承久の乱が起こった場所(各戦場の場所一覧)や概要(兵力差・勝利or敗因理由)を…..盗み聞きするつもり❓

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後鳥羽の討幕準備

北面・西面or寺社勢力への根回し

承久の乱は決戦こそ関ヶ原の如くに短期間で決したが、後鳥羽院は事前準備として反北条氏勢力を味方に引き入れるための工作を地道に行ったり、自陣営へ引き入れた武士たちを北面西面武士はじめ、朝廷の検非違使に取り立てたりした。

また、延暦寺や興福寺、賀茂社などの大規模寺社勢力への働きかけも忘れず、懐柔の触手を延ばすなど、実は挙兵するまでの準備はそれなりに行なっていた。

怨敵調伏の祈祷を執行

1219年(承久元年)7月に摂関家から三寅が鎌倉へ向けて下向した後、京都院御所では度々、怨敵調伏(幕府呪詛)の祈祷が執行された。

この事件は当時、院御所ならびに朝廷の警護役であった源頼茂が、謀反の罪名をきせられて殺害された事件だったが、これは幕府呪詛の漏洩を頼茂に悟られたと考えた後鳥羽方の策動の一端だと思われる。

また、この一件は挙兵準備の度合いをテストした行動だったともみれる。

この後、程なくして後鳥羽は義時追討の院宣&宣旨を発給していることから、まんざらでもないことになる。

北条義時&泰時父子の居館を燃やす

三寅が鎌倉入りを果たして程なくの承久元年頃より、鎌倉市中は度々、大火事に見舞われた。

その頻度は月に1回、ないし2回はドコかで火事が発生したと云われる。

最初の火事は承久元年9月22日15時頃、材木座海岸付近で発生した火事は北風に煽られ、やがて若宮大路にまで達して周辺に家屋を飲み込んだ。

この火事は規模が大きく、六浦道(むつらみち)と三浦道(みうらみち)にあった北条義時邸ならびに大倉御所だけが、わずかに燃え残ったとされる。

同年12月24日深夜0時頃に発生した火災は大倉御所を飲み込み、北条政子が焼け出され、義時邸へ移ったとある。

年明けた承久二年に到っても下表に示すように火事は頻発した。

火事発生日火事発生時刻火事発生場所(燃えた場所)
(承久元年)正月29日夜間窟堂近辺、橘隆邦館、工藤右衛門館….etc
2月16日14時大町大路以南、由比ヶ浜に及ぶ
2月26日22時大町大路以北、北条泰時館の隣地まで及ぶ
3月9日18時窟堂近辺の民家数十軒が焼失す。
9月25日18時大野右近館、工藤八郎館が焼失す。(義時館は無事)
10月11日22時小町大路南北二町、北条時村館など
12月2日4時地震後発生。永福寺の僧坊2,3が焼失す。(地震が原因とも)
12月4日20時二階堂行盛館、内藤盛家館などが焼失す

この当時の鎌倉では時間帯によって風向きがほぼ一定していたとされることから、北条義時&泰時邸宅を狙った放火疑惑が浮上する。

そして、年明けた承久三年(1221年)5月15日の午の刻(正午)、機は熟したとみた後鳥羽院は、ついに義時討伐の院宣&宣旨を発給するのだった。




反北条氏勢力の取り込み

考えてみれば、頼朝卿死後の鎌倉は権力闘争を主とした政変が相次ぎ、北条氏が執権政治を確立させるまでの間、多くの犠牲者が生じた。

代表的な例を示すと、頼朝卿より続いた源氏将軍はわずか三代で断絶したことが挙げられる。

その源氏将軍以後の新将軍は京都から下向してきた摂関家より迎えることになり、それまで鎌倉都創造に尽力してきた源氏一門の血縁者ならびに、源氏将軍と関わりのあった人々の功績は歴史の影へと追いやられ、顧みられる機会すら失った。

そんな冷遇を受けた彼らが再び日の目を見る機会があったとするならば、この承久の乱は大きなチャンスともなる。

実際に源氏一門の血縁者から後鳥羽方に参画した武士も多く、中でも二位法印・尊長(そんちょう)という人物ならびにその一門は後鳥羽に重用され、後鳥羽陣営の主翼格を担った。

尊長とは頼朝卿の妹婿であり、京都守護を任されるほどに信任厚かった一条能保(よしやす)の家人でもあり、尊長の兄弟はじめ、一門のほとんどが上皇に味方した。

承久の乱において後鳥羽方に見方した人物(武士)一覧

かつて一条家に仕えた下掲のような有力御家人たちも尊長に続いた。

後藤基清(もときよ)、小野成綱(なりつな)、五条有範(ありのり)‥‥‥etc

また頼朝卿の母方の里方となる熱田大宮司家や、源氏一門格の大内惟信(これのぶ)‥‥‥etc

そして後鳥羽を喜ばせたのは鎌倉御家人中、最大の有力者である三浦家より、義村の弟たる胤義(たねよし)の参画だった。

胤義は二代将軍頼家の子・千手丸の母を妻とし、その妻は頼家の子となる若君(禅暁)を生んだが、頼家は北条時政に殺される。

また、その禅暁も1220年(承久二年)4月14日、公暁の実朝暗殺に加担した罪で鎌倉(北条)が放った刺客に誅殺されたのだった。

北条のやり方に不満まんまん熱々肉まん一気‥‥てなほどに熱々とした不満があった三浦胤義は、藤原秀康を通じて上皇と結びついたばかりか、三浦一門の当主たる兄・義村を陣営に引き込む提案もしたほどだった。

大江広元の大江一族からは広元の子・親広(ちかひろ)、大江能範(よしのり)、関東御家人からは武蔵国の児玉家定(こだま いえさだ)‥‥‥etc

北条に一族が殺害された比企一族の同志から粕谷有久(かすや ありひさ)、和田義盛の子・朝盛(とももり)‥‥‥etc

その他、淡路、阿波、土佐の守護職を解任され、淡路のみ返還されたことに不満を感じた佐々木経高(つねたか)は大番役のために在京していた淡路武士たちを引き連れて参陣。

異例としては、子を院の西面武士にしたために所領を没収された仁科盛遠(にしな もりとお)などもいる。

他にも後鳥羽が領有した膨大な荘園と関わりのある在地武士も多く参画し、後鳥羽はこれらの武士たちを糾合し、さらに反北条諸豪族たちを取り込んで一大勢力を構築しようと画策した。

新幕派の公卿・西園寺公経の幽閉

西園寺公経は頼朝卿が父の如く厚遇した平頼盛の曾孫にあたり、尚且つ、源頼朝の姉妹・坊門姫ならびに、その夫の一条能保の間にできた全子を妻としていたことなどが重なり、かねてよりの親幕派であった。

承久元年(1219年)に3代将軍・実朝が暗殺されると次代将軍として後鳥羽の皇子を鎌倉へ下向させる動きが生じたが、この話は後鳥羽の一言で露と消え、そこで頼朝卿の遠戚にあたる三寅(九条頼経)に白羽の矢が立った。

その三寅の将軍擁立に骨を折った人物こそが、西園寺公経となる。

後鳥羽は1221年(承久三年)5月14日の挙兵に際し、この西園寺公経を捕縛して幽閉したが、公経はそれ以前に義時へ京都の動きを知らせており、これが承久の乱の勝敗を決定づけたとも云われる。(公経は承久の乱後、その功績が評価され、幕府より莫大な恩賞を受けることになる)

伊賀光季(いが みつすえ)の誅殺

承久三年5月14日、鳥羽離宮内の城南寺(せいなんじ)にて後鳥羽院は流鏑馬ぞろえを口実として兵を召集した。

前述の畿内・近国・在京の御家人衆はじめ、北面西面の武士や非御家人なども我先にと、ぞくぞくと参集し、その数ざっと1700余を数えたが、1人だけ姿を見せない人物がいた。

その人物こそが北条義時の後妻・伊賀方の兄弟となる関東御家人の伊賀光季となる。

光季は自らの職掌は院の警護のみあるとし、義時ならびに鎌倉への忠義を貫く姿勢を通した。

翌15日、後鳥羽は三浦胤義・大内惟信らに下命し、京極西の高辻にあった光季の館を襲撃して血祭りにあげ、これを鎌倉討滅の狼煙とした。

いよいよここに承久の乱が勃発する。

義時追討の宣旨と後鳥羽院の挙兵(鎌倉方への宣戦布告)

関東より後鳥羽陣営に参画した児玉党の児玉家定は「関東圏においての北条勢力は絶大。義時に従う者は万を下ることはござらぬ。」などと後鳥羽に苦言を呈したが、後鳥羽を含めた一同はあっさりとこれを無視したほど、すでに後鳥羽陣営は勝利を盲信していた。

後鳥羽は藤原秀康の従者である押松丸(おしまつまる)に、自らが官庁(朝廷/天皇)を代行して発給した官宣旨や、自らの院宣、そして三浦胤義には自らが記した義村宛の院宣を渡し、押松丸と胤義は都を出立した。

それからわずか4日経て鎌倉へ到着した胤義はただちに院宣を義村に手渡したグぁ、しクぁし!

驚くことに義村は、胤義を追い返して後鳥羽の院宣をそのまま義時に手渡したが、それだけに留まらず、押松丸が東国の御家人衆に後鳥羽の院宣ならびに宣旨が行き渡る前に捕縛することを義時に提案した。

実はこの時、義時はすでに京都の西園寺公経からの密使により、一連の事態は把握していたが、いずれにせよ義村の忠義とその行動には九死に一生を得たつもりで深ぃ感謝の意を表した。

なお、これについては兄・三浦義村(左衛門尉※従六位相当)よりも弟・三浦胤義(検非違使判官判官※四等官の第三位)の方が官職の位が高位だったこともあり、三浦家内での陰湿な諍いが表面化したものとする見解もある。

義時はただちに追っ手を差し向けて何とか押松丸を捕縛することに成功し、これにより東国の御家人衆に後鳥羽の院宣ならびに官宣旨が行き渡ることが無くなった。

捕縛された押松丸は以下の宛先の院宣を持っていた。

足利義氏(あしかが よしうじ)、武田信光(たけだ のぶみつ)、小笠原長清(おがさわら ながきよ)、宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)、八田知重(はった ともしげ)

‥‥以上、これが事実とするならば後鳥羽院はこれら諸将が大軍を率いて参陣してくる勇姿を今か今かと待ちわびていたことになる。うきゃ

押松丸は程なくして鎌倉を追放され、同年6月1日に帰洛、その後、関東の情勢と幕府軍西上を後鳥羽に報告した。

後鳥羽院は予想外の展開に驚愕しつつも、ただちに諸将へ下命し、東海道・東山道・北陸道の三道(後述)の防備を命じた。

尼将軍・政子の訓示(名演説)

後鳥羽院が発した院宣ならびに宣旨は「鎌倉幕府討滅」と謳った内容ではなく、その執権たる北条義時個人に向けられたものだった。

かの頼朝卿ですらも挙兵当時は朝敵になるのを恐れ、後白河の皇子たる以仁王の令旨を掲げ、「我が軍は以仁王が率いる官軍」と最大限にアピールしたが、それと比べて義時の場合はまったく状況が異なる。

義時を守る令旨もなければ王もなく、まさぅぃ!パンツを買う金も与えられずにフルチンでお外に放り出されたようなもの。どゆ意味や

もはや赤っ恥どころで済む話でなく、幕府にとって最大の危急存亡の時であり、一歩間違えると破滅する瀬戸際にまで追い詰められたことになる。

この幕府最大の危機を救ったスーパーヒーローこそが愛の戦士プリキュ‥‥ではなく、北条政子!その人であった。ふぅ

政子は自らの御堂御所に参集した居並ぶ御家人衆前に一世一代の大演説を行ぅ。(この当時の政子は大倉御所の焼失により勝長寿院内の御堂御所を居処としていた)

皆、心を一にして承るべし。これ我の最後の言葉なり。日本の侍共、かつては三年の大番役とて、一期の大事として出立し、郎従眷属に至るまで、これ晴(幸い)として上洛した。(大番役は死ぬ者も多かった)
力尽きて下る時、手づから自ら蓑笠(みのがさ)を首にかけ、大番3年の期間が半年に縮まったのはいったい誰のおかげか。

故殿(頼朝卿)の恩は山より高く、海よりも深ぃ。このたび逆臣の(後鳥羽院近臣の)讒言により(義時に)非義の綸旨が下された。
皆、ただちに逆臣たる秀康、胤義を討ち果たし、三代の将軍の遺跡を全うすべし。
ただし、院に参じたい者は止めはしない。直今、申し出て参じるがよい。

政子がそぅ言い放った演説は御家人衆に今日の幕府がある以前の惨めな生活を想起させた。

国においては国司、荘園では領家(荘園領主)にこき使われる日々、その上、大番役として内裏や院御所の警備のために生死をかけた3年の奉仕を要求された。
今もし幕府が消滅すればどうなるのか。
再び以前のような惨めな生活に戻ることを考えると、今の待遇(生活)とは夢物語のようなもの。
頼朝様が各々に与えた恩恵というものは計り知れない。

‥‥‥この話を聞いた御家人衆は皆々、涙涙で頬を湿らせたながら「今こそ御恩に報ずべし!」と声を揃えた。

なお、義時追討の院宣を鎌倉全体へ向けられたこと、そして首謀者たる後鳥羽院の討伐ではなく、その逆臣の討伐に置き換えた政子の機転にも注目したい。

まさに後世にまで伝えられる一世一代の名演説と呼ばれるに相応しいのではなかろぅか。

なお、これらの内容は承久記に記されるものであり、吾妻鏡では安達景盛が演説文を代読したと記す。




鎌倉幕府の挙兵と承久の乱の勃発

政子が演説した当日の夕刻、義時の執権館にてすみやかに作戦会議が開かれた。

軍議に参加したのは北条時房、泰時、大江広元、三浦義村、安達景盛など、幕府宿老の面々。

仮にも戦う相手は王権(皇族)ということもあり、当初は防戦策が採用され、箱根と足柄の関を固めつつ後鳥羽方の軍勢を迎え撃つのが良策とされた。


だが、老臣・大江広元の一言で一転した。

広元曰く、

『関を固めている間に東国武士の中から離反する者が現れれば、雪崩を打ったように離反者が相次ぎ、敗戦は濃厚。また、その間に軍備増強の時を相手に与えることになる。さすれば運を天にゆだね、先手を取り、短期間のうちに京都を攻略すべし!』

だがしクぁし!

結局それでも意見は分かれ、結果、最終判断を尼将軍たる政子に委ねる形でまとまった。

義時は二案を携えて政子の御堂御所を訪れたが、政子の決断は早かった。

『武蔵国の御家人衆が到着次第、ただちに出撃して上洛すべし!』

政子の決断は予想外にも広元の上洛作戦を賞賛するものだった。

一条頼氏の出奔

義時が最終決断に躊躇していた承久三年(1221年)5月21日午の刻のこと、息を切らしながら疲れ切った様子で鎌倉へ落ち延びてきた1人の男(公卿)がいた。

名前を聞くと頼朝卿の姉婿である一条能保の嫡孫・一条大夫頼氏(よりうじ)と告げた。

頼氏に話によると、兄弟はみな後鳥羽側に付いたが、自身は旧好を重んじ、京都から命からがら逃げ出してきたとのこと。

また、頼氏は京都の政界は倒幕派(後鳥羽派)に牛耳られ、かつての親幕派は捕縛されり、中には斬殺された者も多数いたことを告げた。

‥‥と、その時、突如として京都出身の三善善信が割り入り、善信も広元と同様、貴族たちの行動を知る者として義時に先手必勝を意見した。

これを聞き届けた義時は広元の案を受け入れ、直ちに嫡男の泰時に下知し、彼を総大将に任じて、その夜のうちに鎌倉から出撃するように命じた。

鎌倉幕府軍の陣容(参加武将一覧)

鎌倉軍(幕府軍)

北条義時、北条時房、北条泰時、北条時氏、北条朝時、足利義氏
三浦義村、千葉胤綱、武田信光、武田信政、小笠原長清
小山朝長、結城朝光、結城朝広、佐々木信実、大江広元、春日貞幸
毛利季光、狩野宗茂、安達景盛、平盛綱、関実忠、後藤基綱

義時より地域の御家人衆に出兵を促す下文が届けられた。

遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽など

後鳥羽軍(朝廷軍)

後鳥羽上皇、藤原秀康、藤原秀能、藤原秀澄、大内惟信
三浦胤義、山田重忠、糟屋久季、糟屋有久、佐々木広綱
佐々木経高、佐々木高重、大江親広、和田朝盛、後藤基清
五条有範、小野盛綱、鏡久綱、宮崎定範、仁科盛遠、加藤光員
源翔、大江能範、中条盛綱、筑後有長、神地頼経、海泉太郎

以上、Wikipedia参照

承久の乱の後鳥羽軍(朝廷軍)or幕府軍の戦場の配置図など

幕府軍総大将・副将

総大将:北条泰時

副将:北条時房

後鳥羽軍(朝廷軍)総大将・副将

総大将:藤原秀康

副将:三浦胤義

幕府軍は西上するにあたり、軍勢を主たる三方に分け、各方面それぞれに軍勢を指揮する大将を置いた。

街道を中心とした主たる三方に分けて進軍することにより、東国各所から進発する御家人たちを糾合しやすくしたとみる。

この戦いは幕府軍が先手を打つ形で出撃したことから、後手にまわった後鳥羽軍(朝廷軍)も幕府軍の進路に対応するすべく、三方に分けての出撃と相成った。アロハ〜

東海道方面軍(主力本軍)

総大将:北条泰時

北条時房、三浦義村、足利義氏、千葉胤綱、春日貞幸

以上、麾下10万騎

東山道方面軍

総大将:武田信光

小山朝政、小笠原長清、結城朝光

以上、麾下5万騎

北陸道方面軍

総大将:名越朝時(北条朝時)

結城朝広、佐々木信実

以上、麾下4万騎

 


総計:約19万騎

後鳥羽軍の陣容と配置

東海道方面軍

以下の諸将を濃尾国境の木曽川に配置し、東海道・東山道より入ってくる敵に備えさせた。

総大将:藤原秀康

藤原秀康・秀澄(父子)、佐々木広綱、三浦為義、山田重忠、小野成時、八田知尚、…etc

以上、麾下9000騎

東山道方面軍

大内惟信、高桑氏・次郎(父子)、関政泰、木田重国、足利忠広、…etc

以上、麾下5000騎

北陸方面軍

後鳥羽方は、北陸から畿内へ侵攻する敵に対しては、宮崎定範、仁科盛遠の軍勢を差し向けた。

糟屋有久、仁科盛遠、宮崎定範、大江能範、…etc

以上、麾下5000騎

 


総計:約1万9000騎

※最終的には2万騎近くに膨れ上がる。

兵力差

鎌倉軍は後鳥羽軍の約10倍!




承久の乱が起こった場所(戦場の場所一覧)

画像引用先:Wikipedia

北陸方面軍の進路

5/30市振の戦い(いちぶり)→6/3砺波山の戦い(となみやま)→6/5墨俣の戦い(すのまた)→→本隊が入洛した後に合流(北陸軍は義時に北陸道の制圧を命じられていた)

東山道方面軍の進路

6/5大井戸の戦い(おおいど)→6/5摩免戸の戦い(まめど)→→6/5に東海道本隊と合流

東海道方面軍の進路

6/5摩免戸の戦い(まめど)→6/5墨俣の戦い(すのまた)→6/6杭瀬川の戦い(くいせがわ)→6/12瀬田川の戦い(せたがわ)→6/12宇治川の戦い(うじがわ)

後鳥羽軍残党の掃討戦

6/15東寺の戦い(とうじ)

承久の乱最大の激戦地は「宇治川の戦い」

宇治川の戦いは承久の乱最大の激戦地となる。

数こそ圧倒した幕軍だったが後鳥羽軍は後が無ぃ、まさに背水の陣状態だったことから必死の抵抗に遭ぃ、幕軍にも多くの死傷者が出た。

幕府軍の死傷者
  • 負傷者:144名
  • 死者:96名
後鳥羽軍の死傷者
  • 負傷者:数多(甚大)
  • 死者:255名

承久の乱の経過

1221年(承久三年)5月14日

後鳥羽上皇が流鏑馬と称して北面・西面、在京御家人をはじめとした諸将を院御所に集める。

5月19日

鎌倉に上皇挙兵の知らせが届けられる。

5月21日

北条泰時は幕府軍の総大将として東海道を進むことになり、まずは稲瀬川を渡河して対岸の清親館(藤沢)へと入り、ここを一夜の宿所とした。

5月22日

翌22日の卯の刻(午前6時)には義時自身も清親館へ着到し、泰時と手勢18騎の出撃していく姿を見送った。

この後、義時の知らせによって東国中に泰時出撃の知らせが行き渡り、各所で兵を起こした御家人たちは西上を開始する。

5月末頃

5月末頃になると、義時の出陣命令を受けた東国各地の御家人衆が次々と泰時に合流し、東海道方面軍として進軍する。

泰時を総大将とした東海道方面軍は5月末頃にはすでに遠江の橋本にまで達した。


5月30日(市振の戦い)

泰時の本軍が遠江に到着した頃、北陸方面軍は越後国府にまで達し、その先鋒は越中国境である市振にて在地武士の宮崎定範(越中国宮崎城主)率いる後鳥羽軍と対峙した。

結果、数で勝る幕軍が宮崎城を落とすなどして圧勝し、さらに越中を進軍した。

市振の場所

6月3日(砺波山の戦い)

後鳥羽の下命のもと、京都より進軍してきた仁科盛遠ならびに、粕谷有久ら率いる後鳥羽軍が越中と加賀の国境(富山県と石川県の県境)に位置する砺波山(となみやま)に布陣する。

ちょうどその頃、市振の戦いにて敗走した宮崎定範は藤原秀康率いる後鳥羽軍本軍と合流した。

ちなみに倶利伽羅峠の戦い(源平合戦)の「倶利伽羅(くりから)」とは、にある砺波山の峠の1つ。

砺波山の場所

6月5日(大井戸の戦い)

東山道方面軍は6月5日、東山道軍を率いる武田信光ならびに小笠原長清は、早くも木曽川の大井戸を守る後鳥羽軍と対峙する。

後鳥羽軍を率いるのは大内惟信(河内源氏)と高桑氏(美濃源氏・高桑城城主)の両大将となる。

まず、最初に小笠原長清率いる手勢が先陣を切り、高桑氏とその息子の高桑次郎と交戦を開始するが、高桑氏は見映えのある甲冑を着用したことから大将格と見られ、弓射によってあっけなく討死する。

これに続き、待ちきれずに出撃したが武田信光であり、大内惟信とその息子・惟忠と交戦となるも、数で勝る武田勢が圧倒的有利な展開となり、惟忠が戦死すると惟信は潰走する。

勢いに乗る東山道軍だったが、泰時率いる東海道方面軍と合流すべく、木曽川を一路南下し、尾張国・一ノ宮(一宮市)まできたところ泰時本隊と合流する。

一方、名越朝時率いる北陸軍も越中・加賀の国境となる砺波山に陣取った後鳥羽軍を撃破した。

大井戸川の場所(大井戸川合戦場跡)

6月5日(摩免戸の戦い)

後鳥羽軍は藤原秀康ならびに三浦胤義を総大将、ほか、小野盛綱、佐々木広綱らを含めた本軍を摩免戸(まめど/大豆戸とも)に布陣させた。

対する幕軍は、東山道軍5万を取り込んだ泰時率いる本軍15万がこれと対峙したが、後鳥羽方は大井戸で大内勢が敗れたことを知るや否や、さっそうとケツをまくってあっけなく退却する。

しクぁし!

その様子を見た幕軍は指をくわえて見過ごすはずもなく、これを追撃して壊滅させた。

なお、承久の乱の合戦は木曽川で広範囲に行われたことから死傷者もそれなりに生じ、現在、摩免戸付近には「承久の乱合戦供養塔」が建てられてい‥‥‥申す。きゃ





6月5日(墨俣の戦い)

後鳥羽軍は藤原秀康の弟の藤原秀澄ならびに山田重忠らと共に墨俣(すのまた/岐阜県大垣市墨俣)に布陣する。

重忠は幕軍の圧倒的な多さを目にして自軍の劣勢を悟ると秀澄に、「兵力を集中させて突撃し、敵軍をすり抜けて、もぬけの殻となった鎌倉へ攻め込む策」を提案する‥‥のだが、しクぁし!

秀澄は耳を貸すふりをして、いざ合戦になると兵力を分散させて交戦したが、程なくして摩免戸の秀康率いる本軍が敗走したことを知ると大慌てで退却した。


6月6日

泰時は北条時房に一軍を与えてこれを別働隊とした。自らは木曽川を渡河し、墨俣に布陣したが、すでに後鳥羽軍は退却し、姿は無かった。

6月6日(杭瀬川の戦い)

後鳥羽軍は木曽川流域にて敗戦を繰り返し、ジリジリと後退を余儀なくされたが、山田重忠が奮起し、単独で杭瀬川に布陣した。

この様子を見た血気盛んな幕軍の将・庄忠家(武蔵国児玉党/埼玉県本庄市栗崎)は、弟の弘方、甥の弘季らと共に児玉党を率い、重忠勢と交戦した。

重忠勢は児玉党の10分の1の兵力にも関わらず果敢に奮戦し、戦闘は激戦となったが、時が経つにつれ数で勝る児玉党が有利な展開となり、結果、重忠は敗走するに到る。


6月7日

勢いづく幕軍は美濃国 垂井まで進軍した。

6月8日

北陸道方面軍は越中国 般若野に達する。

この頃、院御所の後鳥羽院は予想外の展開に狼狽し、藁(わら)をも掴む思いで叡山の僧兵戦力を頼って比叡山へ行幸した。

しクぁし!

叡山側は「鎌倉軍の勢いの前に我戦力など無力」とし、後鳥羽を受けれることは無かった。(これは戦前、後鳥羽が叡山を冷遇した報いとも云われる)

ちなみに当地には源義仲が入洛した折、平家方と戦った「般若野古戦場碑」がある。

6月9日(砺波山の戦い※2回目)

この戦いは激戦となり、双方陣営に多数の死傷者が出たが、特に後鳥羽方の被害が大きく、宮崎定範、仁科盛遠、粕谷有久らが討死した。

程なくして朝時の陣営に義時からの書状を携えた鎌倉よりの使者が到着した。

その書状には北陸道を完全に制圧する旨の命令が記されており、これを以って北陸方面軍は後鳥羽方との交戦のみならず、北陸道の制圧も使命となった。

これにより進軍に大幅な遅延が生じ、入洛した時にはすでに泰時が六波羅に入った後だった。

6月10日

叡山をあきらめ、還幸の途についた後鳥羽院は急遽、幽閉中の西園寺公経を釈放するように下命した。

この行動はおそらく自軍の連敗の末、幕軍が入洛した際の事態を想定しての切り札としたとみる。

ただ、後鳥羽は宇治・勢多(瀬田)に残存兵力を集中するように下知していることから、戦闘は放棄していなかったとみる。(敗戦後の立ち回りを考えるあたりも、後鳥羽院の性格がよく滲み出た箇所といえる)

6月12日(瀬田川の戦い)

泰時率いる本軍主力15万は破竹の勢いで進軍し、近江の野路(草津)にまで達した。

泰時は時房の別働隊に勢多(瀬田)に布陣するよぅ命じ、一方の後鳥羽軍も幕軍の入洛を何としても阻止すべく、山田重忠に兵を預け一軍の将として勢多へ送り出した。

こぅして両軍は瀬田の唐橋(滋賀県大津市唐橋町-瀬田1丁目)を挟む形で対峙or交戦に到った。

⬆️ヘソのゴマを人差し指で取りまくったら腹痛が来て、しばらく下痢便しか出なかった時の何でやねんと感じる心境ほど噂の‥‥「瀬戸の唐橋」

この一戦での重忠の働きは目覚ましく、熊谷直実の孫となる熊谷直国(備中守)を討ち取るという快挙を成したが、幕軍の将・横田頼業(よりなり/宇都宮頼綱の子/下野国上三川城主であり横田氏の祖)の奮戦ぶりも目覚ましく、最終的に数に気圧された後鳥羽方は退却する他なかった。トホホ


6月12日・13日(宇治川の戦い※前半)

泰時率いる幕軍主力15万は、いよいよ京師郊外の宇治(京都府宇治市)にまで迫り、宇治川を挟んで後鳥羽軍と対峙した。

後鳥羽軍は藤原秀康ならびに三浦胤義が本軍を率い、宇治川の対岸に布陣した。(このとき、後鳥羽方は宇治川の橋を壊落させたとも)

⬆️ピーナッツの粒先のプチっとなった部分を食べすぎるとニキビができまくる噂ほど噂の‥‥「宇治川の橋」

泰時は小笠原長清を琵琶湖北より、北条時房は勢多(瀬田)、総大将の泰時は宇治より進撃する作戦がたてられた。

宇治川は豪雨によって増水し、進軍の妨げとなっていたが、まず足利義氏と三浦義村の軍勢が威勢良く出陣した。

双方の軍勢は一時は攻勢に出たものの連携が不十分だったことから、一点めがけて集中攻撃をかけてきた佐々木広綱ら後鳥羽軍の反撃に遭ぅと苦戦を強いられた。

これを支援すべく泰時も、すばやく本隊を動かし乱入する恰好をとったが、広綱ら後鳥羽軍の必死の抵抗に遭ぃ、一時、泰時自身も討死を覚悟したほどに自陣にも甚大な被害が生じた。

6月14日(宇治川の戦い※後半)

佐々木信綱(後鳥羽軍の佐々木広綱の弟/近江国守護)、南条時員(なんじょう ときかず/伊豆国田方郡南条の出自)、芝田兼義らが浅瀬を発見し、北条時氏に随従して渡河を敢行した。(渡河の成功)

程なくして筏(いかだ)を用いた泰時も渡河に成功し、本隊もこれに続いた。

渡河を許したことで最後の防衛拠点を失った後鳥羽軍は総崩れとなり敗散した。

この宇治川の戦いでは双方ともに承久の乱最大の死傷者が生じ、幕軍は庄忠家、桃井義助(足利義兼の次男坊/上野国群馬郡桃井郷(群馬県榛東村大字山子田字御堀)の桃井城主/桃井氏の祖)、伊佐 為宗(いさ ためむね/藤原北家出自/伊達朝宗の子)が討死した。

6月14日の夜

泰時は当日夜、深草河原に布陣し、三浦義村、毛利季光軍と合流の上、残存兵力を確認し再編成を行なった。

深草河原(京都)の場所(概ね)

ちょうどその頃、西園寺公経の家司(けいし/家人)の長衡と申す者が戦況把握のために本陣に訪れ、泰時は明日、入洛予定と告げた。

また、泰時は南條七郎に命じて西園寺館を警固するようにも命じた。

なお、この夜、後鳥羽方の藤原秀康、大江親広、中條盛綱、三浦胤義らは遁走したとされるが、佐々木高重は討ち取られた。




6月15日

泰時は後鳥羽軍を洛内より掃討すべく、幕軍の先鋒を洛外より後鳥羽院御所のある洛中へ突入させた。

洛内(都)では突如、甲冑をまといし万を数える軍兵が乱入してきたことで、ある者は声を立てて喚き叫び、ある者は狼狽、またある者は泣き叫ぶなど、混乱を極めた。

承久記にはその様子を「天地開闢より、王城洛中のかかる事いかでか有らじ。かの保元のむかし、又、平家の都落とし時も是ほどにはなかりけり。」と記す。

6月15日

6月15日の辰の刻(午前8時)、後鳥羽院の命令を受けた小槻国宗(おづき の くにむね)が、後鳥羽の院宣を携えて樋口河原の泰時本陣へ訪れた。

樋口河原の場所(概ね)

泰時は礼を尽くして下馬の上、院宣を受け取ると次のような内容のことが記されてい‥申した。あひょ

合戦は叡慮に於いて起こらず、謀臣などの申行する所なり、今に於ては申請に任せ宣下せらる可く、洛中に於て狼狽に及ぶ可からざる旨、下知すべし。云々

この院宣を以って北条義時追討の院宣は消滅。新たにこの度の討幕計画の首謀者として「藤原秀康、三浦胤義らを捕縛せよ」との院宣が発せられたことになる。

番外:東寺の戦い

一方、敗走した後鳥羽方の将である藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らは最期の一戦をけしかけるべく、上皇に会談を求め御所へ駆けつけたが、後鳥羽は御所の門を固く閉ざし、諸将らを追い返したのだった。

山田重忠は「臆病者の君に一杯食わされた(騙された)」などと、門を蹴り飛ばしながら暴言を吐き捨て、今や残党と成り果てた後鳥羽方の諸将は、京都駅近くの東寺に立て籠もり最期の抵抗をみせた。

東寺の場所

これに対処すべく、幕軍からは三浦義村が東寺を包囲するために出陣すると、秀康と重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦の末、自害して果てた。

なお、この三浦胤義の死には諸説あり、義村が包囲した折、胤義と面会し、その後、義村は兵を退き、胤義は太秦(京都嵐山)へ落ち延びることができたが、木嶋神社(京都市右京区太秦森ヶ東町)にて子の兼義・胤連と共に自刃したとされる。

山田重忠は嵯峨般若寺山に落ち延びたが自害。

佐々木経高も自害に及んだが、尊長法印、藤原秀康・秀澄(父子)らは逐電。


なお、藤原秀康・秀澄親子は一時、奈良に潜伏していたらしいが、10月14日に河内国にて捕縛され、秀澄と共に京都へ連行の上、斬首された。

秀康の弟・秀能は出家することで許されたが、後に隠岐へ遠島された後鳥羽院を慕ぃ、隠岐島へ渡ったと伝わる。

6月16日

幕軍総大将の北条泰時ならびに、副将の北条時房の両名は、六波羅の南北の館へそれぞれ入り、当館を戦後処理の拠点とした。

以後、この六波羅南北の館は鎌倉幕府の出張機関である「六波羅探題(ろくはらたんだい)」として機能し、これより西国の統治と西国における紛争解決のための強力な機関となっていく。

同日、北条泰時は合戦の結果報告と戦後処理について鎌倉の指示を仰ぐべく、使者を送った。

六波羅探題の場所

6月23日

鎌倉では執権・北条義時や大江広元ら幕府首脳陣を中心とし、繰り返し協議が行われた。

6月24日

執権・北条義時は協議の結果を認めた下文を安東光成に持たせて上洛させる。

6月25日

山田重継(山田重忠の子)が捕縛され、斬首される。

進軍途中にも関わらず鎌倉へ引き返した泰時のエピソード

稲瀬川対岸の清親館(藤沢)を進発した泰時だったが、実はその翌日、単騎で軍を抜け出し、鎌倉へ引き返したというエピソードがある。

鎌倉へ馬を返した泰時はそのまま義時執権邸へ入り、驚いた義時に次のようなことを告げた。

「ずっと父上にお聞きしたかったことがござる。それがし敵が武門の者であれば思う存分に太刀を振るうことができ申す。しクぁし!もし仮に上皇さま自身がご出陣された際にはいかがすれば宜しいか。それがし、上皇さま相手に剣を向ける自信はござらぬ」

義時はこぅ返した。

「さすがワシが見込んだだけのことはある。よくぞ気づき、そしてよくぞ申した。ガハっ
「確かに此度の戦、上皇さま近くの君側の奸(くうそくのかん)の討伐を掲げての一戦。よもや上皇さまに弓など引けぬ」
「もし我らが上皇さまに弓など引けば、我らの大義名分が失われ、御家人衆は離散し北条が窮地に立たされるは必定」
「上皇さまの出陣か。‥‥しからばその時はいさぎよく降参し、鎌倉へ退け。我らの負けじゃ。ワッハ

結果的に後鳥羽院は出陣することなく鎌倉方の勝利で決したが、もし上皇が出陣していれば‥‥現在の我々はいなかったかもしれなぅぃ。




承久の乱の戦後処理

まず、幕府は当一件の首謀者を後鳥羽上皇、ならびにその皇子たる順徳上皇と公表し、後鳥羽は隠岐島へ、順徳は佐渡島、後鳥羽の皇子である雅成親王(六条宮)には但馬国、頼仁親王(冷泉宮)には備前国への配流とした。

続いて、順徳天皇の第四皇子である仲恭天皇は廃位とし、代わりに守貞親王(後鳥羽の同母兄の行助入道親王)の子である後堀河天皇を即位させた。

守貞親王は「行助入道親王」として新たに治天の君として即位した。


なお、同じ後鳥羽の皇子でも土御門上皇は討幕計画に反対していたことから、確たる罪には問われなかったが、京師に今後の自らの居場所を見出せず、結果、自ら望んで土佐国へ配流した。(後に阿波国へ移されたらしい)

仲恭天皇は歴代天皇の中でも最短在位期間の「半帝」?

このたびの戦後処理によって仲恭天皇は廃位となったわけだが、仲恭天皇の在位期間はわずか78日間となり、これは歴代天皇の中では最短の在位期間となる。

仲恭天皇はわずか2才だったという事で即位礼や大嘗祭もしていなかった事から、以後、半帝などとも呼ばれる。

後高倉の皇位に即位なしの上皇即位は初例

幕府は戦後処理として新たな治天の君の人選を行なった際、他に最適な皇族が見たらなかったこともあり、守貞親王(もりさだ しんのう)を急遽、強引に治天の君に即位させた。

この守貞親王のように皇位に即かず、しかも既に出家している入道親王を擁して太上天皇号を奉って治天としたのは先例なき処置となる。

後鳥羽上皇の荘園処理

後鳥羽が領有した膨大な荘園群は、すべて没収と相成り、幕府所有となったが、後堀河が即位し、その院政を後高倉院が執るようになると後高倉院にすべて与えられた。(ただし、支配権は幕府が掌握)

廷臣の処罰

幕府はとりあえず、朝廷の要人たちに関しては合戦に参加した主要諸将に割り当てる形で「預かり」とした。

葉室光親(按察使/あぜち/地方長官)→武田信光 預かり

中御門宗行(中納言)→小山朝長 預かり

源 有雅(兵衛督)→小笠原長時 預かり

高倉 範茂(参議中将)→北條朝時 預かり

坊門 忠信(大納言)→千葉胤綱 預かり

藤原 信能(参議中将)→遠山景朝 預かり

長 巌(刑部僧正)→結城朝光 預かり

なお、二位法印 尊長ならびに、藤原能登守秀康は蓄電。

承久三年7月2日

次の西面武士を斬首す。

後藤基清(左衛門少尉)、五條有範、佐々木広綱、大江能範。

囚禁中の公卿以下の処遇は関東へ護送。

7月5日

藤原信能は美濃国 遠山荘にて斬首。

7月12日

葉室光親は駿河国の加古坂にて斬殺。

7月14日

中御門 宗行は駿河国 藍澤にて討たれた。

7月18日

高倉範茂が相模国・足柄山にて斬刑が処せられたが、五体を欠くことに障りがあるとし、早河に沈められる。

7月29日

源 有雅は甲斐国 稲積庄にて小笠原長清によって斬殺。

8月1日

坊門忠信は近江国 舞澤にて処刑される予定だったが、三代将軍・実朝の後室の実兄になることから赦免の上、帰京を果たす。‥‥ただ、程なくして越後国への配流が決まった。トホホ

大江親広は後鳥羽陣営に属し幕軍と交戦したが、これは討幕派の公卿たちに脅されて仕方なく参画したことや、何より父・大江広元のこれまでの功績が評価されたのか、何にせよ最終的に不問とされ赦免と相成った。

長 巌は陸奥に遠流。

承久の乱の戦後処理は最小限に留められた?

この承久の乱のような合戦ともなれば、敗者(罪人)および、その関係者ならびに、その罪が及ぶとされた一族郎党に到るまで梟首(きょうしゅ/晒し首)や死刑が妥当。

ただ、承久の乱に関わった者は意外に多かったらしく、すべてに罪に問いて処罰を敢行すれば大勢の人を殺すことになる。

逆にそうなれば勝利したことで真の官軍ともなった幕府への批判が浴びせられる可能性もある。

そうなる事態を想定した幕府は死刑執行を最小限度に止めておくように下命したと云われる。

西園寺公経のその後

西園寺公経

西園寺公経はこれまでの忠義や功績が評価され、幕命によって内大臣に就任し、以後、朝廷の一切を任されることとなる。

こと朝廷においては唯一となる幕府との窓口役になったこともあり、やがて巨万の富を築きあげる。

公経は足利義満公に引き継がれる北山第(現在の金閣寺)を京都北山に建造し、以後、一族は繁栄を極めた。

義時邸落雷事件

泰時が京師へ向けて進軍した後、義時邸に奉仕する家人が1人、落雷によって亡くなるという変事が起こった。

義時はこれを天子たる後鳥羽を怒らせたことによる天罰なのか?‥‥‥などと、鎌倉側の敗戦と幕府滅亡の不安を脳裏によぎらせた。

これに対し大江広元は、

「頼朝さまが奥州藤原氏を滅ぼした際にも同じような激しい落雷があり申した。ガヒョっ
「その後、我が方は勝利し今日があり申す。さすれば此度の雷は吉兆と捉えるべきはござらぬか」

‥‥などと告げ義時を安心させた。

この数日後、泰時から合戦勝利の吉報が鎌倉へ届くことになる。

ところで‥‥なぜ鎌倉軍は承久の乱に勝利できたのか?

  • 先手必勝で先に軍勢を進軍させたことにより、後鳥羽方に合戦準備の暇を与えなかった。
  • 「量より質」などという言葉が意味をなさないほどの兵力差が勝敗を決定づけた。
  • 鎌倉軍は尼将軍・政子の名演説の効果もあってか、士気が高く一枚岩だった。対する後鳥羽軍に参加した諸将は、所詮、寄せ集めに過ぎなかった。

一歩間違えれば鎌倉方は負けていた❓

仮にもし、後鳥羽院が自ら出陣していれば、天子(後鳥羽)に剣を向けられない鎌倉側は降伏するしかなく、後鳥羽方の完勝だった。

だが、自身の想定外の展開に狼狽するしかなく、それに気づく余裕のなかった後鳥羽院自身にも敗因の一端がある。

考えてみればこの承久の乱とは、総大将(後鳥羽)が出陣してくれば無条件で勝敗が決するという、なんとも風変わりな一戦でもあった。

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