承久の乱とは?
承久の乱(じょうきゅうのらん)とは1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権・北条義時に対し、討伐の院宣(いんぜん)ならびに宣旨(せんじ)を発給し、自らも討伐のために挙兵した変事のこと。
別名「承久の変」
上皇(じょうこう/引退した天皇)、もしくは「治天の君(ちてんのきみ)」たる後鳥羽上皇が、鎌倉幕府の粛清を目的に軍兵を起こした(挙兵)ことから、「乱」ではなく「承久の変」とも呼ばれる。(第二次世界大戦中に「変」とする風潮が生じたらしいが、現在では「乱」の方で常用される)
承久の乱(承久の変)が起こった原因
北条義時と後鳥羽院の性格やが合わなかったから
ざっくりと一言で言ってしまえば、北条義時と後鳥羽院の性格が合わなかったから。‥‥ということになるのだろぅか。
考えてみれば2人は面識がなく、承久の乱の経緯や乱前後の経緯を見ていると北条政子に対しても気薄な気配が感じられる。
義時は軍兵を弟の北条時房に与えて脅し半分で後鳥羽のいる京都へ差し向けたりするシーンがあったが、後鳥羽に対しては強気かつ、強弁な姿勢を貫いた。
後鳥羽院も自らをベジータ級にエリート中から選ばれた超スーパーエリートと自負し、後白河ゆずりの気の強い性格も重なったこともあってソリが合わなかったのだろぅとみる。
程よく親幕派の土御門通親(源通親)が急死!
1203年(建仁三年)10月21日、後鳥羽側近の土御門通親(源通親)が54歳で急死すると、後鳥羽院に諫言(かんげん/提言)できる者がいなくなり、後鳥羽院の果てなき暴走が鼓動しはじめる。
彼はまず、通親恩顧の朝臣を院内および朝廷から一掃し、自らの人選にて中央の人事を刷新する。
そして、彼の目指した理想郷の1つ、皇(君)が統治する、ありし日の尊王国家復興プロジェクトを始動させると、後鳥羽院政という名の触手を鎌倉へも延ばし始めた。
土御門通親とは?「土御門通親の台頭」
建久3年(1192年)3月13日、頼朝卿が「大天狗」と蔑称した後白河院が死没すると、わずか11,2歳の後鳥羽天皇を擁し、朝廷を主導したのが、親幕派とされる関白・九条兼実だった。
同11月になると、兼実は弟の慈円(じえん)を天台座主に補任して延暦寺の一切を任せ、ほか、興福寺や東大寺などの再建に援助するなど寺社勢力との関係強化を図った。
建久6年(1195年)8月13日、兼実は待望の皇子誕生を期待した赤子が皇女だったが、不運にも同年12月に、もう1人の朝廷内の権力者たる土御門通親の養女・在子に皇子(後の土御門天皇)が誕生すると、朝臣のほとんどは兼実を見かぎって通親派へと流れた。
翌年、その兼実を失脚させ、新たに朝廷権力の中心にのさばったのが、土御門通親その人だった。(建久七年の政変)
建久9年(1198年)正月、通親は権力を振りかざして後鳥羽天皇を譲位させ、わずか3歳の土御門天皇の践祚を強引に強行し、後鳥羽院政を始動させた。(本院とも呼ばれる)
土御門通親の治世と鎌倉幕府
通親は決して親幕派とはいえないような食えない人物だったが、それでも鎌倉幕府の有力御家人(政所別当)かつ、公家でもあった大江広元と通じ、広元の嫡男・大江親広(おおえの ちかひろ)を自らの猶子(ゆうし/親広にとっては養父)とするなど、親幕の姿勢を垣間見せた。
建久2年(1191年)4月1日には先例が無いにも関わらず、またしても権力を振りかざして広元を明法博士・左衛門大尉に任命するなど、頼朝卿以来の幕府との関係回復を図った。
以後も後鳥羽院政の中枢に居座りながら、権力を惜しみなく振りかざし、彼の隠然たる権勢は院内のみならず、朝廷権力をも牛耳った。
そんな中、1203年(建仁三年)10月21日、後鳥羽のもとに通親急死の訃報(知らせ)が舞い込む。
葬儀に出向むいた後鳥羽院は、涙袋を熱くしながらお得意の和歌を手向けるパフォーマンスを披露したが、内心はまったくこれとは異なり、むしろ、これまで自らを押さえつけていた重し(=邪魔者)が消え失せたことで、さぞかしニヤリとほくそ笑んでいただことだろぅ。ホホホっ
なんにせよ、これより後鳥羽院の討幕活動と尊王国家復興のための果てなき暴走のゴングが打ち鳴らされることになる‥。
平賀朝雅の誅殺
後鳥羽上皇は(後の)鎌倉幕府初代執権の北条時政とは友好的な関係にあった。
これは時政が文治元年(1185年)11月24日に入京後、程なくして初代・京都守護となったことにより、院とは近しい間柄となり、時政が執権に就任して以降もその関係は継続した。
やがて時政の娘婿である平賀朝雅も京都守護として入京する運びとなり、その後、殿上人(てんじょうびと)として後鳥羽より昇殿を許されるようになると、スッカリかりかりカリカリ梅の酸っぱさの度合いほどに後鳥羽のお気に入りとなった。どんな度合いや(このネタ久しぶり)
ところが元久2年(1205年)、時政の朝雅将軍位擁立の陰謀が御家人衆に露見すると、実子の北条政子&義時は北条家を守るべく、2人は有無を問わずに時政から執権職を剥奪し、伊豆へと追放した。
この一件に端を発し、時政の後妻(牧氏)の嫡子たる平賀朝雅は京師において殺害されるに到った。(牧氏事件)
朝雅の訃報を知らされた後鳥羽院は嘆き悲しんだとされるが、この一件は彼の幕府に対する警戒心と討幕心を燃え上がらせる結果を生じさせ、後鳥羽は、それまでの北面武士に加え、西面武士をも創設したのだった。
朝雅将軍位擁立の陰謀は後鳥羽が黒幕?
‥‥‥などとという見方もできなくもない。
後鳥羽院が朝雅をそそのかして将軍位への野望を抱かせたともみれるが、‥‥‥だとすれば後鳥羽の討幕計画はすでにこの時、始まっていたことになる‥‥が、はてさて。
ところで‥‥北面or西面の武士とは?
北面or西面武士団とは、院(上皇)が自在に動かすことのできた集団(軍隊)のこと。
北面武士は後白河院が院直属の警護武士として創設した集団であり、西面武士とは意義は北面と同様、後鳥羽院が組織した。
このように上皇自らが武士団を組織すること自体、やはり討幕の意図が具現化したことを意味する。
上皇たちは、度々、院主催の相撲大会などを開催して勇敢な武士を幕府から出場させて、これを取り立てて北面武士としたり、北面武士が手狭になれば、西面の詰所に配置して西面武士とするなど、もはや朝廷における軍閥組織(ぐんばつ)とも成り得る機関だった。
実朝の死去
承久元年(1219年)1月、後鳥羽院自らが「実朝」の名付け親ともなった三代将軍・源実朝が、鶴岡八幡宮寺(鎌倉)にて暗殺される変事が起こった。(実朝暗殺事件)
実朝は生前、後鳥羽院を深く敬愛し、後鳥羽も実朝を良き弟のように寵愛し、大臣の位まで与えるなど、鎌倉と中央との間に友好的な関係が結ばれていたが、実朝の死によりその関係はもろくも崩れ去った。
この実朝が死没したことにより、後鳥羽自身の中での鎌倉懐柔計画が新たなステージへと遷移したのかもしれなぅぃ。
新将軍要求事件
実朝に代わる次代将軍として鎌倉幕府は後鳥羽の皇子である雅成親王(六条宮)もしくは、頼仁親王(冷泉宮)を次代将軍として迎え入れたいと打診した。
ところが、後鳥羽はこの要請を拒否するだけにに留まらず、加えて自らの愛妾(あいしょう/愛人💋)であり、白拍子の亀菊に与えた所領である摂津国(兵庫県)の長江荘ならびに、倉橋荘の地頭領を返還せよ(地頭職を罷免せよ)と要求した。
この地頭領は幕府が恩賞として御家人に与えた領地であり、院からの一方的な下命というだけで正当な理由もなく罷免(土地を奪う)などすれば、幕府の根本的理念である御恩と奉公の約定を破ることになる。
‥‥ということで、2代目執権の北条義時は断固としてこれを拒否した。
それだけに留まらず、これを幕府への挑戦と捉えた義時は、弟の北条時房に1000騎を与えて上洛させ、後鳥羽に対し、武力をチラつかせる形で再度、皇子下向を要求した。
だがしクぁし!
後鳥羽は何事もなく、平然とその再要求を跳ね除けたが、後鳥羽の皇子推戴(鎌倉下向)の話は自身の乳母でもある藤原兼子(かねこ)と北条政子とが約定を交わしていたこともあり、無下には扱えない側面もあった。
そこで後鳥羽は”兼”子だけに、”兼子”の面目を保つ意味も”兼”ねたのか、夢のトリプルアクセル 皇子以外の例えば摂関家の子種であれば次代将軍としても構わないと下命した。
そして、ここで親幕派の西園寺公経が登場する。
公経は摂関家との交渉の末、左大臣・九条道家の子(頼朝卿の遠戚)である、わずか2歳の三寅(みとら/のちの頼経)を新将軍として鎌倉に迎え入れることで話がまとまった。
一方の鎌倉では尼将軍・北条政子が三寅の後見人を務め、その補佐を執権・北条義時が担うこととなったが、この一件は鎌倉側と後鳥羽側との間に、さらに深い溝を生じさせる結果を生んだ。
藤原兼子という女官の正体
兼子は藤原南家出自の藤原範兼(のりかね)の娘っ子であり、後鳥羽の乳母として後鳥羽の性格などすべてを知り尽くし、後鳥羽の良き理解者でもあった。後鳥羽もそんな彼女を重用した。
また、上皇の妃である承明門院(しょうめいもんいん)在子(ありこ/後に土御門天皇を出産)、同じく順徳天皇(じゅんとくてんのう)を生んだ修明門院(すめいもんいん)重子(しげこ)の2人は、いずれも兼子の従姉妹もしくは姪(めい)にあたる。
兼子は齢40を過ぎて女官となるまでは、まったくの無名といっても良いほどの人物だったが、後鳥羽から重用を受けるあまり従二位の位まで昇り詰め、東西の政界において東の政子(北条政子)・西の兼子とまで呼ばれるまでになった。
やがて兼子は「卿二位(きょうにい)」とまで呼ばれるようになり、後鳥羽院政において出世を望む貴族どもは皆々、彼女の機嫌伺いに馳せ参じた。
実際、この頃の朝廷内の人事(任官、叙位など)の多くが彼女の内奏(ないそう/口添え)によって決定され、その権力は先代・後白河院が寵愛した丹後局(たんごのつぼね)をはるかに凌ぐものがあった。
このような実態を見た歌人・藤原定家は兼子を「狂女」と罵ったが、自らの出世欲には敵わず、ついに従三位(じゅさんみ)を望んで兼子にすり寄ったというエピソードもある。
源頼茂の自害
1219年(承久元年)7月、三寅が鎌倉へ下って程なくの頃、後鳥羽の院御所では尊長(そんちょう)などの法師が迎えられ、度々、怨敵調伏(おんてき ちょうぶく/幕府呪詛)の祈祷が繰り返し執行された。
しクぁし!
ある日、突如、朝廷警護役である大内守護(おおうち)の源頼茂が謀反の罪名をきせられ、後鳥羽が差し向けた軍兵に攻め殺される事件が勃発した。(頼茂は内裏の仁寿殿に籠った末に自害したとも)
頼茂が殺害された理由としては、警護役の職掌上、調伏祈祷を根拠とした上皇に討幕の意思があることに勘付き始め、その口封じのための所業であったとも云われる。
ただ、この一件は内裏の内部で起きており、悲運にも内裏の仁寿殿はじめ、宜陽殿、校書殿など、数多の施設が火難に見舞われた。
後鳥羽は朝廷権威の象徴ともなる内裏焼失を知り、一ヶ月もの間、寝込んだと云われるほどのショックを受けたらしいが、この後すぐに内裏再建計画を掲げ、幕府への資金援助を打診ならびに、全国へ内裏再建の徴税を課した。
この臨時徴税は数多の反発を招く結果を生み、特に幕府(義時)は「関わりなきこと」として資金難を理由にこの要求を突っぱねると、東国の御家人衆もそれに従って、この要求には耳を貸さなかった。
この再建計画は難航したようだが、後鳥羽の息のかかった西国を中心に何とか再建費用が集まり、いつ頃なのかは判然としないが、内裏再建は成ったらしい。
なお、この内裏再建は有史上、最後の朝廷主導による内裏造営となったとのこと。オホっ
1212年(承久三年)になると、後鳥羽が寺社へ命じて幕府要人の呪詛を祈祷させているという噂が民間にまで聞こえるほどに、鎌倉と後鳥羽と間の緊張は最大限にまで高まった。
‥‥いよいよ一触即発、何か一大ムーブメントが起こりそうな気配が強まった。
三種の神器「剣璽」が無い状態での元服が尚武に目覚め討幕を意識づけた
後鳥羽天皇が即位した頃、清盛が強引に擁立した安徳天皇が在位していたが、平家が壇ノ浦に沈む折、平 時子(安徳帝の母ジャ)は安徳帝と三種の神器の1つ剣璽を抱きかかえたまま入水自殺を図ったことから、剣璽は海底へ沈んだ。
そんな世情の中の建久元年(1190年)1月3日、後鳥羽天皇の元服の儀も剣璽を欠いたまま執行される運びとなった。
これは歴代天皇の中でも先例がなく、皇の「武威」を象徴する神剣が無い状態での儀式執行は生涯、後鳥羽のトラウマとなった。
このことに起因してか、後世、後鳥羽院は歴代天皇にはみられない、天皇にあるまじき武芸を好むようになる。
例えば、彼は作刀の技術を学んで自らの刀を打ち、狩猟や流鏑馬などの弓馬術に秀でた他、相撲や水泳にも才能を発揮し、在京の御家人衆たちも度肝を抜いたほどであったと伝わる。(後鳥羽の尚武思想に同調し、後鳥羽陣営へ参陣するキッカケともなった)
後鳥羽の大盗賊の交野八郎逮捕劇
後鳥羽の有名なエピソードとしては当時、都中を騒がしていた大盗賊の交野八郎(かたの はちろう)の捕縛劇がある。
彼は舟上から指揮を執ったばかりか、自らが舟の櫂(かい)を振りかざして八郎と交戦した後、捕縛せしめて周囲を驚かせたというもの。
以上のように後鳥羽院が実朝と親交をもって征夷大将軍の象徴ともいえるべき「武」を奪ったのも、自らがいれば征夷大将軍=幕府など皆無!‥‥などということをアピールしたかったともみれる。
このような武芸に精励した行動こそが、実は御家人衆を集めるための討幕のための前準備だったという見方もできる。
後鳥羽院が挙兵した目的(承久の乱後に実現したかったこと)
東国の荘園を我が物にする(=東国支配)
後鳥羽院は治天の君(平易に”上皇”のこと)として3代天皇・23年間も院御所に座し、京師周辺地域および西国一帯には膨大な荘園を領有し、それに見合うだけの莫大な得分(利益)もあった。
ただ、東国地域は御恩と奉公のシステムで成り立った鎌倉幕府によって、ほぼ完全統治されていたため、自身の勢力圏外だった。
後鳥羽院が欲したのは、その東国における膨大な荘園群とそこから生じる莫大な税収(得分)にあったとみる。
ここで少し荘園の話をすると、特に平安後期になると院政(上皇)による荘園整理が進み、上皇のもとには膨大な荘園が転がりこむようになった。
上皇は自らが信仰を寄せる寺社や愛人💋にそれら転がり込んだ荘園群を下賜し、これらは自身の権威を示すバロメーターともなったが‥‥、まぁその反面、荘園群からの税収に頼る国家財政は悪化し、人々は困窮した。
後鳥羽院政を掌握した土御門通親も、先代の後白河院が信仰の一環で六条殿に営んだ「長講堂」と、その所領である「長講堂領(ちょうこうどうりょう)」を引き継ぎ、当該領地の得分(税収)を担保とできたことで、後鳥羽院を抑え込んで発言をまかり通すだけの絶大な権力をふるうことができのだった。
また、頼朝卿挙兵のキッカケともなった以仁王(もちひとおう)の挙兵は鳥羽法皇と美福門院との娘っ子である八条院が領した「八条院領」が基盤に行われたと云われる。
無論、もはや語るまでもなく、これらの膨大な荘園群が後鳥羽の手元に転がり込んだことにより、彼は鳥羽や白河、宇治、水無瀬、その他・京師周辺に多くの離宮を営み、白拍子💋や愛人💕を引き連れての31回にもおよぶ ウハウハ うっフぅワぁ〜ン💕なゴージャスな熊野詣が実現できた。ゥわっハぁ〜ン💋 おこぼれカモぅぉ〜ン
「幕府」という存在(幕府機構)の排除
そもそも荘園を上皇に寄進する領主たちの目的とは、自身の土地を子々孫々、末代に及ぶまで守ってもらいたいという願望があったからに他ならぬぅぁいのだが、それをてっとり早く実現するための手段としては、上皇に荘園を寄進するよりも鎌倉幕府の御家人となって御恩と奉公の関係に縛られる方が、理想的かつ、確実な方法だった。
この現実は後鳥羽にとっては到底受け入れがたい次元の出来事であり、不愉快はなはだしぅぃ〜!さぞかし彼にとっては目の上のタンコブのような存在だったことだろぅ。ふぉっ、ふぉっ
後鳥羽院の計画の1つとして、自らの皇子を鎌倉へ下向させ、実朝をその後見役、源仲章をその側近とし、自らの院政を鎌倉に浸透させ、東国を改革していく構想があったとみる。
王権復古
後鳥羽院は往古の皇(きみ)が統治した尊王国家たる国土の姿を理想郷とし、これを現実のものとして復興させたかったとみる。
彼の掲げる討幕の本意というのも、東国ひいては日の本を在りし日の姿に戻したいという切望が根底にあったからこその所業だといわざるをえない。
後鳥羽は自身の多芸多才な恵まれた才能と、それを担保とした未知なる可能性に盲信し、その偉業を自身なら達成できるという幻惑に囚われた。
さらに、それを助長する後白河ゆずりのキツイS💋な性格も合わさり、これらの要因が彼を討幕へと向かわせた原動力ともなったのだろぅ。
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