鶴岡八幡宮「源氏池(源平池)」
完成年
- 1182年(養和2年/鎌倉時代)
大きさ(広さ)
- 源氏池:8000㎡
※現在の源平池の広さ(池全体)は約1万1920平方メートル、これは当時(鎌倉初期)の放生池の3分の1弱の面積となる。(往時の源平池は放生池と呼ばれていた)
源平池とは?源氏池とは?
鶴岡八幡宮の三ノ鳥居をくぐってすぐの太鼓橋の左右両側には池が造られています。
太鼓橋の下で繋がっているので、厳密には1つの池ですが、境内に向かって右が源氏池、左が平家池、あわせて源平池と呼ばれています。
鶴岡八幡宮「源平池」の歴史
源頼朝が造池したとされる説
鎌倉時代前期の歴史書『吾妻鏡』によると、1182年(養和二年)4月20日、源頼朝卿は自らが伊豆流人時代に師事した伊豆山権現の大法師・専光房 良暹(せんこうぼう りょうせん/後に別当)や、当初は平家方の武将だったが、最終的に源氏側について源平合戦を戦った大庭景義(おおばかげよし)らに命じて池を掘らせたと伝わる。
源平池は「弦巻田(つるまきだ)」と呼ばれた三町余(約300m四方)の水田だった場所を池に造り替えたもので、当初の池は現在の池よりも3倍程度広く、現在の流鏑馬馬場があるところのすぐ南側まで広がっていたようです。
北条政子が造池したとされる説
源頼朝夫人の北条政子は平家滅亡を心底、祈念し、これを形とするため、八幡宮境内の東西に造池を発願します。
造池の作業にあたったのが配下の大庭景義です。
この造池工事において、東の池(現在の源氏池)は、「三は産に通じる」として3つの島を造ったと云われます。
一方、西側の池(現在の平家池)は、「四は死に通じる」として4つの島を配し、平家滅亡を祈願したと云われています。
源平池の真の役割とは??
当時、源平池は鶴岡八幡宮の放生池(ほうじょうち)の役割を果たしていました。
1182年(養和元年)4月20日、若宮前の絃巻田(つるまきた)と呼ばれる水田三町が耕作を中止されて池へと改められ、8月15日にコイ、フナ、ドジョウなどを放流したと記される。
絃巻田の地名は不詳とされるが、これはおそらく現在の若宮脇に広がる小池(柳原神池)の前身ではなく、たとえば「三町」とは面積を指し、現在で換算すると約3万5640平方メートル(距離で示すと約100m四方)となることから、広大な面積だったことになる。これすなわち、三の鳥居の前に広がる源氏池・平家池の前身と捉えることできる。
この池は後に「放生池」と呼ばれ、若宮の左右に広がっていたことから「ひょうたん池」と呼ばれたらっしぅぃが、確かに赤橋を通して上空から見るとヒョウタン形に見えないこともない。
なお、境内に向かって右が源氏池、左が平家池と呼ばれ、これらを合わせたものが源平池(現在)と呼ばれるが、これは江戸時代になってからのことだと云われる。
ちなみに「放生池」とは、捕まえた魚などを放す放生会という仏教の法会を行うための池です。
神社で寺の行事❓
と思ったあなた、鋭いっ❗️イヨっ❗️
実は、鶴岡八幡宮は創建当初、鶴岡八幡宮寺という、神社と寺が同居する神宮寺でした。
したがって、仏教の法会である放生会も行われたのです。
鶴岡八幡宮では現在でも、蛍放生祭や鈴虫放生祭が行われています。
源氏池と平家池の名前の由来
上述のように、一般的に源氏池には3つの島を築き、「三」を「産」にかけて源氏の新生と繁栄を祈ったと言われています。
1182年というと、源平合戦の真っ最中です。
源平池は、北条政子が夫である源頼朝の勝利を願って造らせたとも言われ、当初は4つずつだった島の数を、源氏池だけ3つにさせたのも、政子だとも伝えられています。
⬆️明治4年に作図された鶴岡社境内図(左:平家池4つ/右:源氏池3つ)
また、現在は2色の蓮が入り乱れていますが、池を造った当初は、源氏池には源氏の白旗にちなんで白い蓮、が植えられたといいます。(平家池の方には平氏の赤旗にちなんで赤い蓮)
ただ、源平池という名称が使われ始めたのは江戸時代になってからのようですから、これらの伝承も、江戸時代になって出来上がったもののようです。
別名:「ひょうたん池」
源氏池は隣の平家池と合わせ見た時、赤橋の部分が細くなっており、上空から見た時に池形が「ひょうたん」に似ている。このことから、別名で「ひょうたん池」とも呼ばれる。
源氏池の見どころ
毎度おなじみ❗️鎌倉青年団の「源平池碑文」
源平池を境内入口側から見て左脇に広がる源平池、通称・平家池の池畔には上掲写真の中に見えるような石碑が建つ。
この石碑には次のような内容が記される。
寿永元年(1182/紀元千八百四十二年)四月 源頼朝
ノ命ニヨリ 専光坊並ニ大庭平太景義等奉行シテ境内ニ池ヲ掘リシコト 東鑑(吾妻鏡)に見ユ一説ニ
夫人政子源家ノ興隆ヲ祈請シテ此ノ地ニ池ヲ営作セ
シメ東池ニ白蓮西池ニ紅蓮ヲ植エ源平ノ旗色ヲ表ハシタリト伝ヘラレ源平池ノ名アリ
昭和十二年三月 建 鎌倉町青年団
旗上弁天社
源氏池の中央の島には、1182年(寿永元年)の造池の際に北条政子が源氏の勝利と平家の滅亡を祈念して創建したとされる旗上弁財天社が鎮座しています。
一説には、源頼朝の出陣に際し、弁財天が守護神として夢枕に立った、あるいは源頼朝が挙兵する際にここで必勝祈願したという言い伝えも残されています。
以来、必勝祈願のご利益があるとして、長年にわたり信仰されています。
源氏池の夏❗️蓮の花
春や秋には水面下にあって見えないのだが、実はなんとぉぅ!この源氏池には数多の蓮花が植栽される。
例年6月下旬になれば蓮が咲き乱れ、見頃時期を迎えます。
‥‥フムフム。なるほど、確かにぅぃ!紅白2色の蓮が入り乱れて咲いておる。いや咲いてないなショボンどる。
6月以外に訪れると蓮が見えないので平凡なただの池に見えますが、夏になれば大変身している姿に圧倒されることでしょう。⬆️冬季(1月)に撮影した源氏池と白旗弁財天社の姿
牡丹園と桜
旗上弁財天社を正面に見て、源平池の北側の池畔一帯は、牡丹園になっています。
この牡丹園では牡丹もさることながら、桜が池畔沿いに植栽されていますので、春に満開の桜を見ることもできます。
桜の見頃は3月末〜4月初旬です。
牡丹園
牡丹園は開園時期が決まっているので要注意❗️確か‥‥春と冬季だったような‥‥。
藤(藤棚)
旗上弁財天社の手前や北側池畔の休憩所の手前の藤棚には有名な白藤が植栽されています。
源平池は、桜や蓮の名所になっていますが、旗上弁財天社の社殿前には、見事な白藤の藤棚もあります。
例年、4月中頃には見頃を迎えます。来訪するなら4月です。
紅葉
わずか目で数えられるほどですが、この源平池の池畔や旗上弁財天社のある島には紅葉が自生しています。これらのモミジが秋になれば紅葉を見せてくれます。
源平池に映るモミジの姿も君の横から見た鼻先のように実にセクシーで美しいものです。
鯉のエサやり体験
旗上弁財天社の授与所では「鯉のエサ(恋♡のエサ)」が販売されています。
鯉のエサが売られているということは、当然、鯉のエサやりができるということなのですが‥‥、ズバリ!その通り!なんと!この源平池では、幾千もの鯉が飼育されています。
⬆️水面近くに立つだけでまるで「私(鯉)に恋してぇん♡」と言わんばかりに鯉が寄り集まってくる
人気の餌やりばが旗上弁財天社の向かい側、幼稚園の前にある池に面して建てられている休憩所(源氏池休憩所)兼、軽食処です。(斎館の手前)
ウッドデッキの縁側とその下の池畔に広がる小石の洗い出し部分が人気です。
鯉の餌は源氏池休憩所でも買える!
鯉の餌はこの旗上弁財天社だけではなく、源氏池休憩所でも売られています。
値段は同じ100円。休憩所外部に設置された木箱に入れられています。木箱の左端にコインを入れる投入口がありますので、100円を入れて木箱の蓋をあけて取り出します。(無人式)買い忘れた場合は適宜、ご利用ください。
鶴岡八幡宮の鳩ポッポのエサやり体験もできる!
なんとぉぅ!鶴岡八幡宮の鳩ポッポは素手で触ることもできます。古来、鶴岡八幡宮では鳩ポッポが神聖視されており、境内にいる鳩ポッポも半ば、飼育されています。
鯉のエサを食べることから毎日、参拝客がエサやりをしているうちに餌付けされて今やスッカリかりカリと人馴れしています。
⬆️手のひらに鯉のエサを乗せると寄り集まってついばんでくる。警戒心がない。
鳩ポッポたちが特に多いのは、上述、洗い出し部分です。
鯉のエサやりに訪れた人が手持つ鯉のエサ目当てにたくさん寄り集まっていますので、鳩ポッポにも餌やりができます。(鯉のエサですが、鳩ポッポも食べます)
鶴岡八幡宮「源平池」の場所(地図)
段葛(だんかずら)から境内へ入り、右脇に広がる池が源平池になります。
鶴岡八幡宮の拝観情報や回り方の詳細は、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
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