【重要文化財】鶴岡八幡宮「一ノ鳥居(浜の大鳥居)」の歴史(建てた人)や構造(大きさ・材料)を…知りたぃの❓

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鶴岡八幡宮「一ノ鳥居(浜の大鳥居)」【重要文化財】

建立年

  • 1180年(治承4年)
再建年

  • 1668年(寛文8年)
  • 1936年(昭和11年)
建築様式(造り)

  • 明神鳥居、石造
材質

  • 備前犬島石 ※花崗岩
大きさ

  • 高さ(沓石〜笠石中央まで):8.5m
  • 柱の直径92㎝
  • 柱と柱の間(沓石から沓石/地面上から計測):約7m
重要文化財指定年月日

  • 1940年(昭和37年8月29日)

一ノ鳥居(大鳥居)の別名

  • 浜の大鳥居

かつて一ノ鳥居(大鳥居)は「浜の大鳥居」とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されてい‥‥申す。ぅぁぁっ (ネタ切れ)

浜の大鳥居の名前の由来

かつて鳥居の前に広がる海は「由比浦」や「前浜」などと呼ばれた場所。

その浜の前に建つ鳥居ということで「浜ノ鳥居」と呼ばれた。

鶴岡八幡宮「一ノ鳥居(大鳥居)」の歴史

創建当初は木造の簡素な鳥居だった!

鶴岡八幡宮に伝蔵される社務職次第によると1181年(養和元年)12月16日、梶原景義を奉行とし、頼朝卿が現場にて監臨のもと、一ノ鳥居(大鳥居)が建立されたと記される。

ちなみにこの時は木造の鳥居だったと伝わる。

創建当初、この鳥居の前は浜辺が広がっていたとされ、この鳥居近くに設置された釘貫(くぎぬき)の前で下馬し、歩いて本殿(本宮)を目指した様子が想像できる。

建立されてから以降、幾度もの地震や火災などで罹災しつつも、その都度、再建された歴史を有する。




現在の一の鳥居は4代目・徳川家綱が寄進したもの!

現在の一ノ鳥居は、江戸幕府第4代将軍・徳川家綱が祖母である崇源院の発願により寄進という形で1668年(寛文8年)に再建した高さ約8.5mの石造明神鳥居です。

寛文年中修復記によると、総工費8000両(ニノ鳥居、三の鳥居を含む)で以前は明神型鳥居では無かった。

※注釈※崇源院とは、浅井三姉妹(浅井長政の子女)の三女。徳川秀忠の正室・お江※1626年没)

この時、家綱は備前国(現在の岡山県東南部)の犬島から花崗岩を取り寄せ、一ノ鳥居のみならず、残り2基の大鳥居も寄進しています。

参道に立つ、二ノ鳥居、三ノ鳥居も家綱公が寄進して建て替えたとことになり申す。

一説には、2代目将軍・秀忠の妻である崇源院(お江)が崇敬していた八幡神に安産祈願し、無事に家光が生まれた後、八幡神が夢枕に立ち、こう告げられたようです。

『一の鳥居を備前国(岡山県)の犬島(岡山市犬島)の石(備前犬島石※瀬戸内産花崗岩)で造れ』

このお告げを聞いた後、崇源院は我が子である家光に伝え、発願するに至りますが、この鳥居が完成を見たには家光の次代将軍となる家綱のときだったという経緯があります。

しかし無念なことに崇源院は鳥居の完成を見ることなく、他界してい‥‥申す。ちょぃ休憩しよか

話は逸れますが、備前犬島石といえば大阪城の桜門枡形虎口内に配置される巨石・タコ石と同じ材質です。(大阪城の石垣の石の中では最大の大きさを誇る)

関東大震災で倒壊す!

1904年(明治37年)、3基の鳥居はすべて国宝に指定されました。しかし、悲運なことに1923年(大正12年)の関東大震災の折、3基ともすべて倒壊してい‥‥ます。 フっ

その後、二ノ鳥居と三ノ鳥居は鉄筋コンクリートで建て替えられ、一ノ鳥居は1934年(昭和9年)に立てられた修復計画により、江戸時代再建時の石材をできる限り活用し、足りないものは家綱に倣って犬島から取り寄せたり、自然石(花崗岩)を用いるなどして修復・再建され、1936年(昭和11年)に完成しています。

古い石と新しい石があるので、部分的に色が若干異なる。その甲斐あって重要文化財の指定を受けるに到る。旧一ノ鳥居「浜ノ大鳥居(浜鳥居)」とは?

1990年(平成2年)の発掘調査で、現在の一ノ鳥居よりも約180mほど陸側(由比ガ浜歩道橋交差点前(二ノ鳥居側))に直径160センチメートルのもの柱痕(大鳥居の遺構)が発見された。

調査以前から、かつて、現在の一ノ鳥居とは別の場所に「浜ノ大鳥居(浜鳥居)」と呼ばれる鳥居が存在したらしいことはわかっていたので、それが証明された形になる。

また、同時に発見された遺物の調査結果から1553年(天文22年/戦国時代)に戦国武将・北条氏康が再建したものと推定されてい‥‥申す。きゃ

浜の鳥居跡

板碑に記される内容
沿革:

鶴岡八幡宮参道(若宮大路)の最も南側に立つ鳥居は「浜鳥居」と呼ばれ、治承4年(1180年)の建立以来、数次(数回)の再建を繰り返す。
鳥居柱痕の年代は伴出遺物などによって戦国期と推察され、天文22年(1553年)北条氏康により造立された大鳥居のものである可能性が高い。
快元僧都記の記述によれば、天文4年(1535年)に安養院(鎌倉)の僧侶・玉運が瑞夢から浜の鳥居再建を発願し、上総国の峯上で得に用材を海路運搬して準備を進めたと云う。
本遺構は現在の鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)の北方約180メートルに位置し、特異な構造であるとともに、旧浜鳥居の位置が推定できる点においても重要である。

鳥居(鶴岡八幡宮境内)に向かって右側の柱痕の印
鳥居(鶴岡八幡宮境内)に向かって左側の柱痕の印※点字ブロックの下

この柱の太さや柱間から推定される鳥居の高さは約16m、つまり、現在の一ノ鳥居のなんと約1.9倍!ということです。

なお、安養院の僧侶・玉運により1535年(天文四年)に再興された大鳥居と、1553年(天文二十二年)に北条氏康が造立した大鳥居との関連性については不明。

しかしながら、上掲、浜の大鳥居の説明を読み解くと、十八年後に再び氏康が大鳥居を奉納したとみれる。

昔の浜ノ大鳥居の大きさ・構造・材質など

戦国期の浜ノ鳥居の遺構を調査した結果によると、芯材、中間材8個、外周材17個が見つかっており、これは契り技法(ちぎりぎほう/複数の木材を繋ぎ合せる技法)を用いた集成材(しゅうせいざい)に近い使われ方で建てられたこと明らかにされた。

これはつまり、浜風を考慮したのか簡単に倒壊しないようにキャナリ(訳:かなり)強度をもたせた頑強な造りの鳥居だったと言わざるを得ない。うきゃ

その強度について言及するならば、地中約160センチメートル地点にて南北方向に梁材を通し、材質としては柱本体にはヒノキ、結合材にはケヤキ材が用いられたとのこと。

現在、この柱根(遺構)が発見された場所には鳥居が建っていたことを示す円形の礎石(御影石)やタイルが敷かれ、傍には詳細が記された石碑が建てられてい‥‥‥申す。…….。……?

平成時代に浜の鳥居跡の発掘調査が行われた!

平成2年2月に発掘調査を実施して明らかにされた事実。

  • 大きさ:柱の直径1.6m(地中深度は不明)
  • 高さ:推定16m
  • 鳥居の造り・素材:木造寄木造
構造

芯材、中周材(8個)、外周材(17個)からなる寄木造の鳥居柱痕。

各材は契り(ちぎり)技法により結合される。

また地表下1.6メートルで南北方向に梁材を通す。

材質(本体部)

ヒノキ材(結合材)、ケヤキ材

旧浜ノ大鳥居の場所(地図)

  • 場所:一ノ鳥居から二ノ鳥居方向へ約180m

明治五年に戦国期の浜ノ鳥居の柱材が発見された❗️

明治五年、地元民が由比ヶ浜から、以下のような文字らしきものが書かれた、とある一枚の板(古木片)を発見した。

この板は直径89.5センチ、幅33.5センチ、厚さ8センチのやや反りがあり、片面の表面には「六石山房」の陰刻があり、その裏面には朱書にてその由緒(由来)が9行の漢文で記されていた。

この古木片は鎌倉八幡祠の華表(かひょう/中国の標柱。つまり鳥居を指す)の柱根なり。治承四年源右大将(頼朝卿)、由井浜(由比ヶ浜)に建てる所にして、地中に埋没すること、まさに七百年。今この明治五年、地ピーが掘り起こし、好古家(こうこか)趣味を有した陸奥宗光氏(神奈川県令)の手に入るところとなり、同氏の邸宅(鎌倉邸)にて所蔵せられたもの。
しクぁし!陸奥伯の鎌倉邸の倉庫が大正の大震災によって倒壊に到り、その折、中から発見され、かく言う金沢文庫へ寄託されたのだった。

なお、「六石山房(ろくせき さんぼう)」とは陸奥宗光の雅号(がごう)とされる。同氏は現在、寿福寺にて永眠す。パキャっ

一ノ鳥居の柱上部に見える文字(刻銘)

向かって右側の柱上部(江戸時代の石材部分)には、「寛文八年戊申八月十五日 御再興 鶴岡八幡宮石雙華表」の刻銘が見られる部分があり、古い部材を用いて再建されたことがわかります。

なお、徳川家綱が鶴岡八幡宮に3基の鳥居を寄進したのには、祖母である崇源院(すげんいん:お江)の意向がありました。

詳しくは、当サイト鎌倉・鶴岡八幡宮「三ノ鳥居」 でご紹介しています。

石雙華表とは

「雙(そう)」とは「1対の」という意味なので、「石雙(せきそう)」は「石造りで2本1対の(鳥居の柱)」という意味です。
華表(かひょう)をは、もともとは中国の伝統的な宮殿、陵墓などに建てられる2本の石柱(標柱)のことで、ここでは鳥居という意味です。

つまり、石雙華表とは、「石造鳥居」ということになります。

幻の段葛

鶴岡八幡宮の二ノ鳥居から三ノ鳥居までは、地面から一段上がった段葛(だんかずら)と呼ばれる歩道が整備されていますが、この段葛は、以前は一ノ鳥居(旧一ノ鳥居)から始まっていました。

しかし1878年(明治11年)に二ノ鳥居から南側が官有地(国有地)となって段葛がなくなり、さらに1889年(明治22年)には一ノ鳥居と二ノ鳥居の間に国鉄横須賀線が通って、参道の風景はがらりと変わりました。

それでも、今でも一ノ鳥居からは、1㎞以上離れている鶴岡八幡宮の社殿を望むことができます。

一ノ鳥居下から望む鶴岡八幡宮境内




一ノ鳥居(浜の大鳥居)の建築様式(造り)や特徴とは❓

鳥居の形

鶴岡八幡宮の3基の鳥居は、いずれも典型的な明神鳥居(みょうじんとりい)です。

壮重典雅な江戸時代の意匠を醸しています。

明神鳥居は、鳥居の様式としてはもっとも一般的なものの1つで、笠木(一番上の横木)の「反増(そりまし)」と呼ばれる湾曲が特徴的です。

鶴岡八幡宮の一ノ鳥居を始め明神鳥居には、他にも主に以下のような特徴があります。

明神鳥居の特徴

  • 反増がある
  • 額束(がくづか)がある
  • 抜きが柱を貫通して外に出ている
  • くさびがある
  • 転びがある(柱の上部がやや内側に傾いている)

日本三大石鳥居

鶴岡八幡宮の一ノ鳥居は、京都・八坂神社の石鳥居、栃木県日光市の日光東照宮の石鳥居と共に、「日本三大石鳥」の1つに数えらえています。

八坂神社石鳥居【重要文化財】

  • 造営年:1646年(正保3年)
  • 鳥居の様式:明神鳥居
  • 高さ:9.5m

日光東照宮石鳥居【重要文化財】

  • 造営年:1618年(元和4年)
  • 鳥居の様式:明神鳥居
  • 高さ:9.2m




鶴岡八幡宮境内からでも一ノ鳥居が見えるって本当!?

カメラの望遠レンズなどを使わないと厳しいですが、鶴岡八幡宮の本宮前の石段からは、手前に三ノ鳥居、二ノ鳥居、そして、遠くに一ノ鳥居が見えます。

石段上から由比ガ浜方向を望み、かつて源頼朝が妻・北条政子の安産を祈願して整備したと言われる若宮大路・段葛の歴史に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

※混雑時は石段・楼門前で立ち止まらないように案内がある場合があります※

上掲写真はあくまでも現在の浜ノ鳥居(一ノ鳥居)なので、鎌倉時代の当時であれば現在のJR高架と若宮大路が直交するあたり建っていた状況(現在地よりも180m手前)を加味すれば、もう少し見やすかったのかもしれなぅぃ。

一ノ鳥居左下設置の石碑の内容

⬆️左下の石碑に注〜目💕

鶴岡八幡宮國寶大鳥居重修の記

 

此の大鳥居は一之鳥居ともいひ治承四年十二月源頼朝の創建にかゝり(かかり)壽永元年 夫人 政子築
造の段葛と共に若宮大路の偉観(堂々とした佇まい)たり爾来(以来)武門武将により再建修理を行ふこと数次(数回)寛文八年
徳川家綱 祖母 崇源院の大願を承け備前犬島産 花崗岩を以て此の鳥居を始め第二第三の鳥居
を再興せり就中(なかんずく/とりわけ)この大鳥居は夙に(早くに)我が國石鳥居の範と(手本と)仰がれ明治丗七年八月國寶(国宝)に指定せ
らる然るに大正十二年関東大震災の際柱下部を残して悉く顛落(転落)大破せり即ち文部省に請い
復舊(復旧)の速ならむことを計りしが昭和九年文部省技師 阪谷良之進同嘱託大岡實に依り稍く(いかほどか)重修(修築)
の設計成り同十一年三月国庫補助並に東京上田ちた近田三郎両名の(献資/寄付)を以て工を起し同
年八月其の(その)功を竣えたり(作業を終える)本工事は神奈川縣知事半井清監督の下に施工し専ら(もっぱら)古法を尊び舊
材(旧材)の再用を旨とし補足材は之を犬島に求め東西柱上部笠木 及 貫 中部同東部西 沓石(くついし/柱の下に敷く石コロ) 北側の七
個を加へたる外 苟も(いやしくも)舊觀(旧観)の美を損せさらしむるに力めたり

昭和十一年九月一日 國幣中社 鶴岡八幡宮宮司 中島正國




えっ⁉️一ノ鳥居が現在の三ノ鳥居だった❓

どうやら「新編鎌倉誌」や、ごく少数の古絵地図を見ると、現在の一ノ鳥居を赤橋前の鳥居(八幡宮境内入口の鳥居)とし、三ノ鳥居を現在の浜の鳥居と位置付けている模様。

つまり、鳥居をカウントする順番が現在とは真逆になっていることになる。

分かりやすく言うと、八幡宮側から→由比ヶ浜側へ向かってカウントを開始していることになる。

通常、鳥居は参拝者目線でカウントされることが多く、境内入口に立つ鳥居を「一ノ鳥居」とし、そこから2,3,4,….と本殿へ向けて進行していく毎にカウントしていく。

つまり、本殿に近い鳥居は境内入口の鳥居よりも数字が大きいことになる。

鶴岡八幡宮「一ノ鳥居」の場所

鶴岡八幡宮一ノ鳥居は、三ノ鳥居から海側へ約1.3㎞、徒歩約17分の所にあります。

さらに数百メートル進むと、由比ガ浜の砂浜に出ます。

鶴岡八幡宮の観光スポット一覧


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