【比企ヶ谷の歴史】地名の由来や意味とは❓|神奈川県 鎌倉市

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「比企ヶ谷」とは❓

鎌倉は妙本寺周辺の谷(やつ)の名前。

江戸時代には「(相模国)鎌倉郡 大町村」に含まれる地域だった。

なお、江戸時代における大町村の小字(こあざ/町村をさらに細分化した地域)には「比企ヶ谷」の名前は記されておらず、1881年(明治14年)の「大字字区域変更調書」にも「比企ヶ谷」の名前は見えない。

文献上では昭和時代になってから比企ヶ谷の名前が現れる。

「比企ヶ谷」の別名

「曳谷」、「比器谷」という当て字も存在する。

瓜が谷

「鎌倉撹勝考(江戸時代後期編纂)」によると、頼朝卿の乳母である比企尼が自らの邸宅の前庭に瓜園を造成したことから、「瓜が谷」と呼ばれていたとある。

関連性は不詳とされるが、山ノ内(鎌倉)にも「東瓜ヶ谷」や「西瓜ヶ谷」の地名が現存する。

「比企ヶ谷」の地名の由来

鎌倉の歴史が書き留められた以下の旧記には次のように記される。

  • 鎌倉志には「比企半官能員ヵ旧跡ナリ」
  • 新編・相模国風土記稿(江戸時代編纂)には「頼朝の乳母・比企禅尼、此の地に卜居す、拠て此の名起れり」
  • 玉舟記には「ヒキノ岩殿」なる人物がこの谷に居処したとある




「比企ヶ谷(大町&小町)」の歴史

吾妻鏡の1182年(寿永元年)7月12日条によると、頼朝卿の正妻である北条政子が産気づき、「比企谷殿」に渡御した旨が記される。

1209年(承元3年)5月15日条によると、3代将軍・実朝が夕涼みのため、逗子の神武寺・岩殿寺への参詣後、駿河局(するがのつぼね)の「比企谷家」に渡御したとある。この地は鎌倉時代には山水納涼の避暑地であったことが窺える。うきゃ

阿仏尼(あぶつに)が著したとされる「十六夜日記(いざよいにっき)/1277年(健治3年)頃」には、「比企の谷(やつ)といふ所には、あまた声鳴きけるを、人間きたり。」

「校証阿陀仏全集(梁瀬一雄編纂)によると、「忍び音は”ひきの谷”なる時鳥(ほととぎす) 雲居に高くいつか名のらむ」とある。

鎌倉時代に編纂された「頬焼け阿弥陀縁起絵巻(重文/現・光触寺所蔵)の下巻」によると、比企の谷に地形無雙(「無双(むそう)」と同意)の勝地あり、‥‥この堂地をこひうけて一字の精舎を造立して、「岩蔵寺」と号して本尊をうつし据え(すゑ)たてまつりぬ、ときのひとこの寺を火印堂と申ける」とある。

要約すると、比企ヶ谷に現在の十二所付近に佇む光触寺(こうそくじ/山号は「岩蔵山」)の前身となる「岩倉寺(がんぞうじ)・火印堂」と称する精舎(しょうじゃ/僧侶が仏道を修行する場所=寺)を建てたとなる。

なお、光触寺と比企ヶ谷との関連性は不詳とされる。

文化人や権力者に愛された景勝地だった❓

鎌倉後期の書写であり、現存最古の写本と伝わる「西本願寺本万葉集奥書(お茶の水図書館所蔵)」によると、1246年(寛元四年)12月に比企ヶ谷の新釈迦堂の供僧にて、「万葉集」の研究家である仙覚(せんがく/1203年生)が僧坊において万葉集を書写したとある。

この時の同氏の活動を讃えた石碑が、1930年(昭和5年)に現在の西本願寺本堂脇に建立され、現存する。

また、1534年(天文三年)6月3日には、北条氏綱が鶴岡八幡宮への参詣後、比企ヶ谷で酒宴を催したとある。僧都記によると、天文九年11月には、比企ヶ谷に留まった旨のことが記されてい‥‥‥申す。カカキャっ、パキャっ

「比企の谷」の地形

「比企の谷」と呼ばれようにこの地は谷戸(やと/谷)になっていて、要害の地でもある。

上空から当地の地形を見ればその理由が一目瞭然で理解できる。

‥‥いかがだろぅか。

周囲が木々が繁茂する尾根状になっているように見えるが、事実その通りで谷戸になっている。

それと、かつての比企の谷の入口、現在の本覚寺との間を流れる滑川(なめりがわ)はもう少し川幅があり、半ば運河のようになっていたことから、比企の谷の前あたりまで船の往来が可能だった。

つまり、要害の地でもありながらも、交易にも適した土地であることが分かる。

比企能員が当地を根拠地としたのであれば、あらゆる事態を想定して館を構えたといえる。

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