覚園寺の創建年と建てた人物とは❓
覚園寺は薬師堂時代と覚園寺時代とで分けて考えることができる。
薬師堂は大倉薬師堂と言い、鎌倉幕府2代目執権・北条義時公が霊夢によって発願・創建に至ったもの。
北条義時創建の薬師堂の歴史(創建秘話)
⬆️覚園寺薬師堂(仏殿)※画像は鎌倉市観協パンフより
1218年(建保六年)6月、3代源実朝は権大納言 兼、左近衛大将(さこのえたいしょう)に昇進した。
翌月7月8日には鶴岡八幡宮寺で実朝の大納言昇進祝いのため、御直衣始めの儀(おんのうしはじめ)が盛大に催された。義時もこれに供奉した。
その夜、自邸にて眠りの最中にあった義時は霊夢を見る。
十二神将のうちの跋折羅大将(ばさら)が夢枕に立ち、託宣したのだった。
『今年の神拝は無事に終えたか。されど翌年の拝賀の日には汝、将軍家の供をせぬことじゃな。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ…』
その告げるとスぅ〜っと姿を煙のように消えた。
‥‥と、その瞬間、パっ!と目を見開いて息荒げに夢から目覚めた義時だったが、透かさず扉外から『殿、いかがされましたか❓』という声がする。
どうやら近習が義時の異変に気づいて声をかけたようである。
義時は『今、何時(刻)か❓』と尋ねた。
近習は即座に返す。
「はっ、戌の刻でございます」
それを聞くなり義時は驚き桃の木サンショの木‥‥の如くに恐れおののき、偶然なのか、夢で出てきた跋折羅大将は「戌の神」とも云われ、この偶然には驚きを隠せず、思わず唾を飲んだ。
翌朝、義時は戌の方角(北西)を指差し、「ワシはこの指の方向に薬師仏(戌の神含めた十二神将は薬師如来の眷属)の堂を建てると誓ぉぅぞYO❗️よよよよYOっ‼️
‥‥などと調子をぶっこき絶好調ぶりをアピールしたのだった。
しかしながら、この当時の義時の居館は六浦道(むつらみち)と三浦道(みうらみち)との岐れ道にあったので、(現在の大倉館跡)義時が指差した方角は「北」にあたる。
しクぁし!
例えば、鶴岡八幡宮から直線上に延びる若宮大路もしくは鶴岡八幡宮を軸に据えると戌の方角にあたることから、そのような見解もある。(この当時の鎌倉において方位を問う時、若宮大路を基軸にしていたという説もある)
薬師堂造営は幕府の普請ではなく義時の身銭で建造された❗️
義時は薬師堂建立の構想を練っていたが、その話を聞きつけた弟の時房(ときふさ)と義時の嫡男である泰時(やすとき)が訪れ、薬師堂建立に反対の意を唱え始める。
泰時は義時にこぅ告げた。
『これよりは京師(京の都)より公卿の方々が鎌倉へ下向される機会も増えるでしょう。その接待に多くの費用が伴うは父上もすでにお分かりのはず。何ゆえ今、造営工事を進められるのか』
義時は返す。
『薬師堂の建立は我が一存にて勝手に行うこと。他の者への迷惑は及ばぬ。何より戌の神の御告げなれば、我は身銭をはたききってでも我が宿願として完遂せねばならぬこと。さもなければ我のみならず鎌倉へも神罰が下ろぅ。ふぉっ、ふぉっ、フオ〜っ‼️(フォー‼️は余計)』
かくして1218年(建保六年)7月9日、義時は薬師堂の造営工事を起こし、1218年(建保六年)12月2日、義時の薬師堂は完成をみた。
堂内には稀代の仏師・運慶造立の木造薬師如来像と、その脇侍となる十二神将の群像も配置され、栄西(ようさい)の高弟・荘厳房律師 行勇(しょうごん ぼうりつ りっし ぎょうじゅう)を導師として、その開眼の儀が修された。
義時はこの後、自身が生涯を通して味わえないほどの霊験を感得するのだが、それこそがこの儀式が終った時刻が「戌の刻」だったという事実。
北条義時の薬師堂が前身であるとは言い切れない
実は義時が大倉の地に建立した薬師堂と、現在の覚園寺を結びつける決定的な証拠はない。
しかしながら、以下のような事柄が義時の大倉薬師堂とを覚園寺を結びつけており、それが傍証とされる。
- 覚園寺に伝承される縁起が、3代将軍・実朝の暗殺事件にまつわる薬師堂建立のストーリとなっていること。
- 現在の覚園寺が建つ谷戸は古来、「薬師堂ヶ谷」と呼ばれたいたこと。(薬師堂ヶ谷は鎌倉時代のことを記す吾妻鏡や太平記にも登場する。)
- 覚園寺文書(1985年6月6日に重文指定)は、1251年(建長三年)3月28日に藤原頼嗣の下文を上限とし、覚園寺の所職や所領、行事などに関連した記述が多く記録される。
中でも覚園寺造営料として靱負尉(ゆきえのじょう/衛門府の第三等の官)100人分相当を寄進した光厳上皇の院宣は、当時の売官(ばいかん/造営を行わせる対価として官職を与えること)史料として貴重とされる。
この文書には永仁以前(覚園寺創建以前)の年紀の文書が数通も存在していることから、覚園寺の前身となる薬師堂の存在が浮上する。
- 昭和23年に戌神将像の胎内より発見された52通の文書は薬師堂創建以来の所領に関する記述が多く、覚園寺縁起が事実のものであったとする論証が成り立つ。
覚園寺の歴史(年表)
以下、主として吾妻鏡参照
薬師堂時代(北条義時公創建)
年月日 | できごと |
1218年(建保六年)7月8日 | 北条義時、将軍・実朝の供奉として鶴岡八幡宮へ参詣す。 その夜、戌の刻、夢枕に戌神将(跋折羅大将)が立ち、託宣を受ける。 |
7月9日 | 北条義時公、昨晩の戌神将が現出した霊夢に霊験を感得し、薬師堂の建立を発願す。 |
12月2日 | 薬師堂落慶入仏供養の儀式が執行される。義時夫妻参詣す。 |
1219年(承久元年)正月27日 | 3代将軍・実朝が八幡宮本宮前の石段にて公暁(2代将軍・頼家の3子)に暗殺される。 この翌月8日、義時は不慮の危難を免れたことへの報祭(お礼参り)のため八幡宮へ参詣してい‥ます。カっ! |
1223年(貞応二年)12月3日 | 瑞祥を感得し、義時は薬師堂にて祈祷を修す。 |
1243年(寛元元年)2月2日 | 薬師堂、回禄の災(焼亡)に罹る。本尊だけは何とか持ち出し、難を免れる。 |
1250年(建長二年)2月8日 | 北条時頼、霊夢を得て病気中、薬師堂に参詣す。 |
12月8日 | 北条時頼、懐婦平産祈願(安産祈願)のため参詣す。願書を内陣に奉納す。 |
1251年(建長三年)10月7日 | 薬師堂ヶ谷が焼亡す。 |
1263年(弘長三年)3月10日 | 8代執権・北条時宗公が発願していた薬師堂の修営が完工を迎える。 近江僧都(そうず/僧都は僧正の下位の僧位)により真言供養が厳修される。 |
健治年間頃 | 沙石集によると、願行上人、鎌倉の浜辺より地蔵尊を二階堂の当地へ移したとある。 |
1295年(永仁三年)4月17日 | 願行宗灯宗師、京都西八条の住坊(偏照心院)に於いて示叙す。(位牌銘) |
永仁年間までには「大倉の薬師堂」、あるいは「新御堂」と称せられ、今もなお、当地は「薬師堂ヶ谷」と呼ばれることもある。
一命をとりとめた義時と戌神の霊験
1219年(承久元年)正月27日、北条義時は実朝の右大臣拝賀の儀の御共として鶴岡八幡宮寺へ神拝する予定だったが、突如、楼門へ差し掛かったあたりで人事不省(じんじふせい/突発的な意識障害)を起こし、休息のため自邸へ戻った。
その義時の代打として、源仲章(みなもとのなかあき)が実朝に御伴(御剣を奉持する役)することになったが、実朝が儀式を終えて本宮前の石段に差し掛かった時、突如❗️石段脇のイチョウの影に潜んでいた公暁(くぎょう/2代将軍頼家の遺児)が実朝に斬りかかり、殺してしまう事件が起こる。
それに巻き込まれて仲章も殺害されたのだった。
義時からすれば、これは自らが見た戌神の霊夢が現実化したことを意味し、不慮の危難を免れたことになる。
吾妻鏡によると、人事不省を起こした時、義時の脳裏に急に煙が立ち込め、白い犬が現れたと語ったそうな。それはまるであの夜、見た夢の光景そのものだったとも。
しかも驚くことに人事不省を起こした時刻が戌の刻に入った所だったと云われることから、この白きワン公は戌神の化身だったと云わざるを得ない。
しクぁし!
驚く事実のはこれだけではなく、義時が人事不省を起こした時、大倉の薬師堂には戌神将(跋折羅大将)の像が無かったとも伝わる。
本当のような嘘のような話だが、一説に義時公の生誕年は1163年(干支が未)とされるが、誕生日は戌の日だったという説もあるほど、義時公と戌の神は何かしらの強い因縁で結ばれていたことになり、歴史がそれを傍証してい‥‥‥ます。(耐)
もしくは義時公の戌の神に対する信仰の度合いを表したものとも考えられる。
いずれにせよ、こぅした北条義時公と戌の神との数ある霊験が背景にあり、十二神将を脇侍、薬師如来像を本尊に据え、覚園寺(当時は大倉薬師堂)は創建に到ったのである。
覚園寺時代
年月日 | できごと |
1296年(永仁四年) | 9代執権北条貞時が元寇の来襲を避けるという本願のもと、大檀越(施主)となって義時公の薬師堂を改め寺の規模を拡大し、「鷲峰山 真言院・覚園寺」と号した。 また、願行上人の高弟・智海心彗律師(ちかいしんえ)に請いて開山とす。(覚園寺としての初代住職)。 また、真言宗・天台宗(律)・禅宗・浄土宗の四宗兼学の寺とした。 |
近江國東方山安養寺(滋賀県栗東市安養寺)の中興開山である戒山慧堅が編纂した律苑僧宝伝(りつおんそうぼうでん)によると、開山の智海心彗律師は高く法憧を掲げて律儀を賛揚し、盛んに道俗を教化。 また、自ら不動尊像を8000枚描き、護摩を50座余りも修したとある。 | |
1298年(永仁六年)9月21日 | 執権北条貞時、大仏宣時と連署して伊北小太郎をして父・定阿の譲状の旨により、上総国 伊南荘布施郷の田、屋敷を安堵す。 |
1311年(応長元年)10月26日 | 最勝園寺殿(覚賢)・北条貞時公が没する。 |
1333年(元弘三年)5月21日 | 最後の執権・北条守時が1333年5月18日、新田義貞軍との激闘の末、洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢あたり)にて子の益時と共に自刃に及ぶ。 その3日後となる5月21日には守時の前代執権・北条高時が東勝寺合戦において一族郎党・総勢283名と共に自害。同日、守邦親王が将軍職を退き出家す。 これを以って鎌倉幕府の滅亡とす。 |
5月25日 | 九州の鎮西探題が陥落す。 (反幕府勢力に転じた少弐貞経や大友貞宗、島津貞久らによる所業) |
覚園寺の創建
現在の覚園寺は、9代執権北条貞時が元寇の来襲を避けるという本願のもと、自らが大檀越(施主)となって義時公の薬師堂を改める形で規模を拡張して創祀された。
この頃の覚園寺は四宗兼学の寺院として「鷲峰山 真言院・覚園寺」と号し、諸堂や門が立ち並ぶ大伽藍を擁したと伝わる。
1296年(永仁四年)といえば元寇の役がすでに2度目を迎え、それから15年経た頃。
この頃の武士たちは先の元寇の役で疲弊し、その上、2度あることは3度あるという言葉があるように、わずかでも、ひと時の安寧を希求していたに違いない。
こうした不安な世情を抱えながらも、まさに国家鎮護、国家の御願寺として覚園寺は創建されたことになる。
鎌倉幕府滅亡直後の騒乱
寺伝によると、北条氏滅亡後(鎌倉幕府滅亡後)の鎌倉は住僧などは即座に退散し、大袋(平易に強盗のこと)が覚園寺境内へ数度にわたり乱入し、本尊の道具などを盗み、坊舎を破壊したと伝える。
騒動が沈静化した頃、浄福寺再興が発願され、覚園寺への与力を請いたとある。
鎌倉幕府滅亡後は後醍醐帝の御願寺となった
鎌倉幕府滅亡後、北条氏が領有していた領地は後醍醐帝の所有するところとなり、覚園寺も後醍醐帝の御願寺となった。
南北朝時代には北朝および、足利氏の勅願所となった。
室町時代
年月日 | できごと |
1333年(元弘三年)12月21日 | 後醍醐天皇より勅願寺の綸旨(りんじ/天皇の命令)が下賜される。 また、この頃、後醍醐帝より「金剛宝殿」の題額が奉納される。 |
1337年2月10日 | 覚園寺が回禄(火災)に見舞われる。 幸い、この火災では仏像、経典への類焼を免れる。 この年、覚園寺住僧たちは堂舎を再興するために寺領の寄進を足利尊氏に請うた。 |
8月14日 | 光厳上皇が覚園寺造営(再建)のため、靭負尉(ゆきえのじょう)の任料(にんりょう/官職・荘官職などに任じられるときの手数料)100人分を覚園寺へ寄進すべき旨、足利尊氏へ下命す。 |
1342年(康永元年)8月3日 | 思淳宗師が再び覚園寺の住持職となる。 |
1348年(貞和四年)5月 | 覚園寺奉行でもある能州(のしゅう/現在の石川県羽咋(はくい)郡以北=能登半島)の執筆奉行・矢多田弾正が、関東管領承認の侍所の制札を門前に立てる。 |
1352年(観応三年)6月13日 | 相州文書によると、足利尊氏、覚園寺の寺領として「相模国の毛利庄内・妻田、散田、荻野郷など」を認め、衆庶の乱暴狼藉および竹木の伐採を禁ずる。 |
6月21日 | 足利尊氏、足利義詮(よしあきら)の寄進の覚園寺寺領、真広名(相模国)を安堵することを当時の覚園寺住持・朴文思惇(ぼくがいしじゅん/京都泉涌寺12世住職)に告知す。 |
6月24日 | 足利尊氏、覚園寺寺領の上総国・小蓋、八坂それぞれの村における武士などの乱暴狼藉を禁ずる。 |
1353年(文和二年)3月15日 | 足利尊氏、覚園寺住持・朴文思惇に天下安寧の祈祷を請い、厳修す。 |
11月6日 | 足利尊氏、鎌倉御所の足利基氏(初代鎌倉公方)に命じて、覚園寺敷地内にある民家を排除し、築地(築地塀のことだと思われる)を修造させる。 |
この頃の相模国は動乱の渦中にあり、覚園寺再建の資金も思いのほか集まらず、常陸国へ棟別銭(むなべちせん/中世、家屋の棟数別に課した臨時課税のこと)の寄進を請いた。
年月日 | できごと |
1354年(文和三年)12月8日 | 足利尊氏、覚園寺住持・朴文思惇に天下安寧の祈祷を請い、厳修す。 |
同日、境内仏殿(現在の薬師堂)の修営が終わり、足利尊氏が梁牌銘(りょうはいめい/梁に取り付けた札の銘)に自署す。(現在の薬師堂の梁牌のこと) また、梁牌銘に自署したことを示す証文を下す。 仏殿の再興に到っては当時の浄福寺(鎌倉)住職・革義から自寺の坊舎、一切経、庫院などの寄進があったと伝わる。 | |
1358年(延文三年)4月29日 | 足利尊氏、死没す。「当寺中興 檀那 長寿寺殿 仁王義公(位牌銘、過去帳銘あり) |
1361年(康安元年)11月28日 | 足利基氏、覚園寺住持・朴文思惇に天下安寧の祈祷を請い、厳修す。 |
1362年(康安二年)2月22日 | 基氏、彗星出現により、覚園寺住持・朴文思惇に天下安寧の祈祷を請い、厳修す。 |
1363年(貞治二年)6月2日 | 基氏、覚園寺住持・朴文思惇に雨乞いの祈祷を請い、厳修す。 |
1367年(貞治二年)2月10日 | 足利基氏が覚園寺支院・持宝院へ、上野国 群馬郡 黒田山郷の替(代わり)として同国の寮米保内(食糧の米)の庶子分(正室ではない女性から生まれた子供の分)を寄付す。 |
4月26日 | 足利基氏が没する。(過去帳銘あり) |
1379年(康替元年)4月21日 | 後円融天皇、覚園寺の思怕上人に対し、京都泉涌寺の住職(第12世)に補任する綸旨を下す。 |
年月日 | できごと |
1397年(応永四年)7月10日 | 相模文書によると、鎌倉御所の足利氏満、武蔵国 比企郡 竹沢郷の竹沢兵庫助入道の遺跡を覚園寺の修理料として寄進したとある。 |
1401年(応永八年) | 十二神将の珊底羅大将(さんてらだいしょうりゅうぞう/午神将/)の造立が開始される。(応永八年6月日 法橋 朝祐 作 花押」の銘が顔面内部の墨書銘にあり) |
覚園寺の応永の復興が開始されるにつき、新たに住僧職に思咲宗師(悦岩思咲)を迎える。 | |
1408年(応永十五年)6月1日 | 頞儞羅大将(あにら/未神将)の造立が開始される。 「応永十五年六月一日 朝祐 花押」(後頭部内部に墨書銘あり) |
1409年(応永十六年) | 安底羅大将(あんてら/申神将)の造立が開始される。 「応永十六年 大仏師 朝祐」(胎内支柱銘あり) |
1410年(応永十七年)5月16日 | 迷企羅大将(めきら/酉神将)の造立が開始される。 「応永十七年五月十六日 覚園寺 比丘 思咲 花押」「信心施主 随珍 花押」など、胎内支柱銘あり。 |
1411年(応永十八年)4月5日 | 毘羯羅大将(びがら/亥神将)の造立が開始される。 「朝祐(花押)応永十八年四月五日」の銘が顔面内部にあり。 |
1414年(応永二十一年)4月25日 | 鎌倉御所の足利持氏が思咲宗師に請い、開山・塔泉竜院において祈祷を厳修す。 |
1416年(応永二十三年)11月3日 | 大願主・随珍により伊陀尊天菩薩像の造立が開始される。 悦岩思咲(えつがんししょう)が開眼供養を執行す。(銘札が現存。尊像は現存せず) |
覚園寺の復興に力を尽くした2人の僧
覚園寺の悠久の歴史の中でも、とりわけ復興に尽力した2人の僧侶がいたが、それが思惇と思咲という二僧とされる。
年月日 | できごと |
1418年(応永二十五年)6月5日 | 法橋 随珍が檀那(檀家のこと)となり、伽藍神を安置する須弥壇を1基、造立す。 6月11日にも祖師像を安置するための須弥壇を1基、造立す。(須弥壇の虹欄 破片に銘あり) |
11月9日 | 土佐の法橋 随珍が大願主となり、大権、修利、大帝の3菩薩像を造顕し、開眼供養す。(仏師 伯耆 法眼 朝祐 作、染色 宇多田修里助、塗師 近藤家友、の銘、三菩薩胎内に銘札あり。) |
1422年(応永二十九年)3月29日 | 日光菩薩坐像の造立が開始される。 「伯耆 法眼 朝祐 応永二十九年 寅三月二十一日」の銘あり。(顔面内部に墨書銘あり) |
なお、月光菩薩もこの頃に造立されたものとみられてい‥‥申す。ヤっ(最近ネタ切れ気味) (昭和27年の修理の際に顔面内部に墨書銘が発見されるも、後世で削られたらしく現在、判読困難)南山道宣、元照霊芝、俊仍律師、の3像も応永年間に造立されたとみられる。 | |
この頃、仲秋が思卍覚園寺法流伝来記を著す。 | |
1426年(応永三十三年)8月15日 | 朝祐仏師が没する。(位牌銘あり) 応永8年より十二神将、日光・月光菩薩の両脇侍、伽藍神、祖師像など、現存10数体の尊像を造立した。 |
1438年(永淳十年)9月6日 | 鎌倉御所の足利持氏、覚園寺住持に凶徒退治の祈祷を請い、厳修す。 |
1441年(永淳十三年)正月19日 | 地蔵菩薩(黒地蔵尊)台座が新補(補修)される。 |
1448年(文安五年)11月12日 | 関東管領の細川勝元が足利義政の意を奉じ、上総国守護の千葉篤直に書を与え、覚園寺の寺領、上総国小蓋村を安堵す。 |
年月日 | できごと |
1449年(文安六年)2月7日 | 後花園天皇、泉涌寺第三十八世のシン勝上人(覚園寺前住職)に末寺の覚園寺寺領を安堵する旨の綸旨を下す。 |
1534年(天文三年)4月9日 | 相模国 小田原城城主・北条氏綱が覚園寺の諸役を免除す。 また、寺領内における一般庶民の竹木伐採を禁止する。 |
1453年(天文十二年)4月14日 | 北条氏康が覚園寺修理料を寄付す。 |
1569年(永禄十二年)10月24日 | 芳春院、地蔵堂に「天地殿」の額を奉納す。 「芳春院、季竜周興新造施、永禄十二歳 己巳 十月二十四日」(額面に刻銘あり) |
織豊時代(安土桃山時代)
年月日 | できごと |
1577年(天正五年)8月24日 | 大道寺政繁が造営の巧を賞賛し、覚園寺寺領を安堵す。 |
1590年(天井十八年)4月日 | 宝戒寺に伝わる宝戒寺文書によると、太閤秀吉が鎌倉二階堂の覚園寺、荏柄天神社、瑞泉寺、西御門、宝戒寺、浄光明寺の六ヶ寺の禁制を下したとある。 |
1591年(天正十九年)11月日 | 徳川家康が相模国小坂郡、並びに鎌倉内の七貫百文に相当する土地を覚園寺に寄進す。 |
この織豊後期〜江戸初期にかけては覚園寺が有史上、ほとんど登場せず、また寺に伝わる文書も消失していることから、当代の覚園寺の寺容については判然としない。
江戸時代
年月日 | できごと |
1636年(寛永十三年)11月9日 | 三代将軍徳川家光公より先例に則って、七貫百文の朱印を受ける。 |
1646年(正保四年) | 恵淳律師、二階堂谷口の天王社(覚園寺山内)御輿2社を修営す。(銘札あり) この御輿は明治初年に埼玉県秩父釜伏山某社に売却された。 |
1650年(慶安三年)7月24日 | 地蔵堂坐像の修営が行われる。 「大仏師、相州鎌倉雪ノ下 住人 斉田松左衛門 能春、慶安三年七月二十四日」(顔面内部に修理銘あり) |
1658年(万治元年)8月29日 | 指物大工 河戸又左衛門、礼盤を寄進す。 「万治元年 辛丑 八月二十九日 指物大工 河戸又左衛門、寄進、覚園寺常在、住持 恵淳西堂」銘あり。 |
1660年(万治三年)正月30日 | 恵雄和尚が示寂(死没)す。 |
この頃の覚園寺の全国各地方に点在する寺領はすでに失われ、住僧たちは離散し、学問所や祈願所は荒廃するなど時代の流れと共に衰微した。 | |
当寺の檀家墓域に寛永、正保、慶安、承応の年代の墓石が散見されるのは、寺が衰微していた様子を示す根拠とされる。 | |
1681年(天和二年)6月2日 | 玄門伯宥和尚、鎮守堂を修営す。(銘札あり) |
江戸初期ならびに、1685年(貞享二年)の古絵図を見ると、以下のような塔頭(子院)を備えた大寺院だった過去がうかがえる。
- 泉竜院跡、蓮華院跡、大悲院跡、光明院….etc
「跡」と付されているように江戸時代初期の覚園寺はすでに衰微していたことが分かる。
年月日 | できごと |
1689年(元禄二年)5月二十○日 | 伯宥和尚が仏殿(1354年に足利尊氏が建立)を修営す。(銘札あり) |
1691年(元禄四年) | 薬師堂が修営される。寺運が大きく傾き、伽藍を現在の規模のように縮小せざるを得なくなった。 |
1703年(元禄十六年)11月22日の夜 | 大地震が発生す。諸堂は倒壊し、堂内安置の諸仏も破損に及んだ。 |
1704年(宝永元年) | 薬師如来、日光・学校、十二神将像の修理が行われる(本尊に修理銘札あり) |
1708年(宝永五年)11月26日 | 山内住吉神社が再建される。(棟札に銘あり) |
1717年(享保三年)7月日 | 先例に則って朱印料として7貫百文を受ける。 |
1725年(享保十年)秋 | 山号額が門に掲げられる。(前掲の山号は額裏に刻文あり) なお、この門は明治初年に寺運衰微し、建長寺に売却された。 現在は金沢市郊外の江戸村にある。(現・石川県金沢市湯涌温泉) |
1726年(享保十一年)2月18日 | 中御門天皇、当山の安山長老に泉涌寺住持職に補任する綸旨を下賜す。 |
1731年(享保十六年)4月21日 | 地蔵堂 空論 露盤 を上架す。(持ち上げて修理す)(地蔵堂棟札に銘あり) |
年月日 | できごと |
1781年(天明元年)6月 | 泰山和尚、山内の天王社を再興す。(修理銘札あり) |
1812年(文化八年)6月 | 泰山和尚、天王社御輿を修営す。(銘札あり) なお、この天王社御輿は明治初年の神仏分離の際、埼玉県秩父釜伏山某社に売却された。 |
1830年(文政十三年)10月5日 | 庫院が焼失す。(渋谷文司 勝明 位牌銘あり)厳浄和尚の晩年、庫院が焼失し、寺域は荒廃し、無住となる。 |
1843年(天保十四年)秋 | 二階堂に在住の渋谷文司勝明が寺域の荒廃を見るに忍びず、善心を露わにし、大願主となって諸堂の修復、尊像の修理を行う。(修理銘札あり) |
天保年間の中頃 | 院代の儀英が寺目代 源兵衛と謀り、当年7月、本尊・薬師如来、日光・月光、十二神将、黒地蔵、試不動、ならびに寺宝を江戸廻向院に出開帳す。 |
出費がかさみ、借金300余両が発生す。 寺禄木樹を伐採して換金の上、ようやく尊像は寺に戻された。 しかしながら破損多く、院代の儀英、寺目代 源兵衛は逃亡を図る。 これにより寺域が荒廃す。(薬師如来 修理銘札あり) | |
1846年(弘化三年)春 | 本堂(薬師堂)、本尊、脇侍、十二神将の修理が終わる。(修理銘札あり) |
1847年(弘化四年)冬 | 客殿が上棟す。 |
この頃より寺域が整備され、寺観は以前の威容を取り戻しつつあったが、世情騒然の時代背景(物騒な時代)もあって、覚園寺は僧の定住を欠き、寺門は衰微しつつあった。
明治時代
年月日 | できごと |
1869年(明治二年) | 弘化四年に建てられた庫院が焼亡す。 |
1871年(明治四年) | 兼宗廃止令が出され、これまでの四宗兼学の改宗を余儀なくされる。 これにより真言宗を公称するに到る。 |
この時、無檀、無禄寺院の廃絶もあって寺中の大楽寺(たいらくじ/現在は覚園寺駐車場/公珍が創祀)理智光寺(りちこうじ/二階堂/願行上人が創祀)も廃寺となり、覚園寺と合祀(合併)される。 | |
また、この頃、覚園寺の寺禄、寺宝などが散じて山門、鐘楼などは他寺へ売却され、寺域は荒廃した。 |
大正時代
年月日 | できごと |
1923年(大正十二年)9月1日 | 関東だ震災により諸堂が倒壊す。 |
1924年(大正十三年) | 黒地蔵菩薩の修理が終わる。(文部省 国宝保存課 施行) |
昭和時代
年月日 | できごと |
1928年(昭和三年)2月 | 愛染堂を現・位置に移築する。(現在の愛染堂は寺中に在った大楽寺の遺構とされる) 明治年間に山内の蓮華院跡に移されたが、大地震のために倒壊に到り、現在地に再興された。 |
1934年(昭和九年)1月 | 開山塔、大灯塔、国宝(現・重文)の指定を受ける。 |
1939年(昭和十四年)8月 | 地蔵堂が新造され、落慶す。 |
1948年(昭和十八年)7月 | 覚園寺の百八やぐら が史跡の仮指定をうける。(昭和三十六年七月四日、神奈川県指定史跡)同年、薬師三尊 十二神将、仮修理が行われる。 |
1949年(昭和二十四年)2月 | 薬師三尊、国宝(現・重文)指定をうける。 |
4月 | 十二神将、鉄不動および覚園寺文書、重要美術品の指定を受ける。(鉄不動=鉄造不動明王坐像。現在は愛染堂内に奉安される) |
1951年(昭和二十六年)8月 | 国庫補助を受けて、本尊・薬師三尊像および、須弥壇の修理が着工される。 |
1952年(昭和二十七年)2月8日 | 薬師堂の修営が着工される。 |
8月 | 修理が終わる。 |
11月8日 | 本尊の修理が終わる。開眼供養会を厳修す。 |
12月 | 阿閦如来像(あしゅくにょらい/旧大楽寺伝来)が、神奈川県重要文化財の指定をうける。(現在は愛染堂に奉安される) |
年月日 | できごと |
1954年(昭和二十九年)10月 | 薬師堂が神奈川県重要文化財指定を受ける。 |
1956年(昭和三十一年)4月27日 | 開山六百五十年 中興 開基 尊氏公(足利尊氏) 六百年 ご遠忌法要が厳修される。 |
1964年(昭和三十九年)8月 | 客殿が新造される。 |
1965年(昭和四十年)11月18日 | 北条貞時公 六百五十年 ご遠忌法要が厳修される。 |
開山塔、大灯塔の解体修理が実施される。 2基の塔内から蔵骨器などの納置品が発見される。(智海心慧の蔵骨器に用いられていた黄釉草葉文壺などが発見された) | |
1966年(昭和四十一年)5月 | 開山塔、大灯塔の修理が終わる。 |
1967年(昭和四十二年)6月22日 | 「覚園寺境内」の名称で国史跡の指定をうける。 |
1969年(昭和四十四年)1月 | 薬師堂、千体堂が修営される。 |
1970年(昭和四十五年)3月 | 開山塔 納置品を修理す。 |
5月 | 愛染堂が修営される。 |
年月日 | できごと |
1971年(昭和四十六年) | 十二神将の修理が着工される。 |
1973年(昭和四十八年)5月 | 庫裏が新築される。 |
1974年(昭和四十九年)8月 | 十二神将の修理が終わる。 |
1981年(昭和五十六年) | 旧 内海家住宅(江戸時代の名主の住宅)を移建し、修理工事が完了す。 |
1985年(昭和六十年) | 薬師堂の屋根の修営が実施される。 |
令和時代
年月日 | できごと |
2018年(平成年) | 覚園寺第31代住職に仲田順昌(なかだ じゅんしょう)氏が就任。 これに伴い前代住職であった第30世住職・仲田昌弘は覚園寺名誉住職に就任す。 |
2020年(令和二年)3月 | 薬師堂の茅葺き屋根の部分修繕が完工す。 新型コロナ感染拡大防止対策により、拝観方法が変更される。 |
覚園寺の現在の伽藍
- 本堂(薬師堂)
- 地蔵堂
- 愛染堂
- 祖師堂
- 庫裡
このほか、昭和55年に古民家の旧内海家住宅(神奈川県重文指定)が手広(鎌倉市)から移建された。旧内海家住宅は当時の名主の家屋とされ、1706年(宝永三年)の立柱が現在も見られる。
もし、それが事実とするならば江戸時代中期から後期にかけての名主の邸宅となり、当時を知る史料としてはキャナリ(訳:かなり)貴重。
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