江の島「群猿奉賽像庚申塔」

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江の島「群猿奉賽像庚申塔」

🐵読み方:ぐんえんほうさいぞうこうしんとう

🐵造立年:未詳(推定:江戸後期)

🐵材質:花崗岩(かこうがん)

🐵高さ:143㎝

🐵横幅:42㎝

🐵寄進者および製作者:未詳

由緒(歴史)

当塔は、幾匹の猿くんたちが、その本尊たる山王神をたたえ、祝う様子が表現された極めて稀有な庚申供養塔とな〜る。




本像の特徴

基壇

基壇は岩座をイメージしたかのよぅに造形される。

⬆️コンビニトイレでクソり中、複数人にドンドンとドアノックされたので仕方なくケツ穴を閉めて切り上げたが、穴周辺に残りグソ(糞)を感じた違和感or心地悪さほど噂の‥‥「庚申塔」(岩座=最下の基礎)

塔身

塔身の基座には蛇が巻き付いているよぅに造立されているのは弁財天信仰に由来したものとされる。

一面9匹の神猿

また、塔身の四面には合計36匹(一面に9匹)の神猿が各々、異なった姿態で山王神の神徳に奉賽(ほうさい)しているという稀有な構図とな〜る。

基本、4面ともデザイン的な構図は同じだが、正面部の上部には2体の御鏡のレリーフがあったり、猿君の位置が各面で微妙に異なる。

⬆️1面に9匹の合計36匹の神猿。

⬆️正面部。上部に2枚の鏡?月と太陽??のレリーフが見える。

⬆️東面のレリーフ。猿君は扇子をセンス良く手持ち山王神を祝う🎉

猿は往古より、日枝山王神社の使者として知られており、「新編相模国風土記稿」には下之宮(現・辺津宮)の絵馬堂の付近に山王神社が建っていた様子が描かれているが、当該、山王社に奉納する意図で当、庚申塔は造立・建献されたとみられ〜る。

青面金剛について

本塔には見られないが、現今、多くの庚申塔に見られる青面金剛(しょうめんこんごう)は庚申塔の主尊とされ、塔身の中心に表される例が多い。

ただしぅい、江戸初期の庚申塔には青面金剛が造立された類例はあまり見られないのだグぁ、信仰の拡大と共に青面金剛が造立されはじめ、やがてスタンダードとなっていく。

青面金剛が造立された理由

‥‥‥については長くなるので本項では割愛するが、一言で簡単に言うと、掛け軸に描かれた青面金剛の御影が塔へも反映されるようになったと云われる。

庚申信仰の起源

我が国における庚申信仰の起源は未詳とされるが、平安期の公卿・源高明が著した「西宮記(さいきゅうき)」の902年(延喜二年)7月17日項には、庚申についての記述が見られることから、平安期にはすで庚申信仰が実在したとみれる。

庚申塔が造立され始めた時代

先学の研究によると、庚申塔が盛んに造立されはじめたのは室町時代末期〜江戸時代とする。

庚申塔の建献は江戸期における庚申信仰の特徴の一つとされるが、そのルーツは中世に数多く造立された板碑(いたび/主に供養塔として用いられる石碑の一種)にあると云われる。

江戸時代も寛文期を迎える頃、ピースフルな世相が反映されてか、庚申信仰が拡大し、数多の庚申塔が造立された。

また、庚申講が各地で結成されるなど信仰は右肩上がりに増大したが、やがて百花繚乱・町人文化で華やいだ元禄期を迎える頃には、おびただしい数の庚申塔が造立される。

これぞまさに我が国における庚申信仰の最盛期とな〜る。 

江の島詣と庚申塔

江戸を出立し、芝明神(現・芝大神宮)を礼拝した後、江の島へと到る道は俗に「江島道」と呼ばれた。

この江島道の途次、他道と参道を区別するために適所に道標が設置されたが、それ以外にも主に沿道などに庚申信者よる庚申塔も建てられた。現今、これらの庚申塔は当地のみならず、諸所に確認できる。

群猿奉賽像庚申塔の場所(地図)


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