腰越状とは❓
画像は満福寺より
「腰越状」とは「こしごえじょう」と読み、要約すると源義経が鎌倉の腰越にて兄・頼朝卿へ認めた嘆願書(書状)のこと。それゆえ、「腰越状」と呼ばれる。うきゃ
1185年(文治元年/元暦三年)5月、壇ノ浦(山口県下関)にて平家を討ち滅ぼした源義経は、後白河院よりの多大な寵愛と信頼を受け、都の検非違使にまで任ぜられるに到る。
実はこの当時、頼朝卿は朝廷に対し、源氏一門である弟・源範頼を三河守、姉婿の一条能保(いちじょう よしやす)には讃岐守、平賀義信(ひらが よしのぶ/甲斐源氏)には武蔵守を賜るように推挙していたが、義経については何かしらの推挙もしなかった。(※後に義経には最大の恩賞ともいえる「伊予守」を推挙している。)
そこに目をつけた後白河院は義経を我が子の如く重用し、1184年(元暦元年)8月頃からしきりに官位を与え、さらに院内昇殿までもを許可し、源氏一門としてではなく単独で検非違使にも任じた。
一方、義経麾下にあった梶原景時は一人、義経の元を離れ、鎌倉へ下向し、頼朝卿へまずは平家滅亡の一報を届け、戦勝の祝言を奏じた。
平家滅亡の事実を知った頼朝卿は、かねてよりの念願を果たせたことで歓喜の雄叫びを上げ、湧き上がる感涙を抑えきれずに涙袋を熱くし頬を湿らせたが‥、それもつかの間、すぐさま表情をくもらせた。
景時は戦時中においての義経の行動に対し、総大将自らが先陣を切るなど理解に及ばない独断行動が多かったこと、そして検非違使の職を頼朝の断りなく独断で快諾したことを報告し、手柄を独り占めにして院に取り入り、頼朝卿への謀反の疑いがあることを注進した。(梶原景時の讒言)
表情を厳めした頼朝卿は義経およびその郎党に対し、京師での勤仕を命じ、東国への凱旋を禁じた。(逆説としては検非違使に任ぜられたことにより義経が頼朝卿からの鎌倉召還命令に応じなかったとも‥)
このように頼朝卿が表情を曇らせたのもひとえに、平家追討軍を鎌倉より進発させるに際し、御家人たちに勝手に院(朝廷)から恩賞をもらわぬようにと釘を刺されていたからに他ならぬぅぁぃ。
頼朝卿の異心を察知した義経は、頼朝卿に対し、二心無きことを訴えたい一心にて東国(鎌倉)へ凱旋(帰参)するための口実を作ることを思いつく。それこそが平家軍を率いた平宗盛・清宗親子を鎌倉にいる頼朝卿のもとへ移送するというものだった。
しクぁし❗️
頼朝卿は自らの下命を無視した義経の行ぃに対して怒りを顕にし、平宗盛・清宗親子以外は鎌倉へ一歩たりとも踏み入れることを許さず、鎌倉への入口にあたる山内荘は腰越(神奈川県鎌倉市)に位置する満福寺(まんぷくじ)へ義経とその一行を留め置いた。
義経は兄頼朝への溢れんばかりの敬愛心・忠誠心を小柄な身の内に押し込めながらも、頼朝の命令を受け、満福寺に逗留することを決意する。いつしか平家打倒を誓い合った兄の面影を覆い尽くす、分厚い氷壁が溶けて消え去ることを夢見て‥。
だが、しクぁし❗️
それから幾日かが過ぎ去ろうとしていたが、いっこうに兄からの何の音沙汰も無かった‥。
ついにシビれを切らした義経は満福寺にて兄への忠誠心と敬愛心、そして清廉潔白・嘘偽りなき自らの心情を書状にしたためることを思いつく。
そして1185年(文治元年)5月24日、頼朝卿の側近である大江広元へ自らの思いを認めた書状を託し、広元はその書状を懐にしまぃ込むと、足早に頼朝卿のもとへと向かった。
この書状こそが後世にて「腰越状」と呼ばれるものとなる。
腰越状の内容やその意味とは❓
以下の文は、吾妻鏡の1185年(文治元年/元暦二年)5月24日条に記されたものであり、当時の公文所・別当職にあった大江広元を取次ぎとして頼朝卿へ手渡されたものとされる。
※以下、一部ウィキペディア参照
【原文】と意味(訳)
左衛門少尉源義經 乍恐申上候
左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。
意趣者 被撰御代官其一爲勑宣之御使 傾 朝敵 顯累代弓箭之藝 雪會稽耻辱
可被抽賞之處 思外依虎口讒言 被默止莫太之勲功 義經無犯而蒙咎 有功雖無誤 蒙御勘氣之間 空沈紅涙
倩案事意 良藥苦口 忠言逆耳
私は(頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽の恥辱を雪ぎました。
ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。
つくづく思うに、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうと言われています。
先言也 因茲 不被糺讒者實否 不被入鎌倉中之間 不能述素意 徒送數日
當于此時 永不奉拜恩顔 骨肉同胞之儀 既似空 宿運之極處歟 將又感先世之業因歟 悲哉此條
故亡父尊靈不再誕給者 誰人申披愚意之悲歎
何輩垂哀憐哉
事新申狀 雖似述懷 義經 受身體髮膚於父母 不經幾時節 故頭殿御他界之間 成孤 被抱母之懷中 赴大和國宇多郡龍門之牧以來 一日片時不住安堵之思
ここに至って讒言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れて頂けない間、素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っています。
こうして永くお顔を拝見出来ないままでは、血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。
私の宿運が尽きたのでしょうか。
はたまた前世の悪業のためでしょうか。悲しいことです。
いうものの、亡き父上の霊がよみがえって下さらなければ、誰が悲嘆を申し開いて下さるでしょうか。
憐れんで下さるでしょうか。
今更改まって申し上げるのも愚痴になりますが、義経は身体髪膚を父母に授かりこの世に生を受けて間もなく父上である故左馬の頭殿(義朝)が御他界され、孤児となって母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧に赴いて以来、一日たりとも心安らぐ時がありませんでした。
雖存無甲斐之命 京都之經廻難治之間 令流行諸國 隱身於在々所々 爲栖邊土遠國 被服仕土民百姓等
然而幸慶忽純熟而爲平家一族追討 令上洛之手合 誅戮木曾義仲之後 爲責傾平氏 或時峨々巖石策駿馬 不顧爲敵亡命 或時漫々大海 凌風波之難 不痛沉身於海底 懸骸於鯨鯢之鰓
加之爲甲冑於枕 爲弓箭於業 本意併奉休亡魂憤 欲遂年來宿望之外 無他事 剩義經 補任五位尉之条 當家之面目 希代之重職 何事加之哉
甲斐無き命を長らえるばかりとはいえども、京都の周辺で暮らす事も難しく、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓などに召し使われました。
しかしながら、機が熟して幸運はにわかに巡り、平家の一族追討のために上洛し、まず木曾義仲と合戦して打ち倒した後は、平家を攻め滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は漫々たる大海で風波の危険を凌ぎ、身を海底に沈め、骸が鯨の餌になる事も厭いませんでした。
また甲冑を枕とし、弓矢をとる本意は、亡き父上の魂を鎮めるというかねてからの願いである事の他に他意はありません。
そればかりか、義経が五位の尉に任ぜられたのは当家の名誉であり、希に見る重職です。これに勝る名誉はありません。
雖然今愁深歎切 自非佛神御助之外者 爭達愁訴
因茲以諸神諸社 牛王寶印之裏 不插野心之旨 奉請驚日本國中大小神祇冥道 雖書進數通起請文 猶以無御宥免
我國神國也 神不可禀非禮 所憑非于他 偏仰貴殿廣大之御慈悲 伺便冝
令達高聞被廻秘計 被優無誤之旨預芳免者 及積善之餘慶於家門 永傳榮花於子孫
そのとおりと言えども、今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けの外は、どうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるでしょうか。
ここに至って、諸神諸社の牛王宝印の裏を用いて、全く野心が無い事を日本国中の神様に誓って、数通の起請文を書き送りましたが、なおも寛大なお許しを頂けません。
我が国は神国であります。神様は非礼をお受けにはなりません。他に頼る所は無く、偏に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐのみです。
便宜を図って(頼朝の)お耳に入れていただき、手立てをつくされ、私に誤りが無い事をお認めいただいて、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられるでしょう。
仍開年來之愁眉 得一期之安寧
不書盡愚詞 併令省略候畢
欲被垂賢察義經 恐惶謹言
それによって私も年来の心配事も無くなり、生涯の安穏が得られるでしょう。
言葉は言い尽くせませんが、ここで省略させて頂きました。ご賢察くださることを願います。
義経恐れ謹んで申し上げます。
元暦二年(1185年)五月日 左衛門少尉源義經
進上 因幡前司殿(因幡前司=大江広元のこと)
元暦二年五月 日 左衛門少尉源義経
進上 因幡前司 殿(因幡=現在の鳥取県東部/前司=「前任の国司」を意味/つまり「大江広元」のこと)
平家物語の「巻第十一 腰越」に記された内容
以下、満福寺の立て看板より
さればにや、去んぬる夏のころ、平家の生捕どもあひ具して、関東へ下向せられるけるとき、腰越に関を据ゑて、鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官、本意なきことに思ひて、「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文書きて、参らせられども、用いられざれば、判官 力におよばず。
その申し状に曰く、
源義経、恐れながら申し上げ候ふ意趣は、御代官のそのひとつに選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ。
勲賞行はるべき処に、思ひの外に虎口の讒言によって、莫大の勲功を黙せらる。
義経犯すことなうして咎を蒙る。功あって謝りなしといへども、御勘気を蒙る間、虚しく紅涙に沈む。讒者の実否をただされず、鎌倉中へ入られざる間、素意を述ぶるにあたはず、いたづらに数日を送る。
この時に当つて、長く恩顔を拝し奉らず。
骨肉同胞の義、すでに絶え、宿運極めて空しきに似たるか。はたまた、先世の業因の感ずるか。悲しき哉、この条、故亡父尊霊再誕し給はずは、誰の人か愚意の非歡を申し開かん。
いづれの人か哀憐をたれられんや。
事新しき申し状、述懐に似たりといへども、義経、身体髪膚を父母に受けて、いくばくの時節を経ず、故頭殿御他界の間、みなし子となり、母の懐の内に抱かれて、大和国宇多群に赴きしよりこのかた、いまだ一日片時安堵の思ひに住せず。甲斐なき命は存すといへども、京都の経回難治の間、身を在々所々に隠し、辺土遠国を住処として、土民百姓等に服仕せらる。
(引用文献 新潮日本古典集成 昭和五十六年より)
判官とは?
判官とは「ほうがん(近年では「はんがん」とも)」と読み、平易に源義経のことを指す。
義経は左衛門府の判官(左衛門尉)の位を賜っていたことから、当時から「判官」とも呼ばれていた。
九郎とは?
義経は源義朝の九男坊だったことから、輩行名で「九郎」と呼ばれた。
なお、腰越状の全文は他に義経記の「腰越の申状の事」にも記される。
平家物語の延慶本では頼朝と面会している❗️
室町時代(1309年/延慶2年)に編纂された平家物語の延慶本(えんぎょうぼん)には、腰越状の存在はなく、義経は無事に鎌倉へ到着し、頼朝卿と対面したと記してい‥る。ピクっ
しクぁし❗️
まともに話を聞いてもらえず追い返され、結果、腰越ではなく金洗沢(かねあらいざわ)に逗留したある。
長門本では「腰越」ではなく「金洗沢」になっている❓
長門本では腰越状を兄・頼朝へ送ったものの逗留した地は腰越ではなく、金洗沢だったと記す。
なお、延慶本にも護送して来た平宗盛・清宗父子の身柄だけを預かった場所が腰越ではなく、金洗沢の関(鎌倉高校前駅と七里ヶ浜駅の間)と記されてい‥‥‥申す。キャナァルゥア‥シャァ〜っ(”金洗沢”を表現)
源平盛衰記には腰越状の存在がない❗️
平家物語の異本とされる「源平盛衰記(げんぺいせいすいき)」では腰越状の存在はおろか、義経が逗留した場所すらも記されていない。
‥‥腰越状は本当に実在したのか❓
義経は上述した内容の書状を大江広元へ手渡し、広元はそれを頼朝卿へ届けたというのが今日に至るまでの定説となっているが、実際のところ広元が頼朝卿へ届けた事実がどの文献にも記されておらず、今日まで不詳とされてい‥‥‥申さん。あいや、申す!グヒャっ
上記の内容の書状は厳密には弁慶の草案(下書きしたもの)と伝わるものであり、実際のところ、義経が清書したオリジナルの腰越状の存在は明らかにされていない。
一説に吾妻鏡に記される腰越状は、平家物語に書き記された腰越状の存在を北条氏が知るところとなり、吾妻鏡を編纂した際に付け加えたものとも云われる。
他に、江戸時代に江ノ島詣が盛んになった頃、当時の人が創作したものという異説もある。
ただ、腰越状の存在の有無を問わず、結果的に頼朝卿は義経への迫害を中断することなく、義経に与えた平家が領有した24カ国の没官領(もっかんりょう)をすべて没収してい‥る。ピピっ
【満福寺の七不思議】満福寺ではコオロギが鳴かない❗️
話は少し逸れるが、弁慶が主君・義経のために腰越状の草案(下書き)を練った折、現在も満福寺境内にある「硯の池(すずりのいけ)」の池水を用いて墨をすったそうな。
すると池畔の草ムラから、まるで泣きわめく赤子のようにコオロギが大合唱で鳴きはじめた。
筆を手にした弁慶は集中できずに思わず、『じゃかぁしぅぃワィ❗️鳴き止まんかぇぃ❗️』‥‥などと雄叫びをあげたところ、嘘のようにピタっ‥‥とコオロギが鳴き止んだそうな。
それ以来、この寺ではコオロギが鳴かないと伝わる。キャキャキャっ
⬆️噂のウワサの「硯の池」。現在はコンクリート舗装され往時の影すら留めなぅぃ。
⬆️池中では亀ぇ〜トル(亀とタートルの融合語)と屋台金魚が暮らし、ヒラヒラと気持ち良さげに遊泳する。
「腰越状」は見学できる❓
腰越状は現在、満福寺本堂から連なる客殿に展示される。この腰越状は原則、不定期だが見学が可能💘
見学できる時間
- 9時〜17時
17時に閉まるので概ね30分前には入館しておきたぅぃ。
見学料金(拝観料金)
- 200円
見学できる場所
- 客殿(本堂に連接)
満福寺(鎌倉 腰越)のINFO
⬆️情緒溢れる💕江ノ電の線路の真ん前にある!ヒュー🎉 ..なにがヒューや
- 住所:〒248-0033 神奈川県鎌倉市腰越2-4-8
- 公式サイト:http://www.manpuku-ji.net/
交通アクセス
電車
江ノ島電鉄「腰越駅」下車徒歩3分(降りてすぐ)
マイカー
横浜横須賀道路「朝比奈インター」より25分
(原則、檀家および関係者以外の駐車場はなし。近隣にコインパーキングあり)
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