【理由その1】
鎌倉大仏が作られた理由は確たる史料がないので誰も分からない
実は源頼朝卿は1195年(建久六年)に奈良の大仏殿落慶法要に参列していますが、鎌倉大仏が造立されたのが1243年(寛元元年)とすると、「奈良大仏のような巨大な大仏を鎌倉にも欲しい!」‥‥と考えたに違いない。
‥が!
鎌倉大仏が作られた理由はおろか、作った人(最初の発願者)も未詳とされる。(ちなみに1243年の執権は3代目の北条泰時)
【理由その2】
鶴岡八幡宮の八幡神が鎌倉大仏と習合した?!
ただ、鎌倉に幕府が置かれて、事実上、日本の中心となった鎌倉時代、当時は神仏習合が進み、仏が一切の衆生を救済するために「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」、いわゆる仏が神の姿になって衆生するというような説まで生まれています。
さらに鎌倉幕府が庇護し幕府の守護神と位置付けられた鶴岡八幡宮の御祭神「八幡神」の本地仏(ほんちぶつ)、いわゆる本地垂迹に則った姿は「阿弥陀如来」と考えられており、これに信仰心の大きさを表現したものが巨大な阿弥陀如来坐像、いわゆる鎌倉大仏とされています。
他にも幕府は日本全国に権力や威信を見せつけるために、あえて巨大な大仏を造立したとも考えられていますが、作られた理由や最初に作ろうと考えた人物(発願者)は依然として未詳とされる。
【理由その3】
鎌倉武士たちは極楽往生できる浄土教を熱心に信仰していた
鎌倉時代の武士たちを中心とした人々は、戦乱が続く様相を阿修羅が住まう「修羅界(しゅらかい)」に例えていました。
修羅界とは人間界のまだもう1つ下の世界で、休まることなく常に他人と戦っている世界です。
この様相はある意味、地獄もよりも最悪です。
当時の人々は現世の戦乱続きの在り様を修羅界に例えたのでしょう。
しかし当時の人々は、その修羅界から極楽浄土(西方浄土)へ連れ去ってくれるキーマンとして「十一面観音菩薩」を信仰していました。
浄土信仰(阿弥陀信仰)
- 人は死した後、まずは閻魔大王(十王)の前に連れて行かれて裁きを受ける。
- その後、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)で輪廻する。
- その六道から救済してくれのが十一面観音菩薩。
- 十一面観音に救済されたものは、さらに阿弥陀如来に導かれて「箱根山」の後方に広がる「阿弥陀如来の西方浄土」に往生できると考えた。
そこで鶴岡八幡宮の西側に位置する長谷寺に「十一面観音菩薩」を据え、さらに閻魔大王を祀る「十王堂」を建立します。
その十王堂と鶴岡八幡宮の間に鎌倉大仏を据えて、一種の西方浄土の様相を創造しました。
当時の人々は鎌倉の遥か西の霊峰・箱根山の後方に阿弥陀如来の極楽浄土が広がっていると考えていたようです。
これが今日にまで受け継がれた鎌倉の様相です。
なお、十王堂は現在は廃寺となって存在しておらず、現在は「十王堂橋」という名前の橋だけ現存しており、かつての十王堂が確かに存在した名残を今に伝えています。
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