江の島サムエル・コッキング苑とは?
江の島サムエル・コッキング苑とは、1882年(明治15年)、横浜に居住していたアイルランド人の貿易商サムエル・コッキング氏によって作られた和洋折衷庭園です。
この庭園の最大の特徴は当時では稀有な温室が用いられ、南国育ちの植物が栽培されていたことにあります。
⬆️サムエル・コッキング氏の肖像画 (画像引用先:ウィキペディア)
この温室が稀有とされたのは、地下構造を有する庭園でありながら、当時は日本のみならず世界でも温室を備えた庭園が稀有とされたからです。
しかし1923年(大正12年)の関東大震災にて基礎部分と地下施設を残して温室は倒壊し、現在、この地下の温室部分は遺構として不定期公開されています。
遺構になったとはいえ、このようなレンガ造の温室の遺構は現存しているだけでも、大変めずらしいものであり、現存する唯一のものと言われます。
現在、温室遺構部分の周辺にも英国様式の庭園が拡張され、その面積は約12,000平米(東京ドームのおよそ0.27個分)にものぼり、グルっと大人の足で一周しても軽く10分〜15分はかかりまする。
敷地内には、バラやチューリップのほか、珍しっすぅぃ〜ぃ、熱帯植物などの様々な草花木々が咲き誇り、中には藤沢市天然記念物の指定を受けている植物もありまする。
江の島サムエル・コッキング苑(江ノ島シーキャンドル)の歴史(年表)
江戸時代後期
年月日 | 出来事 |
1842年 | イギリス領アイルランドにサムエルコッキングが生まれる。おぎゃ〜オぎゃぁ〜 |
1848年 | 両親とともにオーストラリア開拓民としてアデレードに移住。のちにメルボルンに転居。 |
1851年頃 | オーストラリアになじめず、また「ゴールドラッシュ」に嫌気がさし、単身英国本国に帰国。 |
1858年 | 貿易商を志し、帆船を購入し日本へ向かう |
明治時代
年月日 | 出来事 |
1869年(明治2年) | 来朝。横浜に入港する直前に暴風雨に遭遇。 伊豆半島に難破寸前状態で流され、相模湾まで来たところで緑豊かな江の島を見て気に入る。 なお、この頃、新政府軍と幕府軍の激しい戦闘が繰り広げられていた。 |
1871年(明治04年) | 日本では1870年に大政奉還がなされた翌年。横浜居留地55番地にてコッキング商会を設立。 廃藩置県が実施され、大名屋敷などから出された調度品や美術品、骨董品を取り扱い財を成す。 |
1872年(明治05年) | 宮田リキと結婚す。 |
1877年(明治10年) | この年に流行したコレラの消毒薬として石炭酸を大量に輸入し、利益を得る。 ほかに輸入した商材としては、医療用具、測量用具、写真器材、洋酒など多岐にわたる。逆に美術骨董品を輸出し、一財を築き上げる。 |
1880年(明治13年) | 金亀山与願寺(現在の江島神社)の寺領(社地)であった江の島頂上部の土地500坪余(現在の亀ヶ岡広場)を妻名義で購入し別荘を建築す。 |
1882年(明治15年) | さらに、与願寺(現在の江島神社)の所有地であった江の島江の島頂上部の土地3200坪をサムエルコッキング氏が買収す。 この土地は往時は与願寺の菜園跡であった。これを活用し植物園の造営工事を開始す。 また、この頃、同氏は湘南海岸一円に土地を購入し、別荘と称して販売している。 |
1884年(明治17年) | サムエルコッキング氏、横浜平沼に構えた自邸付近に石鹸工場を開設す。 コッキング氏はドイツ人技師を招いて毎月約112.5トンもの石鹸を製造していた。 |
1885年(明治18年) | 江の島山頂部に前述の植物園が完成す。敷地面積は約18,000m2を誇り、この当時日本最大級といわれた近代的意匠を取り入れた植物園として「サムエルコッキング植物園」と号す。(現在のサムエルコッキング苑の前身) 日本において現存する3番目に古い植物園でもある。 コッキング氏はマスメディアなどを通じてこの庭園を世に広く公開し、世界の名だたる植物学者や、日本では近代植物分類学の権威として称賛された「牧野富太郎博士」も訪れた。 |
1887年(明治20年) | 日本国有鉄道(現在のJR)東海道線に藤沢停車場が7月11日に開業す。 コッキング氏、横浜居留地内に発電所を開設す。 電気供給の許可が下りる。(明治29年に横浜共同電燈会社へ改称) |
1888年(明治21年)頃 | 江の島頂上部の土地に温室が完成す。(現在の温泉の遺構) |
1889年(明治22年) | サムエルコッキング氏、英国の植物雑誌「Garden」に寄稿し、日本の植物を紹介す。 この頃、コッキング氏は薄荷(ハッカ)貿易の先駆者として広く知られる。 |
1902年(明治35年) | 江の島電気鉄道(現在の江ノ電)が片瀬まで開通す。 |
1906年(明治39年)頃 | サムエルコッキング氏、取引先銀行の倒産に伴い事業縮小を余儀なくされる。 |
1907年(明治40年)頃 | サムエルコッキング氏、孤児を慰めるための園遊会を設立するなど、地域の福祉活動に参画す。 |
1910年(明治43年) | 江の島電気鉄道の藤沢〜鎌倉間が全線開通す。 |
大正から昭和を経て平成へ
年月日 | 出来事 |
1914年(大正3年) | サムエルコッキング氏、横浜市平沼の自宅にて逝去す。 |
1923年(大正12年) | 関東地震により荒廃す。 |
1926年(昭和元年/大正15年)12月14日 | 江の島に水道が開通す。 |
1929年(昭和4年) | 小田原急行電鉄(現在の小田急)江ノ島線が開通す。 |
1940年(昭和15年) | 市政施行により、藤沢市が誕生す。中区相沢の共同墓地に葬られる。 |
1947年(昭和22年)4月1日 | 江の島を含む鎌倉郡片瀬町が藤沢市に編入される。以降、藤沢市は江の島の観光地開発に乗り出す。 |
1948年(昭和23年) | 上記、サムエルコッキング邸の土地を藤沢市が買収す。 |
1949年(昭和24年)12月 | 藤沢市海洋総合博物館建設計画の一環として「藤沢市立江ノ島熱帯植物園」を開設す。 |
1950年(昭和25年) | 江ノ島熱帯植物園が江ノ島鎌倉観光(後の江ノ島電鉄)の委託経営となる。以後、「江の島植物園」と改名す。 |
1951年(昭和26年)3月25日 | 江ノ島鎌倉観光が東京都世田谷区二子玉川の読売遊園(後の二子玉川園)にあった落下傘塔を江の島植物園内に移築す。「読売平和塔」という展望台を兼ねた民間灯台(江の島灯台)を建設す。 |
1951年(昭和26年) | 同年、伊豆大島から連れてきた54匹のタイワンリスを江の島植物園にて飼育を開始す。現在、江の島はもとより鎌倉界隈で台湾リスが見られるが、これは台風で植物園の飼育小屋が破損し、逃げ出して江の島弁天橋を渡り、鎌倉市内に入り込んで繁殖するようになったといわれる。 |
1959年(昭和34年) | インドネシアスラウェシ島のトラジャ族の家屋を模した「南方民俗館」を開設す。 この頃から読売平和塔は「江の島灯台」と呼ばれるようになる。 藤沢市がアメリカ合衆国のマイアミ・ビーチ市と姉妹都市提携する。以後、藤沢市南部の海岸は藤沢市の働きかけもあり「東洋のマイアミビーチ」とも呼ばれる。 |
1964年(昭和39年) | 江の島植物園の運営権が再び藤沢市へ移管される。 |
1971年(昭和46年) | 江の島植物園内のクックアロウカリア、シマナンヨウスギ、タイミンチク群、ツカミヒイラギの4種が藤沢市指定天然記念物に指定される。 |
1981年(昭和56年) | 中国・昆明市と藤沢市が友好都市提携す。 |
平成時代
1994年(平成6年) | 江の島植物園(ツバキ)、かながわ花の名所100選に選定される。 |
1999年(平成11年)11月7日 | 藤沢青年会議所が「いいじゃん江ノ島JYAN JYAN 祭り」を開催す。 このイベントは江の島灯台の解体撤去の噂が流れたため、保存アピールのため企画された。 |
2002年(平成14年) | 江の島植物園改修工事のため閉園す。工事現場から縄文土器類1万点が出土、ほかにサムエル・コッキングの建設した温室設備も発見す。江ノ島電鉄は、同社開業100周年記念事業として新江の島展望灯台建設に着手す。 韓国・保寧市と藤沢市が姉妹都市提携す。 |
2002年12月31日 | 江ノ島電鉄開業100周年記念事業のフィナーレとして点灯式において江の島展望灯台の初点灯が実施される。 |
2003年(平成15年) | 韓国・保寧市より2基のオブジェ(石塔)が寄贈される。 |
2003年(平成15年)1月 | 旧江の島灯台に隣接して新たに建設された江ノ島電鉄所有の江の島展望灯台をオープンす。その後1951年に建てられた江の島灯台は解体された。 |
2003年4月29日 | 整備後、藤沢市の公園施設「江の島サムエル・コッキング苑」としてオープンす。 |
2003年10月28日 | 江の島展望灯台、第48回神奈川建築コンクール一般建築部門奨励賞受賞す。 |
2010年(平成22年)10月5日(火) | 2010年7月1日~8月30日より、所有者である江ノ島電鉄は、江の島展望灯台の愛称を全国に募集し、約1千通の愛称が寄せられます。 その中から、海老根靖典藤沢市長、二見幸雄同市観光協会長、ふじさわ観光親善大使の「TUBE」らが選考し、『江の島シーキャンドル』と命名される。 |
2021年(平成31年) | 2003年のオープン以来18年目を経てリニューアル工事が開始される。コロナ後の地域再活性化、湘南のロケーションとコッキング氏所縁の植物、歴史文化遺産により一層親しみをもってもらいたいという切なる願いから。
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参照先:藤沢市教育委員会発行「湘南の誕生」、ウィキペディア
江の島シーキャンドルとは?
「江の島シーキャンドル」とは、灯台の役目を担いながら展望台が設置されており、観光目的を兼ねた展望台です。
現在のシーキャンドルは2代目であり、初代の江の島灯台は、読売遊園(東京都世田谷区。のちの二子玉川園)にあった「落下傘塔」という遊具を移築したものでした。
落下傘塔というのは、落下傘(パラシュートのようなもの)にロープをつけたものを塔から降ろして楽しむというもので、実際に戦時中には陸軍がパラシュート降下訓練に読売遊園の塔を利用したこともあったようです。
これを1951年(昭和26年)3月に江の島鎌倉観光(のちの江ノ島電鉄)が読売グループより買収し、現在地(江の島山頂)へ移築し、「読売平和塔」と名付け、民間灯台として運営します。
2002年になって江の島植物園全体が改修工事を行うに際し、江の島灯台も新設されることになり、2003年(平成15年)に晴れて2代目の灯台「江の島展望灯台」がオープンします。
これに伴い隣地に建っていた初代「江の島灯台」は取り壊しになり、現在、その跡地にはサンセットテラスや資料館が造られています。
江の島シーキャンドルは高さは59.8m、展望フロアの海抜101.5mとう高さもさることながら、江の島山頂に建つことから江の島でもっとも高い場所に立つ展望台となるので、周辺一帯の景色が一望できまする。
これはサムエルコッキング苑にとっても大きな見どころとなり得るものでゴザんす。
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