【御朱印はなし?】鶴岡八幡宮・新宮(今宮/いまみや)の歴史と境内の様子【境外末社】

鶴岡八幡宮・新宮(今宮/いまみや)【境外末社】

 

創建年:1247年(宝治元年)4月

再建(現社殿新造):令和3年(2020年)

祭神:後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇(いずれも承久の乱で配流された皇族)

例祭日:毎年6月7日

「新宮(今宮)」の読み方

少し風変わりな表記とはなるが、新宮と書いて「いまみや」と読む。「今宮」とも書く。

新宮(今宮)の歴史(当社が創祀された理由と経緯)

1239年(延応元年)2月20日、後鳥羽上皇が配流先の隠岐の島(海土町の源福寺)にて崩御(死没)する。

「配流先の隠岐の島」とは、承久の乱(1221年/承久三年)で敗北した官軍(朝廷軍)を率いた後鳥羽上皇に対し、幕府が下した処罰のこと。

幕府はこの時、他の首謀者として後鳥羽の第1皇子である土御門と第3皇子の順徳天皇の名前も挙げ、土御門は土佐へ、順徳は佐渡(佐渡島)へ配流となった。

なお、土御門天皇は乱には直接関与していなかったが、父親不在の京師に自らの居場所を見出せず、自らの意思で土佐へ赴いた。その後、阿波へ移り当地にて死没したと伝わる。

※注釈※

当代の流罪には罪の度合いによって概ね3種類の刑罰があった。

  1. 「近流(こんる)」
  2. 「中流(ちゅうる)」
  3. 「遠流(おんる)」

土佐や隠岐、佐渡は重度の罪とされたことから遠流にあたる。

後鳥羽の玉体は当地(隠岐の島)にて荼毘(火葬)に付され、遺骨は遺詔(ゆいしょう/生前に死後のことについて指示した詔)によって京都郊外に位置する大原の西林院に移され、1241年(仁治二年)2月8日に大原の法華堂に安置された。

この後、後鳥羽上皇には諡号(死後のおくり名)として「顕徳院(けんとくいん)」が贈られたが、鎌倉中の方々で騒動が発生したり、時に天変地異が起こりと、これは上皇の怨念の仕業によるものとして幕府は1242年(仁治三年)7月8日、顕徳院から後鳥羽院へと戻す形で改称した。

そして、1247年(宝治元年)4月25日、鶴岡八幡宮の乾(いぬい/北西)の山嶺に社殿を築き、重尊の僧都(そうず/僧正に次ぐ地位者。僧尼を統率)を別当に補任したと伝わる。

星霜経てこの社は新宮神社と呼ばれることになる。




祭神の変遷(合祀)

家系、鎌倉町青年団の石版の内容によると、当初は後鳥羽天皇、長賢、順徳天皇の三方が祀られていたとのこと。

長賢とは、後鳥羽天皇の護持僧にて、後鳥羽の出産時に祈祷を担当した園城寺(三井寺)の寺僧。

それが星霜経て、明治初期頃に後鳥羽天皇の第一皇子である土御門天皇が加わったとするのであれば、厳密には後鳥羽天皇、長賢、順徳天皇、土御門天皇となる。

話は少し逸れるが、承久記によると長賢は陸奥(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県が該当)へ配流されたとある。

新宮神社の社殿は令和3年に再建(新造)された!

現在の新宮神社の社殿を見ると常若の威容がヒシヒシと伝わってくるが、これは令和3年に新造される形で再建された御社殿となる。

境内の様子

毎度お馴染み「鎌倉町青年団の石版(石碑)」

境内地に立つ石碑の碑文の内容

四条天皇延応(えんおう)元年(1239年)鎌倉中處(処)々喧譁(嘩)闘争(けんか とうそう)ノ事
アリ 特二 其ノ五月廿二五日ニハ大騒動ヲ起セ
シト云フ 茲日(この日) 後鳥羽院ハ隠岐ニ崩御(死去)シ給フ
由(よ)リテ(これにより)斯(しばらく)は其ノ怨念ノ然ラシメシ㪽(所)ナラン(怨霊が出てもおかしくはない)
トテ 寶(宝)治元年(1247年)四月  大臣山ノ西麓ニ今宮ヲ建
て其院ノ尊霊ヲ勧請シ(招いて)奉リ(ナンマイダ〜) 順徳院及ビ護寺
僧長賢(後鳥羽天皇出産時の祈祷を担当した天台宗園城寺の寺僧)ヲ合祀セラル 長賢ハ承久ノ役 官軍ニ
属シテ奮戦後 捕ハレテ陸奥ニ謫(たく/島流し刑)セラレシ者
ト云フ 今宮ハ又新宮ト書ス

昭和四年 十二月 鎌倉町青年団

名もなき井戸

井戸筒上の縁に入子菱(いりこびし)、その下部にもメガネを連続して描いたような陰刻が見える。

風変わりな井戸だが、見方によっては室町期〜安土桃山様式を彷彿させる。

石蓋が乗せられて封印されているように見えるが、内部の水を汲み上げる装置が取り付けられているため、現役で使用されている様子がうかがえる。きゃきゃきゃ

消化器

万が一の有事の際に消火できるよぅ、設置された消化器が見える。これで安心しんしん雪積もる。 なんやそれ

社殿の外観

正面

正面2本の柱は面取りした角柱を用い、社殿の身舎部分には丸柱、社殿周囲に瑞垣を巡らせるなど荘厳さを醸す。

一間社流造の様式を用い、屋根上に千木は載せず、鳥衾(とりぶすま)を据える。

社殿前から入口鳥居を見た様子

石灯籠

陰刻

灯籠には次のような刻銘が見える。

「寶暦三年(1753年) 癸酉(みずのととり) 秋月」

「松平左兵衛督 家中」

左兵衛督(さひょうえ の かみ)とは左兵衛府の長官。 官位としては従五位上に相当する官職。鎌倉では切れ痔ケツの割れ目‥ではなく、喜連川家(きつれがわけ)!!が世襲した官職でもある。 すさまじぃ間違え方や

年代的に播磨(明石)藩主の松平直純(まつだいら なおずみ)か?

風蝕のため見づらいが参考程度に。オホっ

新宮神社に天狗が居た?

現在の新宮神社背後には鬱蒼とした木々が繁茂するが、往時はこの杜(森)に根1つから6本に分かれた大杉が生え、天狗が棲みついていたと伝わる。

新宮神社の御朱印

新宮神社は鶴岡八幡宮の末社であるため、鶴岡八幡宮の御朱印になる。(新宮神社としての御朱印は今のところ無い模様。)




鶴岡八幡宮・新宮(今宮)の場所(地図)

鶴岡八幡宮境外の飛び地に位置する神社。

八幡宮境内の北側に位置する御谷休憩所とその手前に広がる北駐車場、その向こうには鶴岡文庫が位置する。

その鶴岡文庫の手前の道を通過した左奥、ちょうど本宮の後方、往時の二十五坊の東隣になる。

入る筋(道)を間違えずに!

初めて新宮を訪れるのであれば入る筋を間違える可能性が大いにある。

実はワぁタクシぃメ、当地へ初めて来た時、ウッカリかりかりカリフラワーのコンモリ具合ほどに現在の巨福呂坂の脇道の方(神奈川県立近代美術館 鎌倉別館の前に延びる脇道)へ入って直進してしまったのだった。 どゆ意味や

上掲写真の道を直進しても民家が数軒あって最後は行き止まりになっているので要注意!(新宮神社へ到る道は東隣り)

入りかけたら、取りあえず引き返してその先に見える八幡宮の駐車場を目指す。

旧鶴岡八幡宮寺・二十五坊跡

この新宮社付近には史跡指定の旧鶴岡八幡宮寺・二十五坊跡もある。詳細は下記ページを要チェックやでぃ!by.彦一

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