寺供僧(ぐそう)二十五口(にじゅうごく)」と読む。ここでの「口(く)」とは数を数える単位のこと。(この時代、どうも僧侶の数をカウントする際、「口」という単位を用いている。)
「供僧」とは、早い話がその寺の「供奉僧(ぐぶそう)」」の略語。供奉僧という言葉を辞書で引くと、『本尊に仕える僧。 もしくは神社に奉仕する社僧。』と記されていることから、これすなわち、往時の鶴岡八幡宮に奉仕した僧侶(神職)のことを意味する。
既知の方も多いとは思うが、往時の鶴岡八幡宮は「八幡宮寺」とも称されるほど、境内に堂塔が建っていたとされる。
まぁ、そもそも八幡神(はちまんしん)は仏教の菩薩号を以って「八幡大菩薩」とも呼ばれた背景も無視できない。
神祇が仏教を守護するといぅ名目のもと、その神仏混淆の象徴たる八幡神を奉斎している事実を以ってしても、すでに社寺が習合したような形態だったといえる。
鶴岡八幡宮寺供僧二十五口の成立年
建久2年から3年頃に25人の供僧が置かれたが、その後、養和元年10月16日に行勇が慈月坊の初代供僧に補任されたことに端を発し、建保5年7月20日に円信が座心坊の供僧に補任されたことにより、「二十五坊供僧」が正式に成立している。
なお、二十五坊供僧へ補任されるためには、供僧職を賜ることが絶対条件だったとされる。
二十五坊それぞれの坊の名前の由来とは?
坊名の名前は、その寺に住持した人物(住職)の名前(坊名)を、ほぼそのまま坊舎の名称として使用したもの。
ただ、当初からの坊名をそのまま踏襲せず、時代を経ながら坊名を変更する坊舎も現れた。
変更した理由は、その坊舎の住職の個性的な見地からの判断と決断によって、いとも容易く変えたと伝わる。
二十五坊の後継(補任)方法
当初は頼朝卿と円暁(えんぎょう/頼朝卿の従兄弟)によって補任(任命の儀)が執り行われ、1197年(建久8年)11月1日になると別当職が頼朝卿に成り代わり、補任の儀を執り行ったことが記されてい‥‥‥申す。ギョホェっ
脇堂供僧
二十五坊の供僧以外にも「脇堂供僧」と呼ばれた供僧たちも存在したとされる。
脇堂供僧一覧
- 神宮寺:2口
- 千体堂:2口
- 金銅薬師:2口
- 尊勝仏:1口
- 七佛薬師:1口
- 五大堂:1口
- 炎魔天:1口
- 北斗堂:1口
以上の合計11口から脇堂供僧は成り立っていたとされる。
これらの脇堂供僧は「鶴岡脇堂供僧次第」という旧記によると、およそ承元、建歴、建保年間に神宮寺が2口、千体堂が1口、尊勝仏が1口、七佛薬師が1口、置かれたことが記され、弘安年間には五大堂1口、炎魔天が1口、北斗堂1口が付加されたことが記されてい‥‥‥申す。ディギャっ
以上を旧記の内容と照合してまとめると、脇堂供僧は承元2年頃から置かれはじめ、弘安6年(1283年)に成立したと考えることができる。
別称「根本脇堂供僧」
脇堂供僧は元来、二十五坊の供僧たちが兼務したが、これを当時では「根本脇堂供僧」と呼んでいた。
しかし、金銅薬師が置かれた頃を境とし、二十五坊の供僧以外からも補任されるようになった。
供僧の役割
- 天下安寧などの国家的な祈祷を定期的に執り行う
- 社役に就く
これらの任を担ったのが二十五坊供僧たちだった。
国家的な祈祷の中には、最勝王経、大般若経、法華経、供養法、諸経の勤行もあり、それぞれの経典の勤行が各坊に割り振られていた。
頼朝卿がしたためた補任状の「勤行恒例不退御祈祷」の項によれば、最勝王経、大般若経、法華経、供養法、諸経の勤行を若宮で執り行い、聖観音供、三部法華経を上宮(本宮)にて、毎日欠かさず執り行うことが記されている。
八幡宮に伝わる「社務職次第」という旧記によれば、1180年(治承4年)10月16日に八幡宮にて初めて大般若経を用いた勤行を執り行ったことが記されている。
ちなみに、この時はまだ二十五坊供僧という機関が成立していなかったことから、二十五坊供僧としての出仕はなかった。
しかしながら、この日、前述の善松坊重桁、蓮華坊勝円、良喜、定兼、尊念、仲円、良成らが、供僧職を賜っていることから、形式的には供僧職として出仕したことになる。
以後は供僧職に補任される者が増えるにつれ、勤行される経典の数も増加し、建保5年を迎える頃には最勝王経や大般若経以外の経典の勤行がはじめられ、それぞれに供僧が割り当てられたと考えられている。
二十五坊の役割
弘安年間にはさらに職務が増えた
二十五坊供僧は、各経典の読誦以外にも座不冷本地供養(ざさまさぬ-ほんちくよう)ならびに、八幡宮廻御影と呼ばれる任務もあった。
座不冷本地供養とは?
座不冷本地供養とは、僧が座を離れることなく連日行なう修法のこと。主に密教で用いる。
9代・執権職の北条定時の御願によって1285年(弘安8年)3月17日に開始されたとされる。
八幡宮廻御影とは?
八幡宮廻御影とは、八幡宮に伝わる御影(神仏・貴人の姿を描いた画像類)を一ヶ月交代で各坊に安置すること。
兼務として雑事も担った
二十五坊供僧は、頼朝卿公認という背景もあり、上記の任務以外にも重要な職務となる御殿司職、執行職、執事職、学頭職などの職務を兼務したとされる。
御殿司職:
遷宮の時に御神体を担ぐ任務。1226年(嘉禄2年)10月20日に1人増やされて2人とされていることから、1人で担ぎ上げるのが容易ではなかったことがうかがえる。
執行職:
八幡宮廻御影の輪番を定めたり、法会の際の装束や袈裟、仏具や経所内のデスク(机)の調達および、月に3回、境内社頭や壇所(修法を行う場所)の見回りなど。
この他、貞和・観応年間あたりから勤行をサボっているクソ坊‥‥こホンっ!‥供僧!に注意を行ぅ。
執行職は元来、外様供僧といって将軍より直々に任じられた供僧の職だったが、時代を下りながらやがて別当により任じられた供僧が出仕している。
執事職:
別当付きの執事。庶務・事務(文書の書き写しなど)・雑務を別当補佐として担当。二十五坊供僧以外の供僧も担当した。
学頭職:
宗学の鞭をとる(教師)。仏事に関しての集会にて経論の講読。主に法華経8巻や、最勝王経などを毎日朝夜2巻ずつを4日間にわたって講読する。
時代を経ると、学頭職には二十五坊供僧以外からも任ぜられるようになった。
脇堂供僧の役割
脇堂供僧は二十五坊供僧が兼務していたが、1285年より5人増やされ、30人体制となっている。
年二回の法会の折、大乗経の衆が5人、座不冷の衆が5人というように30人の脇堂供僧の中から輪番にて5人ずつが隔年で選出されることになっていた。
両界壇所供僧の役割
八幡宮には他に「両界壇所供僧」という機関も置かれた。
両界壇所供僧の役目は、両界曼陀羅や一切経の供養を執り行うこと。
「両界壇所」とは、足利義兼と御台所(北条時政の子女・時子)が足利家先祖代々の繁栄と天下安寧を祈願すべく、1194年(建久5年)11月2日に一切経を記して両界曼陀羅を描き、同13日に別当の円暁が導師として供養したことに始まる法要のこと。オホ
二十五坊の歴史(年表)
1230年代
各坊の初代供僧がすべて着任を果たしたのが、1230年代に入ってからのことだったとつたわる。
1415年(応永二十二年)1月15日
院宣によって坊号が院号へと改号された。
1454年(享徳三年)
1454年(享徳三年)に成立した「殿中以下年中行事」の終わり際に「社家廿五院(25院)」と記される。
これは坊号から→院号へと改号されたことを意味する。
1504年〜1521年/永正年間)
衰微し、7院がかろうじて現存する有り様だったと伝える。
1593年(文禄二年/江戸時代)
徳川家康が十二院に再興する。(新編鎌倉誌)
なお、鎌倉攬勝考には「鶴岡の社地より西方にあり」と記され、物議を醸してい‥‥‥申す。ブツっ(”物議”だけに)
二十五坊は鶴岡八幡宮寺の運営において核となる集団だった!
以上を取りまとめると、二十五坊供僧とは、現在の鶴岡八幡宮の神職および、職員に例えられるものであり、すなわち当時の鶴岡八幡宮には欠かすことのできない存在であったことが分かる。
中でも煩雑さを極めたのが、御殿司職、執行職、執事職であり、実際、旧記を閲覧していると退務者が多いことに気づく。
しかしこれは、当時クジ引きで担当を決めたことから、これが退務者が多かった一因に挙げられるが、それ以上に職務の繁多を物語るものであろぅ。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ…… アンタ誰や
初代・二十五坊供僧一覧
坊名 | 僧侶名 | 補任年月日 | 授与者 | 出自など | 江戸期まで存在した院(系統) | 維新後に供僧が名乗った姓 |
詳細不明 | 定兼 | 治承4年2月4日 | 不詳 | 吾妻鏡に記載 | ||
詳細不明 | 禅叡 | 養和元年10月6日 | 不詳 | 吾妻鏡に記載 | ||
詳細不明 | 玄信 | 養和元年10月6日 | 不詳 | 吾妻鏡に記載 | ||
善松坊(香象院) | 重桁 | 文治2年1月19日 | 園城寺派・閑院家公重の子息(供僧次第に記載) | 京都 仁和寺の末寺 | 香山良実 | |
林東坊(荘厳院) | 行耀 | 正治元年以前 | 畠山重忠 | 延暦寺派・平家一門(供僧次第に記載) | 京都 仁和寺の末寺 | 武内康側 |
仏乗坊(浄国院) | 忠尊 | 正治2年3月7日 | 東寺派・藤原忠通の猶子(甥・姪・養子)(供僧次第に記載) | 京都 仁和寺の末寺 | 国司信成 | |
安楽坊(安楽院) | 重慶 | 建久元年8月 | 畠山重忠 | 園城寺派・平家一門(供僧次第に記載) | 京都 仁和寺の末寺 | 畠山嘉正 |
座心坊(朝宝院) | 円信 | 建保5年7月20日 | 北条時政 | 園城寺派・平家一門(供僧次第に記載) | ||
千南坊(正覚院) | 定暁 | 元暦元年5月18日 | 園城寺派・平時忠一門(供僧次第に記載) | 京都 仁和寺の末寺 | 筥崎博尹 | |
文恵坊(恵光院) | 永秀 | 建久7年3月18日 | 梶原景時 | 園城寺派・関白殿の孫(供僧次第に記載) | 京都 仁和寺の末寺 | 野田信高 |
頓覚坊(相承院) | 良喜 | 建久3年7月20日 | 北条時政 | 延暦寺派・平家一門(供僧次第に記載) | 京都 仁和寺の末寺 | 相良亮太(のち再出家) |
密乗坊(我覚院) | 朝豪 | 建久2年3月16日 | 畠山重忠 | 東寺派・藤原道経の孫・山座主顕真舎弟(供僧次第に記載) | 根来寺の末寺 | 岡本忠義 |
静慮坊(最勝院) | 良祐 | 正治元年以前 | 北条時政 | 園城寺派・平家一門(供僧次第に記載) | 京都 仁和寺の末寺 | 加藤良知 |
南禅坊(等覚院) | 良智 | 正治元年以前 | 佐々木 某 | 園城寺派・実本三位殿の子息(供僧次第に記載) | 根来寺の末寺 | 大島教義 |
永乗坊(普賢院) | 良稔 | 建久5年 | 東寺派・平家一門:近衛忠良の子息(供僧次第に記載) | |||
悉覚坊(如是院) | 仲円 | 建保2年3月15日 | 北条時政 | 園城寺派・平家一門(供僧次第に記載) | ||
智覚坊(花菌院) | 真弁 | 文治4年8月12日 | 梶原景時 | 東寺派・平家一門(供僧次第に記載) | ||
円乗坊(宝瓶院) | 顕信 | 正治2年12月20日 | 北条時政 | 東寺派・平家の門脇殿の孫(供僧次第に記載) | ||
永厳坊(紹隆院) | 定豪 | 建久2年3月3日 | 東寺派・源延俊の子息(供僧次第に記載) | |||
実円坊(金勝院) | 猷弁 | 建久3年4月5日 | 北条義時 | 園城寺派・平家一門(供僧次第に記載) | ||
宝蔵坊(海光院) | 義慶 | 建久3年8月11日 | 延暦寺派・平家の薩摩舎弟(吾妻鏡に記載) | 根来寺の末寺 | 海野俊雅 | |
南蔵坊(吉祥院) | 良成 | 建暦3年4月18日 | 小補方直家 | 園城寺派(供僧次第に記載) | ||
慈月坊(慈菌院) | 行勇 | 養和5年10月16日 | 園城寺派・四条殿の子息(供僧次第に記載) | |||
蓮華坊(蓮華院) | 勝円 | 文治元年1月1日 | 園城寺派・二条殿の子息(供僧次第に記載) | |||
寂静坊(増福院) | 盛慶 | 貞応2年頃or以前 | 園城寺派・平家一門(供僧次第に記載) | 京都 仁和寺の末寺 | 増山尚義 | |
華光坊(大通院) | 尊念 | 正治元年2月5日 | 北条時政 | 園城寺派・平家一門:藤原通房の子息(供僧次第に記載) | ||
真智坊(宝光院) | 隆宣 | 建久2年2月 | 園城寺派・藤原正家の子息(供僧次第に記載) | |||
浄蓮坊(如意院) | 良弁 | 文治5年6月23日 | 佐々木高綱 | 園城寺派・平家一門(供僧次第に記載) |
参照:ウィキペディア
二十五坊供僧跡
昭和41年に実施された発掘調査によれば、弘安年間の火災後、再興された建物の遺物とされる瓦や丸瓦が出土しており、およそ正和年間(1312年〜16年)に火災に見舞われたことが明らかにされてい‥‥‥申す。グヒェっ
この遺構は第7層目から発見されており、弘安期以前の火災は史実では建久3年(1192年)まで無かったことから、発見された建造物が弘安の火災で焼けたと仮定すれば、当該、建造物が建てられた年代は建久3年(1192年)ということになる。
江戸時代の鶴岡八幡宮と二十五坊供僧の様子
上掲、絵図は江戸時代後期の鶴岡八幡宮とその周辺を描いた地図だが、中央からやや左上部に「十二院」という文字が見える。
これが上表の中の「江戸時代まで存在した寺院」で解説した院になる。
江戸に幕府が開かれると、主に江戸城周辺の浅草寺や寛永寺、増上寺、神田神社(神田明神)などの社寺が幕府および、将軍家から多大な庇護を受けるようになる。
幕府は室町期には京都、そして江戸期になると江戸へ移ったこともあり、鎌倉の社寺は衰微し、江戸期に至るまでに多くの院が廃絶したことを物語っている。
江戸期まで存在した12の院を見ても分かるように、仁和寺(京都)や根来寺(和歌山)のような著名だった有力寺の末寺になることで、なんとか廃絶という最悪の事態を免れている背景がうかがえる。
現在の二十五坊跡地は「国指定・史跡”鶴岡八幡宮境内”」として現存!
以下、立て看板の内容。
この地域は国指定史跡鶴岡八幡宮境内のうち、二十五坊跡あるいは御谷(おやつ)と呼ばれ、鶴岡八幡宮寺に仕えた僧侶の住坊が営まれていたところです。
建久年間(1190年代)供僧二十五口の制が定められ、鎌倉時代には鶴岡八幡宮寺別当が東大寺、東寺などの別当を兼ねるなど、日本仏教界の中心の1つとなっていましたが、明治初年の神仏分離の影響を受け、廃絶しました。
また、この地域の史跡整備に先立ち、昭和63年3月に史跡の保存管理計画を策定しましたが、平成2年以降、住民との話し合いが行われ、平成13年4月に住民の意見を反映した保存管理計画に改訂しました。オホ
今後は住民をはじめ、市民の方々の協力を得ながら、史跡の保存・整備に取り組んでいきたいと考えてい‥‥‥申す。ジャホゲェっ
史跡・鶴岡八幡宮境内保存計画見直し記念碑
碑文
昭和63年3月、ここ御谷および鶴岡八幡宮前面東側の横町を含んで「史跡鶴岡八幡宮境内保存管理計画」が、住民の全く知らない間に策定された。
策定後、住民に何の説明のないまま、住民の財産権・生活圏を侵害する厳しい「現状変更制限」が開始された。
このため、御谷および横町の住民は、巨福呂坂町内会および横町町内会の全面的な支援を得ながら、「史跡鶴岡八幡宮境内保存管理計画を見直す住民の会」を組織
して、鎌倉市・神奈川県・文化庁と13年間にわたり、40回以上の粘り強い話し合いを続けた。その結果平成13年1月、住民の財産権・生活圏と文化財の
保護とを両立させることを基本として「保存管理計画の見直し」とその「解釈・運用の基準」を住民参加により策定した。
これは、鎌倉市は勿論のこと、広く我が国の、今後の文化財保護および国指定史跡における保存管理計画策定の規範・指針となるものである。
このことは、市民自らがブルドーザーの前に立ちふさがることによって、御谷の自然と環境の破壊を防いだ昭和39年の「御谷騒動」を通して、我が国
「ナショナルトラスト運動誕生の地」および「古都保存法発祥の地」となったここ御谷住民の輝かしい伝統を受け継いだ市民主義の成果である。
よって、この記念碑を建立して永く後世に伝える。
「史跡鶴岡八幡宮境内保存管理計画」を見直す住民の会
平成13年9月建之
鶴岡八幡宮の二十五坊の場所
本宮裏手にあるもう1つの休憩所「御谷休憩所」のさらに奥には駐車場が広がり、そのさらに奥には「鶴岡八幡宮鶴岡文庫」が佇むが、その鶴岡文庫の奥には、まるで7年と約半年間、伸ばし続けた陰毛のような何ともクソったれな草ボーボーな空き地が広がっている。 …なんで7年と半年やねん
⬆️夕方、撮影した噂のクソったれな草ボーボーの陰‥‥二十五坊跡地!!の姿 ふぅ。
‥‥‥こホンっ。
え〜まぁ、つまりこの陰‥おっと、シツコイ 空き地こそが、かつて鶴岡八幡宮に奉仕していたとされる供奉僧たちが住持した寺(僧坊)があったとされる場所である。ふぅ。 ”ふぅ”2回目
⬆️現在の二十五坊跡は金網が巡らされて進入禁止になっている。北鎌倉(建長寺)の方角へキゃメるぅァ(訳:カメラ)を向けて撮影
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