吾妻鏡によると鎌倉幕府2代目執権となった北条義時公は、運慶に薬師如来像を作らせて、それを大倉の地に築いた薬師堂の本尊とした旨が記される。
そこでこんな疑問が生じる‥‥‥
北条義時公が発願した薬師如来像(本尊)はドコにある❓
実のところ、現在までの通説では北条義時公が運慶に作らせた薬師如来像は覚園寺には伝えられていないとされる。
また、この見解を以ってして、現在の鎌倉には運慶作の仏像は現存しないとされる。
覚園寺の本尊(薬師如来像)の歴史
覚園寺ご本尊の薬師三尊(画像は覚園寺でいただいたハガキより)
吾妻鏡によると1243年(寛元元年)に最初に覚園寺(当時は薬師寺堂)にて回禄の難(火災)が起こった際、本尊(薬師如来像)だけは何とか持ち出すことができたとしてい‥る。クっ(耐)
つまり、吾妻鏡の記述が正しいとするならば、本尊以外の仏像は1243年(寛元元年)に焼失したことになる。
現在の覚園寺本尊の胎内には布が貼られ、銘文の類いは発見されていないとされる。
ただ、以下のように度重なる火災により、焼失した可能性も払拭しきれない。
年月日 | できごと |
1243年(寛元元年) | 薬師堂、回禄の災(焼亡)に罹る。本尊だけは何とか持ち出し、難を免れる。 |
1251年(建長三年) | 薬師堂ヶ谷で火事発生。覚園寺(薬師堂)の被害状況は不明。 |
1263年(弘長三年) | 同、復興 |
1337年(建武四年) | 火災発生。覚園寺罹災す。この時は仏像が火難を免れたと記す。(鏡) |
1354年(文和三年) | 現在の薬師堂が完成(再建) |
以上、上表記載の歴史を見るだけでも覚園寺に安置される義時公発願の薬師三尊像および、十二神将像は焼亡もしくは罹災して損傷している可能性もある。
薬師三尊の中尊は世に2つ無きほどの秀作と称されるが、実のところ、いつの時代に造立された像なのかが、判然としないのも事実。
現在までの中尊像の造立時期(推定説)
- 中尊仏の頭部は鎌倉時代末期、体部は南北朝時代( 〜1392年)の作と推定する説
- 1263年(弘長三年)の造立説(懸け裳は南北朝時代の補作)
- 1296年(永仁四年)の像を1354年(文和三年)頃に大改造した説
- 鎌倉末期の像を文和年間に大修造した説
仮にもし本像の頭部が義時公発願の薬師仏だとするならば、運慶が造立した鎌倉で唯一の仏像ともなり得る。これは貴重❗️
昭和26年の修理で明らかにされた驚愕の事実とは❓
覚園寺では昭和26年から1年余りの期間、本尊(薬師仏)、日光・月光仏の修理が実施され、次のようなことが明らかにされた。
三尊の脇侍となる日光菩薩像の頭部内面からは「伯耆 法眼 朝祐 応永二十九年 寅三月二十一日」の墨書銘が見つかり、月光菩薩像とほぼ同じ場所に銘文の削り取られた痕跡も発見された。
これにより、両脇侍共々、1422年(応永二十九年)3月21日に仏師・朝祐が造立して奉納された事実が明らかにされた事になる。
義時の戌神像(伐折羅大将)の行方
一方、義時さんの霊験譚や実朝暗殺談に度々、登場する戌神像(伐折羅大将)はドコにあるのか❓
噂のそのまた噂の覚園寺戌神像(画像は鎌倉観光協会パンフレットより引用)
実のところ、戌神像には製作期を記した銘など見つかっておらず、それが義時さんが造顕・発願した尊像であるのかどうかは判然としない。
また、他の像の胎内から見つかった銘文にも本像については触れられていない。
しクぁし!
他の像の胎内から見つかった銘文を以ってして、戌神像以外の像は仏師・朝祐が1401年から1411年までに製作した事実が明らかにされた。
しかしながら、以下のような戌神像についての観点を鑑みて諸説、述べられてい‥‥申す。きゃ
- 像高が他の像と比較して低いこと
- 着鎧の形状が他の像と異なること
- 本像の内部にのみ覚園寺の造営料などを記した重要文書が収められていた事実
- 顔面が1251年(建長三年)に造立された円応寺の木造倶生神像と類似する
以上を含め、1337年(建武四年)の火災の折、本尊(薬師如来像)と戌神像(伐折羅大将)の頭部だけが類焼を免れることができたとする説。
または1263年(弘長三年)の薬師堂再建の頃に造立されたとする説がある。
戌神像だけは他の像と異なる点が多いのは、すでに周知の事実であり、重要文書が収められていた事実などを以ってしても、不慮の有事の際には本尊と同様、真っ先に持ち出すことが前提とされていたという見方もできる。
朝祐とはどんな仏師だったのか❓
現在の覚園寺に伝わる諸仏(十二神将像、日光・月光菩薩像、伽藍神像、祖師像など)のほとんどは朝祐が手がけた尊像と伝わるが、どうやら朝祐は応永の初めに実施された覚園寺大復興事業に参画する形で思咲律師と共に迎えられたとされる。
とにもかくにも、この頃の覚園寺に有史上、初めて登場する名前の仏師となり、その出生や出自については未詳とされる部分が多い。
仏師・朝祐の軌跡
年月日 | できごと |
1390年(明徳元年) | 川崎市能満寺の木造虚空蔵菩薩立像を造立 |
1401年〜1411年(応永八年〜十八年) | 覚園寺の木造十二神将像 十二躯の内の11躯を造立 |
1416年(応永二十三年) | 覚園寺の木造伊陀尊天像の造立(現存せず/銘札のみが現存) |
1418年(応永二十五年) | 覚園寺の木造伽藍神倚像 3躯を造立 |
これ以外にも覚園寺伝蔵の祖師像の中に朝祐の作と伝わる尊像が数体、安置される。
覚園寺には朝祐の位牌があり、これによると1426年(応永三十三年)8月15日に死没したとされる。
辻の薬師堂の十二神将像が覚園寺・十二神将像のオリジナル❓
鎌倉市大町に佇む小ぢんまりとした薬師堂の内部には、かつて薬師三尊像、十二神将像等が安置されていた。
⬆️足の小指爪が絨毯に引っかかってメクれたイタさほど噂の‥「辻の薬師堂」
この薬師堂は1190年(建久元年)、源頼朝卿が二階堂(にかいどう/永福寺跡のあたり)に建造した医王山・東光寺境内に建っていた一宇だと云われ、明治期に実施された横須賀線敷設工事に伴い、現在地に移築されたと伝わる。
しクぁし!
内部安置の像はすべて1993年に鎌倉市より文化財指定を受けるに到り、現在、鎌倉国宝館へ移管され同館の所蔵となってい‥‥ます。”ないんてぃないんすり〜(1993)恋をしたぁ〜♪”て歌なかった❓ …だからどないしてん
そして驚く事に、なんとぉぅ❗️この辻の薬師堂の十二神将像(戌神像)を模して(モチーフ)として造立されたのが、現在の覚園寺・十二神将像だという説がある。
⬆️爪切りすぎて鼻くそホジりにくくなった時ほど噂の‥辻の薬師堂の戌神像(現・鎌倉国宝館所蔵)
覚園寺の公式サイトでは、現在の薬師堂(覚園寺)に安置される戌神将像を含めた十二神将像ならびに、薬師三尊像は室町時代に朝祐が造立したとしてい‥‥‥申す。ジュニっ(”十二”を表現)
現在の辻の薬師堂の内部の様子 ふんニャ
辻の薬師堂 安置仏の造立年代
木造薬師如来立像
薬師三尊の中尊仏。全体的に補修が多いとしつつも平安時代後期の作と推定される。
日光・月光菩薩像
上記、薬師仏の脇侍。室町時代と推定される。
木造十二神将立像
12躯のうち8躯が鎌倉時代の造立。
残り4躯は室町時代の補作とされる。
現在、覚園寺の公式サイトには室町時代、朝祐仏師が戌神像を造立した際、以前の義時公造顕の戌神像を蘇らせようと、どんな気持ちで制作に臨まれたのか❓
辻の薬師堂の戌神像からどのような事を教えていただいたのか❓
その結果が今、覚園寺に安置される戌神様のお姿だと記す。
頭部だけが辛うじて残っていた。だけれどもその下部をどのように表現すれば良いか❓(頭部だけが運慶造立・義時公発願の尊像と仮定した場合)
その答えが辻の薬師堂の戌神像に見出せた。
確かにどのような思いで朝祐仏師が制作に臨まれたのかが気になる所。
覚園寺の戌神像の話に戻せば、本像だけ造立年代が不明であったり、朝祐仏師が現在の十二神将像の造立を手掛けた折、概ね1年おきに製作されているのに対し、空白の期間が数年間(1402年〜1407年)存在するあたりを鑑みても、その空白の期間に本像の補作構想を練りながら、製作に身を投じていたのかも知れない。
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