鶴岡八幡宮の読み方
つるがおかはちまんぐう
鶴岡八幡宮の別名
鎌倉八幡宮
「鎌倉八幡宮」とも呼ばれる。これは”鎌倉にある八幡宮”という意味とみられる。
江ノ電バスのバス停にも「鎌倉八幡宮前」があるのだが、江ノ電バスにこのことをお聞きしたところ、どうやら観光客に分かりやすくするために便宜上、表記を「鶴岡から→鎌倉」へ変えているとのこと。
だとすれば観光客には「鶴岡八幡宮」よりも「鎌倉八幡宮」の方が通じやすいのか❓
⬆️ションベンを振りきったと思って実はパンツに湿りを感じた違和感ほど噂の‥‥「鎌倉八幡宮バス停」
鶴岡八幡宮寺
実は明治以前の鶴岡八幡宮は鎌倉最大かつ最上位の寺院だった。つまり、寺社の神仏を混交する形で奉斎した「神宮寺」だったことになる。
明治になると政府によって神仏が分離されることになり、「寺」が除されて現在の「鶴岡八幡宮」へと改称された。
なお、鶴岡八幡宮寺とは以下、摂末社の総称となる。
八幡さん
地元鎌倉では単に「八幡宮」や「八幡さん」など言えば鶴岡八幡宮のことを指す。
八幡宮とは八幡大神(やはたのおおかみ/八幡神)を奉斎するお宮(神社)のこと。
- 応神天皇(誉田別命)
- 神功皇后
- 比売大神
八幡信仰は神功皇后とその皇子、応神天皇を祭神として奉祀する。
鶴岡八幡宮の名前の由来
「鶴岡」という名前は由比ヶ浜の元八幡から、小林郷に移ってから呼ばれ始めたとされる。
命名された理由は「鶴のいる岡(丘)」が由来のもとになったと云われるが依然、判然としない。
「鶴岡」の書き方
「鶴岳」とも書く。
鶴岡八幡宮の創建までの変遷「建てた人物や建てた理由とは❓」
現在の鶴岡八幡宮の発祥・起源は源頼朝卿の祖先となる源頼義が、勅許も得ずに独断で京都・石清水八幡から鎌倉の由比ヶ浜近くに建てた社へ神霊を遷し、これを八幡宮として奉祀したことに始まる。
星霜経て、伊豆にて挙兵後、鎌倉へ入部した頼朝卿は由比ヶ浜の前を通った折、これを遥拝した。
しかしながら、頼義が建てた頃より100年以上も経過していたので荒廃し、その荒んだ姿を嘆いた頼朝卿は、後に元八幡に奉祀される神霊を現在地(鶴岡八幡宮)へ遷したとされる。
これにより由比ヶ浜の社は「元八幡」と呼ばれるようになり、現在地に新造された社は鶴岡八幡宮と呼ばれるようになる。
1180年(治承四年)8月17日
伊豆で挙兵した源頼朝卿は石橋山(相模)で敗北を喫し、命からがら房総半島へと逃れ、千葉常胤や上総介広常などの豪族を調略し、配下とすると再び進軍を開始する。
頼朝卿は、そのまま京師へ攻め上がる胸中を配下の諸将へ打ち明けたが、北の伏龍である奥州・藤原氏により背後を突かれることを懸念した家臣団はこれを反対した。
10月6日
頼朝卿は不満を残しつつも、とりあえず上洛を忘れ、先祖代々由縁のある鎌倉へ入部することを決意する。
10月7日
頼朝卿は鎌倉へ入部した際、当時、由比郷(由比ヶ浜近く)に建っていた鶴岡八幡宮(元八幡)を遥拝した。
この元八幡は頼朝卿の祖先にあたる源頼義が京都・石清水八幡より勧請した神社とされるが、頼朝卿が遥拝した当時は荒廃していたと云われる。
つまり、この社こそが現在の鶴岡八幡宮の発祥となる社。
11日
頼朝卿の伊豆の流人時代よりの恩師である、伊豆山権現の住僧・専光房 良暹(せんこうぼう りょうせん)が鎌倉へ参着す。
12日の寅の刻(午前四時)
祖宗(そそう/先代以前の君主)を奉斎するため、小林郷の北山の麓、現在のこの若宮が建つ場所あたりに宮廟(宮殿)を営み、鶴岡宮を遷座(移築)した。(とりあえず神霊を由比から現在地に移した)
続けて良暹を別当、大庭景能を鶴岡八幡宮寺の奉行に補任す。
頼朝卿はこの祖宗と八幡大菩薩を合祀した宮廟(宮殿)を「鶴岡八幡新宮(いまみや)若宮」と呼んだ。
頼朝卿が小林郷の北の地を選んだ理由は、一説に四神相応の地とされたからだと云われる。
ちなみにこの時、同時並行で頼朝卿は、大蔵郷に鎌倉幕府が置かれた「大蔵御所(大蔵幕府)」の造営も開始する。
若宮には初代が存在したことをお忘れなく❗️
先述したように、若宮は簡易的に短期間で造営された初代の若宮と、翌年に再度、造り直しされた(新造)若宮とがある。
現在の丘上に建つ本宮(本殿)は、造り直しされた若宮を丘上に移築したもの。
小林郷は墓地だった⁉️
1982年(昭和57年)9月、鎌倉国宝館収蔵庫建設の際、事前発掘調査が実施され、地中から平安時代末期頃の男女各1体の土葬者が発見された。
現在までの研究では、墓は埋没して見えなかったとする説がある一方、頼朝卿は墓地であるのを知った上で若宮遷宮を行なったとする説もある。
1181年(養和元年)元旦の卯の刻(午前6時)
頼朝卿は若宮へ参詣すると、以降、毎年元旦に若宮に初詣することを決定した。(一説に東国における初詣の起源と云われる)
しかしながら、鎌倉幕府側の公式的な歴史書である吾妻鏡には1184年(寿永三年)、1186年(文治二年)、1191年(建久二年)、1195年(建久六年)に頼朝卿の元旦参拝の記録はない。
なお、この頃の若宮は松の柱や茅噴きで建てられた極めて質素な社殿だったと伝わる。そこで‥‥
5月13日
本格的な若宮造営工事が着工する。頼朝卿は、まず、土肥実平、大庭景親の両名を造営奉行に補任し、その日、用材の確保(切り出し)が命じた。
6月27日早朝
柱13本、虹梁2支ほどの用材が由比ヶ浜に到着する。
奉行の1人が土肥実平だったから、その所領の土肥郷(湯河原町)あたりの木々を伐採し、筏(いかだ)を組んでそれに乗せ、相模川上流から海路主体でドンブラコ〜♪ドンブラコ〜♪‥‥と運ばれてきたらしい。
しかしながら、当初の鎌倉には宮大工がいなかった。
頼朝卿が入部した頃の鎌倉はド田舎だったらしく、宮大工などいようハズもなぅぃ。
そこで‥‥
7月3日
武蔵国は浅草寺所属下の宮大工である「郷司(字/あざな)」を引き抜いて鎌倉の宮大工とした。
7月8日
「郷司」が参着し、若宮の本格的な造営工事が着工される運びとなった。
御神体の遷宮の儀
大庭御厨(おおばのみくりや/現在の藤沢市)から、神庤(かんだち/神館)から一古(巫女さん💕)が呼ばれ、御神体を仮殿へ遷した。
頼朝卿ももちろんの臨席したが、これらの段取り(手配)はすべて大庭景義が行った。
なお、大庭御厨の神庤とは、現在の鳥森神社(藤沢市鵠沼神明二丁目)に比定される。
7月20日
社頭、東方の仮屋に頼朝が臨席の上、若宮の宝殿上棟の儀式(屋根の中心となる横材を上げる儀式。上棟式は一応の完成とする儀式)が執行される。御家人衆はその南北に列座したとある。
頼朝卿は若宮上棟に際し、奥駮(おくぶち)と呼ばれた名馬を若宮へ奉納した。(名馬を奉納した理由は若宮のページを参照💘)
なお、大工に褒美として与える馬の口輪役をシブった義経は、頼朝卿より𠮟咤されたと記される。
7月21日
若宮造営奉行に梶原景時が加わった。
8月15日
若宮が完工する。待ちかねたかのように頼朝卿も臨席の上、御神体が仮殿から再び新造された若宮へ遷される「遷宮の儀」が執行されたのだった。
なお、7月8日起工して、8月15日に完成ということは僅か38日で完成させたことになる。
実はこの日、平経正率いる平家軍が北陸街道を進軍中との知らせが鎌倉へもたらされたことから、儀式は大幅に短縮された可能性が指摘される。
そぅいった危機的状況を察知して造営工事を急がせたのだろぅか。
10月6日
頼朝卿は、伊豆山権現の住僧・大法師「禅叡(ぜんえい)」に請いて、若宮の供僧兼、大般若経衆に補任す。(ただし、鶴岡八幡宮供僧次第では1213年に補任したことになっている)
なお、鶴岡八幡宮供僧次第によると、大法師の玄信(後の荘厳房律師・行勇)も招聘し、若宮の長日最勝講の供僧に補任してい‥‥‥申す。パっ(ネタ 弾切れ)
鶴岡八幡宮に祀られている神様は誰❓
本宮(本殿/上宮)
御祭神:応神天皇、比売神(ひめ)、神功皇后(じんぐうこうごう)
鶴岡若宮(下宮)
御祭神:仁徳天皇、履中天皇(りちゅう)、仲媛命(なかひめ)、磐之媛命(いわのひめ)
八幡宮は源氏歴代の祖霊を奉斎する社でもある
鶴岡八幡宮は京都の石清水八幡宮から八幡神を勧請して創祀されたことから八幡神を奉祀する。
しクぁし!
その本意は八幡宮を中心に据えた鎌倉の街並みを俯瞰しても分かるように、源氏歴代の祖霊を奉斎した社であることにも注目しなければならない。
八幡宮を中心に若宮大路(段葛)が由比ヶ浜まで直線状に延び、その左右に御家人衆の館が軒を連ねる。
その様相はまるで代々の源氏の当主が八幡宮という上段の間に君臨し、その左右に絶対の主君を支える家臣団(御家人衆)が居並ぶ様にもみえる。
鎌倉時代
年月日 | できごと |
1063年(康平6年)8月 | 源頼義が石清水八幡宮を鎌倉由比ガ浜に勧請す。ここに社殿を創建す。 |
1081年(永保元年)2月 | 源義家が由比若宮の社殿を修理する。 |
1180年(治承4年)10月12日 | 源頼朝が鎌倉入り、由比若宮を小林郷北山(現在の若宮あたり)に移す。(若宮の創建) |
1181年(養和元年)5月 | 頼朝卿、鶴岡若宮の造営を新たに始める。 |
1182年(養和二年)3月 | 頼朝卿が嫁・政子の安産祈願のため、社頭より由比ノ浦に至るまでの参道(若宮大路・段葛)を造成することを命じる。 |
4月 | 頼朝卿、社頭の水田三町余を苑地(源平池)に替えることを命じる。 |
9月 | 初代別当の円暁が鎌倉に下向。頼朝卿から八幡宮寺別当職に任ぜられる。 |
1184年(治承8年)2月 | 平家追討の祈祷を鶴岡若宮にて執り行う。 |
年月日 | できごと |
1186年(文治2年)3月4日 | 若宮焼失(参考文献:鎌倉年代記裏書) |
4月 | 頼朝卿と政子夫人が参詣す。静御前の舞を観覧。 |
8月 | 頼朝卿が参詣中の西行法師と出会い、和歌と弓馬の故実を尋ねる。 |
1187年(文治3年)8月 | 初めて放生会を執り行う。流鏑馬を開催す。 |
1189年(文治5年)3月 | 鶴岡法会を開始す。頼朝卿が亡母の供養のため、五重塔を発願。建設が開始される。 |
6月 | 頼朝卿、奥州征伐の祈祷を命じる。 |
11月23日 | 大倉観音堂焼失。 |
1191年(建久2年)3月4日 | 小町大路周辺、江間殿(北条義時)屋敷など、鶴岡社(八幡宮)、御所が焼失。 |
3月 | 小町大路より出火。若宮、五重塔、廻廊、経所などが焼失す。 |
11月21日 | 前回(由比若宮の時)と同じく、石清水八幡(京都)から神霊を勧請し、大臣山(現在の石階段上の場所)に鶴岡八幡宮を創建する。(現在の本宮の創建) |
同時に、若宮、末社などの遷宮も執り行う。この時より、現在にまで及ぶ石階段上に建つ上宮(本宮)と、石階段下に建つ、下宮(若宮)の体制が成立する。
|
年月日 | できごと |
1192年(建久3年)正月元旦(1日) | 初めて修正会が執り行われる。元旦から3日ないし7日間、国家の繁栄を祈念する法会のこと。 |
1月8日 | 修正結願が八幡宮で執行される。費用は頼朝卿の自腹。奉行は梶原景時と大庭景能が務めた。 |
2月12日 | 鶴岡御神楽に頼朝卿が臨席す。 |
2月13日 | 別当・円暁が円城寺(三井寺)三院入堂のため上洛す。頼朝卿は円暁へ餞別を送り、京師までの護衛と世話役の下級役人を随従させた。 |
2月15日 | 鶴岡臨時祭が催される。 |
3月3日 | 鶴岡法会(舞楽奉奏)に頼朝卿が臨席す。 |
3月4日 | 大江久家が神楽の秘曲などを相伝するために上洛す。頼朝卿、8月の放生会前には一旦、久家を鎌倉へ戻すよう京都側へ打診す。 |
3月13日 | 後白河院が崩御す。 |
3月19日 | 後白河院の初七日の法会を鎌倉でも実施す。義慶房阿闍梨が導師役を務める。 |
3月26日 | 二十七日(ふたなぬか)には、導師を供僧の安楽房重慶が務める。 |
4月2日 | 政子、着帯の儀を執行す。加持に安楽某重慶、験者には大学房行慈(のち法華堂の別当)。 |
4月4日 | 導師に恵眼房(勝長寿院 別当) |
4月5日 | 頼朝卿、鶴岡を含めた相模中の寺に千手経3000巻を4月中に転読するよぅ命じる。 |
4月28日 | 後白河院の五十七日の仏事、導師には恵眼房。 |
4月30日 | 若宮職掌紀藤太夫宅が焼失。 |
6月18日 | 別当・円暁が円城寺(三井寺)より鎌倉へ帰参す。 |
7月26日 | 勅使が下向す。鶴岡八幡宮西廊にて頼朝卿に征夷大将軍の辞令を申し伝え候。 |
8月9日 | 政子の産気加持を円暁が務める。鶴岡ほか相模中の社寺に神馬を奉納し安産祈願す。 巳の刻、実朝の誕生。 |
8月14日 | 放生会を執行す。相撲が催される。 |
8月15日 | 放生会。舞楽の奉奏。(放生会を2日連続するのは異例) |
8月16日 | 流鏑馬を催す。 |
9月4日 | 鶴岡上宮・西の壇所にて供僧らの奉仕にて長日聖観音供養法と法華講讃を初めて実施。 |
11月22日 | 鶴岡宮にて永福寺 御堂供養の無事を祈って神楽を奏じる。 |
1200年(正治2年)12月 | 尊暁が別当(二代目)に補任される。 |
1206年(元久3年/建永元年)5月 | 定暁が別当(三代目)に補任される。 |
1208年(承元2年)閏4月2日 | 神宮寺造営のための用材を伊豆国 狩野山の奥から沼津の海まで運搬す。 |
4月25日 | 神宮寺が創建される。三善善信が惣奉行に補任。地曳の式を執り行う。 |
5月17日 | 実朝が今後、病気の際は鶴岡にて平癒の祈願(法華経供養)が執行されることに決まる。 |
7月5日 | 神宮寺が上棟す。義時、時房、大江広元らが臨席す。大工たちに禄が与えられた。 |
8月15日 | 実朝、放生会欠席す。 |
1213年(建暦3年)12月1日 | 御所近辺、武州(北条時房)など焼失。 |
12月12日 | 神宮寺が竣功す。正午、本尊として薬師如来像(像高53.5㎝)を奉安す。(実朝の病平癒祈願か?) |
1210年(承元四年)正月1日 | 頼朝が定めた元旦の参拝が復活す。 |
1214年(建保2年)正月3日 | 昼頃に実朝が鶴岡参拝す。 この日、由比ガ浜近隣にて火災発生。人屋数棟が焼失。 実朝これを受け、ふたたび午後4時頃に奉幣参拝す。 |
正月22日 | 実朝が束帯の正装で鶴岡参拝す。 |
5月28日 | 鶴岡にて祈雨祈祷を執行す。6月1日に雷鳴あるも降雨なし。 |
6月3日 | 栄西に祈雨のため法華経の転読を命じる。6月5日にようやく雨降る。 |
1215年(建保3年)正月一日 | 実朝、鶴岡社へ参拝す。7日にも参拝す。 |
正月11日 | 若宮辻あたり出火。人家ほか20余が焼失。 |
3月13日 | 頼朝卿の忌日にて法華経で法要を厳修す。この頃、鶴岡が神社という認識が広まる。(鶴岡の供僧はこの法要に参加していない) |
8月18日 | 大雨暴風により前浜の鳥居(一ノ鳥居/浜の鳥居)が倒壊す。 |
年月日 | できごと |
1216年(建保4年)正月13日 | 実朝が鶴岡参拝す。その後、夫人も参拝した。 |
1216年(建保4年)8月 | 定暁が境内に北斗堂などの脇堂を建立す。 |
1217年(建保5年)6月 | 公暁(源頼家の子)が別当(四代目)に補任される。 |
1219年(建保7年/承久元年4月12日)正月 | 右大臣拝賀のため参詣した実朝を別当・公暁(甥)が殺害す。 |
正月15日 | 御所近辺にて出火。40棟が焼失。 |
2月14日 | 将軍政所にて出火。罹災。 |
9月22日 | 西若宮大路通りから出火。数棟、焼失。 |
1221年(承久3年)5月 | 承久の変が勃発す。大仁王会が執り行われる。 この頃、北条泰時によって鶴岡社境内はじめ、鎌倉の街づくりの整備が進む。 |
1225年(元仁2年/嘉禄元年)正月 | 最勝八講をはじめて執り行う。以後、恒例となる。 |
1227年(嘉禄3年)12月13日 | 政所前周辺から出火。数棟、焼失。 |
年月日 | できごと |
1229年(寛喜元年)9月30日 | 若宮大路通り下馬橋北側で出火。数棟焼失。 |
1232年(寛喜4年/貞永元年)4月 | 頼経が鶴岡上下宮に5日間参拝す。 |
1241年(仁治2年)4月 | 大地震に伴う津波により、由比浦大鳥居内の拝殿が流失す。 |
1247年(寛元5年/宝治元年)6月 | 三浦の乱により、別当定親(八代目)が縁座で止められる。隆弁が別当(9代目)に補任される。 |
1251年(建長3年)5月27日 | 由比ガ浜の人家から出火。御所南隣人家まで延焼。 |
11月 | 八幡大菩薩御影像を別当坊に祀る。 |
1253年(建長5年)12月8日 | 若宮大路通り下馬橋周辺に出火。前浜(由比ガ浜海岸一帯)の民家まで延焼およぶ。悉く灰塵に帰す。 |
1257年(康元2年/正嘉元年)閏3月 | 執権時頼の発願にて以後、毎年、大仁王会が執り行われる。 |
11月22日 | 若宮大路藤次郎左衛門入道家失火あり。周辺一帯に類焼を及ぼす。 |
年月日 | できごと |
1261年(弘長元年)2月12日 | 政所庁屋焼失。 |
1261年(弘長元年)9月20日 | 若宮大路から出火。 |
1263年(弘長3年)12月10日 | 若宮大路通り一帯が焼失する大火あり。 |
1266年(文永3年)9月 | 中原光氏が裸形弁財天像を鶴岡舞楽院に安置す。 |
1271年(文永8年)10月12日 | 鶴岡八幡宮別当坊にて出火。焼亡す。 |
1276年(建治2年)正月20日 | 御所(相州・北条時宗)にて出火あり。 |
12月15日 | 御所(北条宗政館)にて出火あり。 |
1280年(弘安3年)11月14日 | 鶴岡八幡宮上下、火元は大学厨子。翌年暮れに再建成る。(参考文献:鎌倉年代記裏書) |
11月 | 火災発生す。上宮・末社・楼門など多くの建造物が焼失す。 |
年月日 | できごと |
1281年(弘安4年)11月 | 前年焼失した神殿が復興される。御正体の遷宮が執り行われる。 |
1285年(弘安8年)3月 | 北条貞時の発願により、長日座不冷本地供養法が始まる。 |
1296年(永仁4年)2月 | 火災により、上下宮・廻廊・北斗堂・神宮寺などを焼失す。 |
2月3日 | 鶴岡八幡宮上下、焼失。(参考文献:鎌倉年代記裏書) |
12月 | 社殿が再建される。遷宮が執り行われる。 |
1313年(正和2年)5月8日 | 幕府が鶴岡八幡宮境内および付近における禁止項目七か条を当時の別当・道珍に課した。(禁止令) |
1315年(正和4年)7月9日 | 八幡宮、政所、建長寺などが火事により罹災。 |
1316年(正和5年)11月 | 再建した社殿が完成す。遷宮を執り行う。 |
1330年(元徳二年) | ふたたび禁止令が出される。 |
1333年(元弘3年/正慶2年)5月 | 鎌倉幕府が滅亡す。別当有助(第一七代)は東勝寺にて自害す。新田義貞が若宮拝殿し、首実検を行う。神殿の重宝を披見す。 |
9月 | 覚助が検校職(第18代別当)に補任される。 |
室町時代(戦国時代)
年月日 | できごと |
1335年(建武2年)8月 | 足利尊氏が佐々目郷の領家職を寄進す。座不冷を再開す。 |
1336年(建武3年)6月 | 覚助が罷免される。頼仲が別当(第19代)に補任される。 |
1362年(貞治元年) | ふたたびタビたび禁止令が出される。 |
1386年(元中3年/至徳3年)11月 | 足利氏満が鶴岡社内に6か条の禁止令を発出す。 |
1409年(応永16年)6月29日 | 御所が火事により罹災。 |
1414年(応永21年)4月 | 院宣を受けて別当の御影堂を勅願寺とす。八正寺と号す。 |
1415年(応永22年)正月 | 供僧の坊号を改め、院号とす。 |
1432年(永享四年) | ふたたびタビたびたびっ!‥禁止令が発出される。 |
1434年(永享6年)3月 | 足利持氏(4代目鎌倉公方)が血書願文(血で書いた願文)を奉納す。大勝金剛尊を造立す。 |
1455年(享徳4年/康正元年)2月 | 足利成氏が今川憲忠に攻められ古河へ去る。供僧4人が同行す。 |
1479年(文明11年)1月27日 | 江戸城西方の鎮守神として太田道灌が鶴岡八幡を江戸番町に勧請す。 |
年月日 | できごと |
1526年11月12日 | 里見 義堯(さとみ よしたか)が乱入し、北条氏綱の軍と合戦になる。諸堂が炎上す。 |
1540年11月 | 氏綱が上下宮ほか諸堂を再建す。正殿遷宮を行う。 |
1548年天文17年12月14日 | 街より出火。妙本寺罹災。 |
安土桃山時代
年月日 | できごと |
1590年(天正十八年)4月 | 太閤秀吉、鎌倉各社に保護の禁制を与える。 |
7月13日 | 太閤秀吉が小田原征伐にて後北条氏を滅ぼす。 |
7月17日 | 太閤秀吉、凱旋の途上、鎌倉へ立ち寄って遊行(観光)に興ずる。 その巡歴の途、八幡宮へも参詣し、朝卿の像を見て「同じ天下を取った者同士」と像の前で語らう。 その後、鶴岡の社殿再建のために仮葺き(屋根の葺き替え)を命じたとある。 |
4月23日 | 太閤秀吉、鎌倉見物の意向を島津氏に伝えたとある。 |
8月22日 | 秀吉の朱印状によると、鶴岡社、建長寺、円覚寺、東慶寺の知行(寺領)を安堵したとある。また、土地改めを行って加増(寄進)し、鶴岡社にかぎっては入落後、再興を約束したとある。 |
1591年(天正十九年)5月 | 秀吉の命により、「修営目録見絵図(鶴岡八幡宮の境内図)」が作成される。 この後、鶴岡社の大修理が行われる。この修営目録は織豊時代の鶴岡社境内を知る史料として貴重とされる。 秀吉、鶴岡社に840貫450文を安堵す。(鎌倉の寺社では最大) |
1592年(文禄二十年)4月 | 徳川家康公により下宮の修営・遷宮が成る。 |
1593年(天正二十年) | この年、徳川家康公が往時の鶴岡二十五坊の安楽院など、新たに五院家を再興させ、十二院とす。 |
江戸時代
年月日 | できごと |
1604年(慶長九年)8月 | 上宮の再興成る。 |
1622年(元和元年) | 二代将軍・秀忠が父・家康公の意志を引き継いで鶴岡社の修営を再度、命じる。 |
1624年(寛永元年)11月15日 | 上下両宮の正遷宮が執行される。大工・藤原長次(遠江守)。 |
1626年(寛永3年) | 当年、徳川秀忠が命じていた造営工事が完了す。これにより諸堂末社神輿に到るまでの造替が完了す。 |
(寛永五年)7月4日 | 藤原長次が八脚門、上宮、下宮の額字彫様を再確認す。 |
8月1日 | 幕府、「鶴岡社中法度十一ヶ条」を制定す。 |
1628年(寛永五年) | ふたたびタビたびタビっ!‥禁止令が出される。カっ! |
1667年(寛文7年) | 若宮玉垣内にある椰木(ナギの木)を伐採するか否かの評議があり、神の意向を窺うための神事が執り行われる。 |
寛文年間 | 寛文年間の鶴岡社修営は足掛け4年のまさに江戸期における大修理だった。(他は4〜7ヶ月) 大鳥居、ニノ鳥居、一ノ鳥居を備前犬島の花崗岩により石造明神型鳥居に改造した。総工費8000両(うち石鳥居3基1980両) |
1703年(元禄16年)11月 | 大地震により、黒門、石垣、灯篭などが転倒す。 |
1732年(享保十七年) | 享保十七年境内絵図が作図される。 |
1812年(文化九年) | 火災発生す。社殿群への延焼については記載なし。 |
1821年(文政4年)正月 | 置石町からの大火災発生により、上宮、楼門、廻廊などが焼亡す。 |
1828年(文政11年) | 江戸幕府11代将軍、徳川家斉の命により前述、火災で焼亡した本殿など社殿群が再造される。 |
江戸期における八幡宮の修営記録
- 1668年(寛文八年)
- 1697年(元禄十年)
- 1736年(元文元年)
- 1753年(宝暦三年)
- 1781年(天明元年)
寛永造替後、鶴岡社は幕府の直轄に置かれ、修営に関しては譜代大名ならびに老中が奉行を務めた。
大工に関しては元禄の修理を除いては幕府の作事方が担当するなど、鶴岡社はもはや江戸幕府の御願寺ともいえる有り様だった。
明治時代
年月日 | できごと |
1868年(慶応3年12月7日)3月 | 太政官により、神仏混淆が禁止される。これにより廃仏毀釈の動乱の時代に突入す。 |
4月24日 | 仏教的神号の八幡大菩薩が明治政府により廃止される。 |
7月19日 | 石清水八幡宮以下、鶴岡八幡宮などの放生会は中秋祭に変更される。 |
1870年(明治2年)5月 | 仏教関係の諸堂を取り除き、官寺としての鶴岡八幡宮が廃絶す。これにより供僧はすべて神職になる。 |
187年(明治3年)5月14日 | 社格制度が制定される |
大正時代
年月日 | できごと |
1917年(大正6年)1月 | 段葛の八幡宮境内編入が許可される。 |
1923年(大正12年)9月1日 | 関東大震災で、多くの建造物が崩壊・消失す。 |
昭和時代
年月日 | できごと |
1928年(昭和3年)4月3日 | 鎌倉国宝館が開館す。 |
1951年(昭和26年)11月17日 | 平家池のほとりに神奈川県立近代美術館が開館す。 |
1979年(昭和54年)5月から12月まで | 建設予定地(社務所or直会殿)の発掘調査を実施す。 |
1980年(昭和55年)2月から6月 | 武徳研修道場建設予定地の試掘調査を実施す。 |
1980年(昭和55年)初秋 | 鶴岡八幡宮の創建八百年記念事業の一環として社務所が増改築される。 直会殿(なおらいでん/柳原神池池畔)が新造される。 |
1980年(昭和55年)8月〜 1982年(昭和57年)9月まで | 武徳研修道場建設予定地の本調査が実施される。 |
1982年(昭和57年)6月〜10月まで | 鎌倉国宝館の収蔵庫建設予定地の発掘調査が実施され、土塁や掘立柱の穴、竪穴状の遺構や、遺物が発見された。 |
平成時代
年月日 | できごと |
2010年(平成22年)3月10日 | 4時40分頃に、強風のために大銀杏は根元から倒壊す。 |
鶴岡八幡宮・仁王会の歴史(年表)
大仁王会とは❓
「仁王会(だいにんのうえ/におうえ)」とは100人の僧を参集させ、鎮護国家を祈念する大法会のこと。
承久の乱(じょうきゅうのらん/朝廷と鎌倉幕府の戦争)以前は朝廷における天皇の即位儀礼の1つとして一代一度のみ執行された重要な大法会だった。
ところが、承久の乱によって朝廷が幕府に敗れると朝廷権威は地に落ち、武士が全国統治する時代が幕を開ける。
吾妻鏡によると、幕府軍が入落を果たし、後鳥羽(天皇)に処罰を下した翌日(1221年(承久3年)5月26日)が武家初の仁王会とされる。
1257年(康元2年/正嘉元年)閏3月になると、執権・時頼の発願にて以降、ほぼ毎年、鎌倉幕府の恒例行事に位置付けられた。(この頃にはなると朝廷で催されていた国家に関わる重要行事は鎌倉で催されるようになっていた)
鎌倉幕府の大仁王会は一代一度の大仁王会のほか、2月or3月と、7月or8月の吉日にも春秋二季の臨時仁王会が催され、鶴岡八幡宮寺がその会場となっていた。
以下の表は鶴岡八幡宮(寺)で催された大仁王会の回数をまとめたもの。
年月日 | できごと | 儀式執行者 | 執行理由 |
1221年(承久3年)5月26日 | 大仁王会が初めて鎌倉で執行される。導師には安楽房 法橋 重慶、読師民部卿 律師 隆修、此会関東において初めてと云ぅ。 請僧百口(100人)、鶴岡八幡宮、勝長寿院、永福寺、大慈寺供僧など | ||
1222年(貞応元年)8月29日 | 大仁王会 | ー | どうやら彗星が出現して混乱が生じたらしい |
1224(元仁元年)3月5日 | 大仁王会 | ー | |
1226年(嘉禄二年)2月5日 | 大仁王会 | ー | 天変のため、ご祈祷 |
1231年(寛喜三年)2月23日 | 大仁王会 | ー | |
1232年(貞永元年)閏9月26日 | 大仁王会 | ー | |
1233年(天福元年) | 大仁王会 | ー | 月日不明だが、怪鳥出現のため急遽ご祈祷 |
1235年(嘉禎元年)12月27日 | 大仁王会 | ー | 将軍の病気平癒のため |
1240年(仁治元年)1月17日 | 大仁王会 | ー | 彗星出現により急遽、伊豆・箱根にてご祈祷 |
読師(どくし)とは?
読師とは、古代日本において国分寺に講師とともに一人置かれた僧官のこと。
年月日 | できごと | 儀式執行者 | 執行理由・儀式執行者 |
1252年(建長四年)9月25日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 読師:大臣法印 | 宗尊親王の御願による |
1256年(康元元年)3月9日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 | |
1259年(正元元年)4月30日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 読師:審範 | |
1260年(弘長元年)3月18日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 読師:審範 | |
1261年(弘長元年)2月20日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 読師:審範 | |
1263年(弘長三年)3月17日 | 大仁王会 | ||
1264年(文永元年)2月28日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 読師:観伊法印 | |
10月23日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 読師:良忠 | |
1269年(文永6年)6月8日 | 大仁王会 | ー |
講師とは❓
講師(こうじ)とは、法会の時などに高座に上がって経文を講義する役の僧侶のこと。
奈良時代は次の3つの法会が重要視された。
- 宮中の御斎会
- 興福寺の維摩会
- 薬師寺の最勝会
これらは南京三会(なんきょうさんえ)とも呼ばれ、3つの法会の講師を務めた僧は「三会已講師(さんえいこうじ)」略して「三会已講」や「已講」などと呼ばれた。
僧侶の世界にも立身出世の概念があり、僧綱(そうごう)へ昇格するためには、まずは講師を務めて多くの支持を集めることが必須だった。
僧綱とは僧尼(僧侶・尼僧)を統率し諸寺を管理する官職のこと。
💋僧綱の僧官💕
大僧正(だいそうじょう/最高位)→僧正(そうじょう)→権僧正(ごんの そうじょう)→大僧都(だいそうづ)→権大僧都(ごんの だいそうづ)→少僧都(しょうそうづ)→権少僧都(ごんの しょうそうづ)→大律師(だいりっし)→律師(りっし)→権律師(ごんの りっし)
- 詳細は僧綱(Wikipediaを参照)
年月日 | できごと | 儀式執行者 | 執行理由・儀式執行者 |
1270年(文永七年)6月22日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 読師:清尊 | |
1271年(文永八年)7月6日 | 大仁王会 | 講師:浄禅 読師:良忠 | (講師役の浄禅は上洛の途にあった隆弁の代理) |
1273年(文永十年)2月26日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 読師:清尊 | |
1276年(建治二年)7月26日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 | |
1277年(建治三年)5月25日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 読師:房源 | |
12月12日 | 大仁王会 | 講師:良忠 読師:清尊 | (講師役の良忠は上洛の途にあった隆弁の代理) |
1278年(弘安元年)4月20日 | 大仁王会 | 講師:長弁 読師:良忠 | (講師役の良弁は上洛の途にあった隆弁の代理) |
1281年(弘安四年)5月2日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 読師:房源 | |
1282年(弘安五年)11月20日 | 大仁王会 | 講師:隆弁 読師:房源 |
年月日 | できごと | 儀式執行者 | 執行理由・儀式執行者 |
1283年(弘安六年)6月15日 | 大仁王会 | 講師:円勇 読師:教範 | (講師役の円勇は上洛の途にあった隆弁の代理) |
1284年(弘安七年) | 大仁王会 | ー | |
1285年(弘安八年)12月8日 | 大仁王会 | ー | |
1286年(弘安九年) | 大仁王会 | ー | |
1287年(弘安十年)2月22日 | 大仁王会 | ー | |
1288年(正応元年)5月20日 | 大仁王会 | 講師:頼助 読師:能厳 | |
1289年(正応二年)2月16日 | 大仁王会 | 講師:頼助 読師:祐親 | |
1290年(正応三年) | 大仁王会 | ー | |
1291年(正応四年) | 大仁王会 | ー |
年月日 | できごと | 儀式執行者 | 執行理由・儀式執行者 |
1292年(正応五年) | 大仁王会 | ー | |
1293年(永仁元年)5月28日 | 大仁王会 | 講師:政助 読師:能厳 | |
1294年(永仁二年) | 大仁王会 | ー | |
1295年(永仁三年) | 大仁王会 | ー | |
1296年(永仁四年) | 大仁王会 | ー | |
1297年(永仁五年)10月21日 | 大仁王会 | 講師:政助 読師:聖瑜 | |
1303年(嘉元元年)閏4月16日 | 大仁王会 | 講師:聖瑜 読師:元瑜 | (講師役の聖瑜は病気の政助の代理) |
1305年(嘉元三年)2月16日 | 大仁王会 | 講師:道瑜 読師:定仙 | |
1306年(徳治元年)3月11日 | 大仁王会 | 講師:道瑜 読師:道珍 |
年月日 | できごと | 儀式執行者 | 執行理由・儀式執行者 |
1307年(徳治二年)3月9日 | 大仁王会 | 講師:道瑜 読師:房海 | |
8月12日 | 大仁王会 | 講師:道瑜 読師:道珍 | |
1309年(延慶二年)6月19日 | 大仁王会 | 講師:道珍 読師:定仙 | |
1311年(応長元年)3月13日 | 大仁王会 | 講師:道珍 呪願:房海 | |
1312年(正和元年)5月7日 | 大仁王会 | 講師:道珍 読師:房海 | |
1320年(元応二年)2月23日 | 大仁王会 | 講師:経助 読師:豪親 | (社務の信忠の代理) |
1321年(元亨元年)2月29日 | 大仁王会 | 講師:経助 読師:豪親 | (社務の信忠の代理) |
1322年(元亨二年)6月19日 | 大仁王会 | 講師:経助 読師:豪親 | (社務の信忠の代理) |
1323年(元亨三年)2月28日 | 大仁王会 | 講師:顕弁 読師:覚伊 | |
1324年(正中元年)2月27日 | 大仁王会 | 講師:顕弁 呪願:時弁 | 呪願(じゅがん)とは法会の際、施主の願意を述べ、幸福などを祈る事、またはその願意を記した文章。 |
1325年(正中二年)4月28日 | 大仁王会 | 講師:顕弁 呪願:時弁 |
なお、鎌倉幕府が滅んで京都に再び政権が移ってからは京都で執行されるようになってい‥‥‥申す。タっ(ほんまネタ枯渇 help me〜)
若宮大路(段葛)の歴史
鶴岡八幡宮の参道である若宮大路ならびに段葛の歴史については下記ページにて別途、詳しく述べています。