【畠山重忠邸跡】三幡(源頼朝と北条政子の娘)と丹波時長ゆかりの場所|鎌倉市 雪ノ下

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畠山重忠とは❓

畠山重忠(はたけやましげただ)は桓武平氏の出自で村岡五郎良文の末裔。武蔵国は大里郡 畠山庄の庄司重能の子。1164年(長寛二年)に生を得る。畠山二郎とも称する。

母は三浦義明の娘。1160年(永暦元年)以来、武蔵国は平家の知行国だったことから、父・重能は平家に帰属し、頼朝挙兵の時には京都大番役で在京した。

重忠は元服したての17歳で本領にあったが、福原の清盛入道より頼朝追討の下知が発せられたため大庭景親に随従し、三浦氏を攻めた。

1180年(治承四年)9月初めに頼朝卿が安房国(あわのくに/千葉県南部)で再起すると千葉常胤、上総広常らを調略して配下とし、房総半島をさらに進軍した。

9月末、武蔵国と下総国との国境の隅田川に達する頃には2万騎以上を擁する大軍勢となっていた。

そんな頼朝卿の勢いに気圧され、同族の河越重頼、江戸重長らとともに頼朝卿に帰属し、以後は鎌倉幕府の御家人として頼朝卿に付従して功名を立て続け、比企一族滅亡後は武蔵国最大の大豪族にまでのし上がる。

⬆️一ノ谷合戦において急峻な崖を勇猛果敢に愛馬で下る「在りし日の畠山重忠」

しクぁし!

1204年(元久元年)11月、重忠の次男坊(嫡子)の六郎重保が平賀朝雅と酒宴の席にて揉め事を起こし、平賀朝雅の妻母である牧ノ方の怒りを買ぅ。

程なく牧ノ方と讒言によって謀反人に仕立てられた重忠は、六郎共々、ことごとく討ち取られた。享年42歳。(畠山重忠の乱




畠山重忠の性格や人物像が分かる一場面

畠山重忠が絡んだ騒乱というと真っ先に上記、「畠山重忠の乱」が浮かぶが、実はもう1つこんな事件が過去にあった‥‥。

1187年(文治三年)6月、伊勢国沼田の御厨(みくりや/伊勢神宮の神領/松坂市)で重忠麾下の代官が横領事件を起こし、重忠にも嫌疑がかかる。

その結果、重忠が所有する領地は没収と相成り、身柄は千葉胤正(たねまさ)の預かりとなった。

重忠は自身の潔白を訴えるために自らに絶食を課し、その姿勢に心打たれた頼朝卿も重忠を信じ、所領を返還した。

しクぁし!

ここで再び事件が勃発する。

梶原景時が頼朝卿に「重忠は自らに重罪の責は無いにも関わらず、拘束された挙句、所領を奪われたことに不満を抱き、謀叛の胸中ありという噂を耳にします」

‥‥‥とお得意の讒言を披露したのだった。

頼朝卿もこれを信じないわけには行かず、下河辺行平(しもこうべ ゆきひら)、結城朝光(ゆうきともみつ)、三浦義澄(みうら よしずみ)、和田義盛らを招集し、重忠のことを問いただした。

するとメンバーたちは声を揃えてこぅ告げたと云ぅ。

『重忠は実直者にて物事の道理をわきまえる仁臣。謀叛を企てるような輩ではございませぬ。
かの者は現在、代官が犯した罪を自らが犯した罪のように恥じ、毎日深く反省するとともに伊勢の神を拝しております』

頼朝卿はそれを信じ、かねてより重忠の弓馬の友であった下河辺行平を重忠のもとへ遣わし、鎌倉の居館への帰参を許した。

鎌倉へ帰参した重忠は梶原景時と一席を設け、自身に企てなど米粒ほども無き胸中を告げた。

すると景時は「謀叛の胸中無きとのことなれば、起請文(誓文)を差出しなされ」と返した。

重忠は瞬きするよりも即答で返す。

起請文とは、罪を胸中に留めたる者が書く者。それを書くことによって世渡りに長けた者とも思われとぅはない。ましてや我に罪の意識など米粒ほどもない!
それを書くくらいなら謀叛の企てありと思われる方がマシじゃ』

景時は言葉をつぐみ、頼朝卿へこの話を伝えた。

話を耳にした頼朝卿は感動のあまり涙腺が緩んだと云ぅ。この一件以後、頼朝卿が重忠に疑念を抱くことはなく、以前にも増して重忠を重用したと伝わる。

畠山重忠邸の歴史(有名なエピソード)

1199年(正治元年)5月7日、頼朝卿と北条政子の間に生まれた次女の三幡(さんまん/大姫の妹にあたる)の治療のため、医師・丹波時長が鎌倉に下向する。

当初、逗留所として三幡の乳母父である中原親能の亀谷館へ入ったが、ほどなく御所近くの畠山重忠の南御門宅へ移る。この畠山重忠の南御門宅こそが、現在、「畠山重忠邸跡」と呼ばれる場所となる。

三幡治療の経過と結果

年月日できごと
1199年(正治元年)5月8日時長は朱砂丸を三幡に献上し、砂金20両の禄を受け取る。
5月13日御家人達が日別に時長を饗応する事が決められる。
5月29日三幡がわずかに食事を摂る。周囲に笑顔を浮かばせた。
6月14日三幡の体調、悪化。
12日頃より目の上が腫れ上がる。驚いた時長は、もはや人力の及ぶところではないと告げる。
6月25日中原親能が三幡の危篤の知らせを受け、急遽、京師より下向す。
6月26日時長が帰洛の途につく。
6月30日三幡が死去。享年14歳。(頼朝卿の死去から、わずか約5ヶ月後)
遺体は親能の居館のある鎌倉亀谷堂の敷地内に葬られる。
三幡の乳母父・中原親能は三幡の菩提を弔うため出家。

鎌倉亀谷堂の場所

鎌倉亀谷堂の場所は現在、未詳とされているが、中原親能の墳墓堂が亀谷堂と呼ばれていたことから、墳墓堂の近くに三幡の墳墓が築かれたことになる。

現在までの通説では化粧坂切り通しから少し降った場所に位置する(JRの高架下周辺にある)「岩船地蔵堂」が墳墓堂の前身とみられており、だとすれば岩船地蔵堂にて三幡の御霊が供養されていることにな‥‥‥る❓




畠山重忠の居館は実際には石碑の場所ではない❓

大正時代、鎌倉青年団は重忠の邸宅が建っていた場所を、鶴岡八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)道の東端前に比定し「畠山重忠館趾」の石碑を建立したと伝わる。

しかしながら、実際には現在の石碑が建つ場所から、さらに東方、八幡宮境内の流鏑馬道を東方(東鳥居/東門)へ出て、突き当たりの一帯と考えられてい‥‥ます。ふぅ

畠山重忠は頼朝麾下の御家人衆にあっては、才色兼備・怪力無双の勇士と賞賛され、数々の戦役に赴いて功名を立て続けたことから、頼朝のお気に入りとなり、大倉御所の南御門近くに邸宅を与えられたとみられる。

近年、改築に伴って発掘調査が実施され、実際に武家屋敷らしい痕跡が見つかったとのこと。

毎度おなじみ❗️鎌倉町青年団の畠山重忠邸の石碑(石板)の内容

 

正治元年(1199年)五月 頼朝ノ女(次女)三幡姫疾ミ(病気)之ヲ治
センガ為當世ノ名醫(名医)丹波時長京都ヨリ来
レル事アリ

東鑑(吾妻鏡)ニ曰ク(曰く、)七日時長(丹波時長)掃部頭(かもりのかみ/掃部寮の長官)の親
能(中原親能)ガ龜ケ谷(亀ヶ谷)ノ家ヨリ畠山次郎重忠ガ南御
門ノ宅ニ移住ス 是近クニ侯ゼシメ(より近くにお仕えせんがために)姫君ノ

御病悩(びょうのう/病の悩み)ヲ療治(りょうじ/治療)シ奉ランガ為ナリト此ノ地
即チ其ノ南御門ノ宅ノ蹟ナリ

大正十二年三月 鎌倉町青年團(団)建

畠山重忠邸跡(石碑)の場所(地図)

  • 鎌倉市雪ノ下3丁目2−9

畠山重忠邸は鶴岡八幡宮の東門(東鳥居)を出たところに佇む。

現在は民家の敷地内❓の一角に石碑が建てられている恰好になる。

上掲、Googleマップを閲覧すれば分かるように大倉幕府の南御門の場所は未詳とされるが、現在の岐れ路の三叉路あたりと加味すれば、その付近に重忠の屋敷が建っていた可能性が高い。

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