鶴岡八幡宮「若宮(下宮)」【重要文化財】
読み方
わかみや(げぐう)
造営年
- 1180年(治承4年)10月7日(鶴岡新宮若宮 ※若宮の前身となる宮殿のこと)
- 1181年(治承5年/鎌倉時代前期)8月15日(鶴岡若宮)
再建年
- 1624年(寛永元年/江戸時代前期)
- 2016年(平成28年)
建築様式(造り)
- 本殿:五間社流造
- 幣殿:一重、両下造
- 拝殿:一重、入母屋造、向拝一間
屋根の造り
銅板葺
大きさ
- 本殿:正面5間(約9.4m)/側面3間(約5.9m)
- 幣殿:正面3間(約5.9m)/側面4間(約7.5m)
- 拝殿:正面3間(約5.9m)/側面2間(約3.7m)
ご祭神
- 仁徳天皇(にんとくてんのう)
- 履仲天皇(りちゅうてんのう)
- 仲媛命(なかのひめのみこと)
- 磐之媛命(いわのひめのみこと)
例祭日
4月3日
重要文化財指定日
1996年(平成八年)7月9日
若宮とは?
若宮は「上宮」と呼ばれる本宮に対して「下宮」とも呼ばれますが、実のところ、鶴岡八幡宮創建当初はこの若宮こそが中心となる社殿でした。
これは社頭に立つ三の鳥居から浜の大鳥居(一の鳥居)まで続く、「若宮大路」の名前からも推察できるように元来、「若宮」へ詣でるための路だったのです。
若宮がなぜに八幡宮の中心たる社であったのかは後述します。
「若宮」の名前の由来
「若宮」には大きく次の2つの意味があるとされる。
- 本宮の分社
- 本宮の御祭神の子(若君)を祀る社
鶴岡八幡宮の場合、どちらかというと、この若宮にて奉斎される仁徳天皇が応神天皇の子である事実を加味して「本宮の御祭神の子を祀る社」と捉えられます。
鶴岡八幡宮「若宮(下宮)」の歴史
実のところ、若宮は簡易的に短期間で造営された初代の若宮と、翌年に再度、造り直しされた(新造)若宮とがある。
現在の丘上に建つ本宮(本殿)は、造り直しされた若宮を丘上に移築したもの。
鶴岡若宮の創建の経緯
1180年(治承4年)10月7日
鎌倉入りした源頼朝は、五代前の先祖である源頼義(よりよし)が建立した由比の鶴岡八幡宮(由比若宮)を遥拝した。(由比若宮とは現在の鎌倉市材木座一丁目に建つ元八幡のこと)
そして自らの住居の建設を差配した一方で、頼義が建立した由比若宮を蘇らせる(再建)ことを決意したのだった。(一説にこの時の由比若宮は頼義創建後、八幡太郎義家公が修営したものの、それから数百年の年月が流れ荒廃していた。そこでせっかく建て直すのであれば‥ということで、現在地への移築に踏み切ったとも云われる)
八幡宮の造営は千葉常胤(つねたね)の進言あって、鎌倉へ入部してから頼朝卿が最初に手がけた鎌倉整備計画であり、生活の基本、拠り所となるものだった。
10月12日
祖宗(そそう/先代以前の君主)を奉斎するため、小林郷の麓、現在のこの若宮が建つ場所あたりに宮廟(宮殿)を営み、鶴岡宮を遷座した。(とりあえず神霊を由比から現在地に移した)
頼朝卿はこの祖宗と八幡大菩薩を合祀した宮廟(宮殿)を「鶴岡八幡新宮(いまみや)若宮」と呼んだ。
頼朝卿が鎌倉入部からわずか5日で遷座した理由としは、律令制から独立した存在である不安を八幡大菩薩に委ねる(帰依する)ことによって解消したかったとみられる。
また、小林郷の北の地を選んだ理由は、一説に四神相応の地とされたからだと云われる。
ちなみにこの時、同時並行で頼朝卿は、大蔵郷に鎌倉幕府が置かれた「大蔵御所(大蔵幕府)」の造営も開始する。
小林郷は墓地だった⁉️
1982年(昭和57年)9月、鎌倉国宝館収蔵庫建設の際、事前発掘調査が実施され、地中から平安時代末期頃の男女各1体の土葬者が発見された。
現在までの研究では、墓は埋没して見えなかったとする説がある一方、頼朝卿は墓地であるのを知った上で若宮遷宮を行なったとする説もある。
若宮の造営
1181年(養和元年)4月1日
頼朝卿は現在の鶴岡境内へ参じたところ、イバラが繁茂しはじめ、いよいよ見苦しさを感じたため境内の掃除をした。
5月13日
鶴岡若宮を新造するために土肥実平、大庭景義らを奉行に補任し、用材の手配をさせた。
とにもかくにも鶴岡宮(宮殿)の造営は果たしたものの、松の柱(樹皮を剥がない状態の黒木の柱)に茅葺という質素で粗末な社殿だったので、なんとか立派な社殿を造営して八幡大菩薩の神威を内外に知らしめたかった。
6月27日
鶴岡若宮の用材として柱13本、虹梁2支が由比浦に到着した。
7月3日
頼朝卿、武蔵国浅草から宮大工を呼びよせ、鎌倉の宮大工として雇い入れる。
大工の参着により、いよいよ本格的な社殿の建立を始めることができた。
さらに正遷宮が執り行われる
1181年(養和元年)8月15日
かくして鶴岡宮は本格的な社殿として生まれ変わり、いよいよ正遷宮が斎行される運びと相成った。
遷宮後、「鶴岡若宮」と称されるようになってい‥‥‥申す。クっ(耐)
※注釈※ 正遷宮とは神様に新しい社殿に移ってもらう儀式のこと。
草創期の若宮の附属施設
吾妻鏡などの文献によれば、創建当初(2回目の時)の鶴岡若宮には以下の施設が附属して造営された旨の記述が見えます。
神殿、拝殿、回廊、経所、若宮大路・段葛、浜大鳥居、若宮鳥居、別当坊、末社の熱田社・三島社、流鏑馬の馬場、塔婆、社前池、赤橋….etc
若宮回廊で静御前が舞を披露!
1186年(文治2年)には、鎌倉に連れてこられた源義経の愛妾・静が、源頼朝・北条政子夫妻の求めに応じて、現在の舞殿がある場所で「舞」を”疲労”するほど熱心に”披露”したという有名なエピソードも残っています。
この場所こそが当時、若宮の廻廊だったのでした。
鎌倉大火により若宮にも類焼が及ぶ!
1191年(建久二年)3月4日、町屋で起こった火災により、この若宮の社殿、回廊、経所などが全焼します。それだけに止まらず、大蔵幕府にも火がまわり、焼失に至ります。
頼朝卿は、火事後の鶴岡へ詣でた際、礎石とその上に積もった廃の山を見て涙を流したというエピソードがありますが、決意新たに類焼をまぬがれた別当坊へ移り、再建計画を練り出すのです。
現在の本宮の敷地が造成される
1191年3月13日、若宮仮殿の遷宮を執り行い、また岩清水八幡宮を勧請するために若宮上の山を削り、丘陵地帯を造成します。(現在の上宮(本宮)の敷地の誕生)
そしてこの場所に宝殿を造営し、4月26日に上棟を執り行っています。
若宮再建成る!上宮・下宮から成る鶴岡八幡宮の誕生!
次いで8月27日には若宮と末社の熱田社・三島社、回廊が相次いで再建完了を示す、上棟式が執行された。
11月21日になると鶴岡八幡宮(上宮)および若宮と末社群の遷宮も執行され、この時を以って若宮には新たに仁徳天皇、履仲天皇、仲媛命(なかのひめのみこと)、磐之媛命(いわのひめのみこと)の四座を奉斎し、下宮としての若宮としたとされる。
斯くして、現在の鶴岡八幡宮境内に見られる上宮(本宮)と下宮(若宮)との構成とは、このような経緯で誕生したことになり、すなわち、これが現今の鶴岡八幡宮と起源と成り得るものです。
なお、この当時、上宮に勧請した神とは以下の3柱だとされています。
- 八幡三所(八幡菩薩、妃大神、神功皇后)
火災と再建、現在の若宮
上下宮を始めとする鶴岡八幡宮の建物は、創始者である源頼朝亡き後も度重なる火災の被害を受けますが、その度に修理されてきました。
また、源氏の氏神だった鶴岡八幡宮の修造や拡張には後の武将たちも熱心で、1592年(文禄元年)には江戸幕府を開く前の徳川家康が、豊臣秀吉の指示で若宮の修理・造営を行っています。
家康はその後も鶴岡八幡宮全体の建て替えを計画し、その遺志は息子の第二代将軍徳川秀忠に受け継がれています。
秀忠は寛永の大造営と呼ばれる大事業を行い、1624年(寛永元年)には上下宮のご祭神を正式な社殿にお戻しする正遷宮(しょうせんぐう)を執り行ないます。
この時、建てられた社殿が現在の若宮であり、本宮と共に重要文化財に指定されています。
さて、この寛永の大造営の前、もともとの若宮は1315年(正和4年)の火災の翌年に再建された状態で残っていました。
新しい若宮を造営するにあたって、先代の若宮は鎌倉市内にある荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)に移築され、現在でも本殿として活かされ、ご祭神・菅原道真を祀っています。
この荏柄天神社本殿は鎌倉に現存する唯一の鎌倉時代の建築であり、重要文化財の指定を受けるものです。
2016年(平成28年)より耐震補強・修復工事が実施される!
この若宮は2016年より耐震補強・修復工事が実施し、2019年の年末に無事、完工を迎え、かつての極彩色の社殿に復元されてい‥‥‥申す。アヒョっ
【補足】安土桃山時代の鶴岡八幡宮境内の様子
以下は鶴岡八幡宮に所蔵される「鎌倉史」に記された境内古地図の一部です。
この図をご覧になれば現在の鶴岡八幡宮境内の様相とは大きく異なるのが分かり申す。
豊臣秀吉奉行等加判造営指図 (引用先:国立情報学研究所)
この図によれば、まず、現在境内入って左右の平家池と源氏池がないことに気づきます。
赤橋はあるものの赤橋の前に朱色の三の鳥居はありんせん。
その赤橋から直線状に進んだ奥にはもう1つ橋が架橋され、その橋を渡った先に「南大門」という大きな門があったことが記されています。
そしてその南大門を中心として左右に回廊がまわり、正面右側の回廊が若宮へと連接されている様子がうかがえまする。
つまり、現在の舞殿の周囲には南大門や回廊があったことになりまする。
それと随所に「ほんちどう」や「五大どう」などの「〜堂(どう)」という語句も見えることから、これはもはや単なる神社ではなく、神仏混淆の一端が垣間見えます。
これこそがまさに「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれる時代背景がうかがえまする。
鶴岡若宮は不思議な霊験譚(ご利益)で知られる社
1181年(養和元年)7月20日、かねてより切願だった鶴岡若宮の上棟式を無事迎えることができた頼朝卿だったが、何やら自身の後をつけてくる男がいる。
不審に思った頼朝卿だったが、次の瞬間❗️配下の下河辺行平がそれに気づき、その男を捕縛した。
男の髻(もとどり)に目をやると「安房国 故 長佐六郎々等 佐中太常澄(さちゅうだ つねずみ)」と書かれた札を付けてい申した。ガハっ
どうやら長佐六郎常澄とは、頼朝卿が挙兵後、石橋山(相模)にての敗戦後、逃げ落ちた安房(千葉県南部)にて頼朝卿を襲撃した平家方の将・長狭常伴(ながさ つねとも)の郎党だと分かった。
ただこの時、長狭常伴は逆に三浦義澄に返り討ちに遭ぃ、辛くも頼朝卿は一命をとりとめたのだった。
六郎常澄が捕縛された日の夜、頼朝卿の夢に僧が立ち、頼朝卿へこぅ告げた。
『実はのぅ、佐中太はお主(頼朝)の前世よりの仇敵じゃった人物。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ….』
『そなたが若宮造営を成したことによって八幡大菩薩の加護が顕れたのじゃ。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ….フォー‼️ またこのクダリか』
頼朝卿はこの後、さらに八幡神への尊信を強めるようになったのは言うまでもない。
その信仰の度合いを形にすべく、「奥駮(おくぶち)」という名馬を若宮へ奉納したと伝わる。
そして、この後、遷宮が滞りなく行われたのだった。
なお、長狭常澄は若宮上棟式当日に処刑するのは不敬とみなされたため翌日、片瀬川にて梟首(きょうしゅ/首を木に引っ掛けて晒す)処刑された。
鶴岡八幡宮「若宮(下宮)」の建築様式(造り)・特徴
若宮は、本宮と同じく「権現造」となっています。
ただし、創建当初から権現造だったワケではなく、寛永期の本殿拡張工事に際に改められています。
権現造とは、東照大権現、つまり徳川家康を祀る日光東照宮に採用されたものと同じ様式で、拝殿と本殿を、幣殿と呼ばれる小さな建物で一繋ぎにしているのが最大の特徴です。
私たち参拝者からも見える範囲で特徴的なのは、一番手前の拝殿の向拝(こうはい・ごはい)という庇(ひさし)です。
現在は建物の前に素木の大きな向拝が建っているので正面からは見づらいですが、斜めから見れば確認できます。
本宮に比べるとやや地味なように見えますが、側面に注目すると、松の壁画や、色彩豊かな妻飾りが確認できます。
残念ながら社殿の中に入ることはできず、前述の素木の向拝の下から参拝という形になりますが、拝殿の扉は普段開いているので、中の様子を見ることはできます。
寛永期の再建ということもあり、装飾細部に寛永期の緻密な職人技が見られます。若宮の大きな特徴といえるでしょう。
実朝ゆかりの木「ビャクシン」
若宮の社殿脇には「ビャクシン」という大きな木が植えられています。
これは、鎌倉幕府第三代将軍、源実朝が、はるばる宋から苗を取り寄せて植えたとも言われる木で、鎌倉市の天然記念物に指定されています。
桜や銀杏、紅葉だけでなく、ぜひこちらのビャクシンの古木にも注目してみてくださいな。
鶴岡八幡宮「若宮(下宮)」ご祭神
若宮に祀られている仁徳天皇は、本宮のご祭神である応神天皇の皇子です。
したがって、若宮は古来、本宮と同様に尊ばれてきました。
若宮は鶴岡八幡宮の「摂社」ですが、この摂社というのは、本社に次ぐお社という意味で、鶴岡八幡宮の中では若宮だけとなっています。
履仲天皇(りちゅうてんのう)は仁徳天皇の皇子、仲媛命(なかのひめのみこと)は応神天皇の皇后で仁徳天皇の母、磐之媛命(いわのひめのみこと)は仁徳天皇の皇后です。
若宮の見どころは桜!
春爛漫、3月20日を過ぎた頃、若宮の社殿脇に植栽されるソメイヨシノ(桜)が芽吹き始めます。
鎌倉は東京に比べて開花時期が遅い傾向があり、東京の桜がピークを過ぎた頃に満開を迎えます。
桜めぐりをされる方は東京の後は鎌倉へ足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。
鶴岡八幡宮「若宮(下宮)」の場所(地図)
若宮は、舞殿の向かって右側、石段の手前にあります。
若宮の前の小路をそのまま右手に進むと、柳原神池を通り、白旗神社にたどり着きます。
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