実朝暗殺は承久の乱のキッカケとなった事件であり、大局的にみれば後鳥羽上皇の画策した謀略の一端でもある。(承久の乱ステージ1)
以下、コンテンツはあくまでもワぁタクシメぇ〜‥の私的な意見も含まれるので、あくまでも参考程度に💘 んメェ〜🐏
実朝の暗殺理由(実朝に対する御家人たちの不安)
御家人衆は実朝の京風かつ風雅な文化人の素養に不安を感じた
実朝は自らの良き理解者であり、父・頼朝の影すら見た和田義盛が和田合戦にて敗死すると、塞ぎがちになって病床に伏すことも多くなった。
そんな実朝を慰めたのは歌詠み、蹴鞠(けまり)、写生(絵描き)などの芸事だった。
実朝は武芸そっちのけで特に文芸に没頭するなど、もはや征夷大将軍にあるまじき姿を周囲に惜しげも無く晒したが、歌詠みに関しては非凡な異才を発揮した。
実朝の歌詠みの才能は、世にこの人有りと謳われた歌人・藤原定家すらも一目置くほどであり、早くから後鳥羽院の御目にも留まるところとなった。
実朝に一向に子供ができない=後継者問題に不安を感じた
御家人衆は次代鎌倉殿が誰になるのか?いわゆる後継者に不安があった。
後継者=次代将軍が誰になるかで自分たちに及ぶ影響に不安があった。
実朝は後鳥羽を尊敬していた=朝廷寄りの考えしていた
実朝は後鳥羽院に尊崇の念を抱き、御家人たちは後鳥羽寄り(朝廷寄り)の考え方があったことに不安を感じた。
特に後鳥羽のお気に入りでもある源仲章を教育係として重用し、一種の後鳥羽ー仲章ー実朝といった朝廷寄りの派閥のようなものが構築されてい‥申した。ヒャっ
将軍継嗣についても実朝は生前より、自身の後継者(次代将軍)として皇族将軍の鎌倉着座構想をもっていた。
1216年(建保4年)9月、父・頼朝を超える官位に叙された頃に実朝が大江広元に語ったとされる以下の一文に注目💘
『源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す(吾妻鏡)』
これを解読すると、然るべき家柄(皇室)から後継を求めることが第一。たとえ我が身に子があってもこれを後継とするのは間違いである。
次代皇族将軍のために自らの官位を最大限にまで高めて家名を上げ、次代皇族将軍に恥とならぬような環境を構築することが肝要。
‥‥‥などの意味合いになる。(これはすべて後鳥羽の入れ知恵か?だとすれば後鳥羽とは謀にも精通した人物)
この言葉を耳にした後鳥羽は小躍りするほどに喜んで実朝にさらに官位を与える挙動に出たが、鎌倉では逆に実朝に不信感を募らせる結果を生む。
1218年12月、実朝は右大臣にまで上り詰め、あらゆる観点から危惧感を募らせた北条義時ならびに大江広元は、御家人たちの忠誠が鎌倉から乖離していく危険性を諫言したが、実朝は見向きもしなかった。(すでに後鳥羽に洗脳/義時の最後の実朝への警告‥‥広元も実朝暗殺計画にかんでいるのか?)
意外に我が強く臣下の意見に従わない
実朝は文化人に見えて意外に冒険心(好奇心旺盛)も強く、例えば、渡宋計画を立案して浮かぶかどうかも分からない大船を建造する(失敗に終わる)など、手に負えない一面が多くあった。(いわゆる問題児の一面があった。)
💋実朝の官位昇進表💋
年号 | 和暦 | 叙された官位 |
1203年 | 建仁三年 | 従五位下、征夷大将軍、右兵衛左 |
1204年 | 元久元年 | 従五位上 |
1205年 | 元久二年 | 正五位下、右近衛中将、従四位下 |
1206年 | 建永元年 | 従四位上 |
1207年 | 承元元年 | 従四位下 |
1208年 | 承元二年 | 正四位下 |
1209年 | 承元三年 | 従三位、右近衛中将(再任) |
1210年 | 承元四年 | |
1211年 | 建暦元年 | 正三位 |
1212年 | 建暦二年 | 従二位 |
年号 | 和暦 | 叙された官位 |
1213年 | 建保元年 | 正二位 |
1214年 | 建保二年 | 兼美作権守 |
1215年 | 建保三年 | |
1216年 | 建保四年 | 権中納言、左近衛中将 |
1217年 | 建保五年 | |
1218年 | 建保六年 | 権大納言 兼 左近衛大将、内大臣、右大臣 |
1219年 | 承久元年 | 正月27日、暗殺により死没。享年28歳(満26歳) |
北条義時と三浦義村による共謀説
第一に、義時&義村が共謀するに際し、二人が共謀しているという事実を絶対に他に知られてはならぬぁいという絶対的な暗黙的ルールがこの二人の間にあった。
例えば、義村は義時の存在、義時は義村の存在を一切、ほのめかすような言動・行動は慎まなけらばならなかった。
‥‥‥と、このようなルールを二人の間で取り決めて、義村はまず、公暁をそそのかすために自らの子である駒若丸が、公暁の弟子であるという縁を伝って公暁と面会し、次のようなことを告げる。
『父・頼家様は実朝公が次代将軍の座を欲っしたがため、惨めにも寺にブチ込まれ、悲惨な最期を迎えることとなり申した。アヒョっ
(頼家が討たれた当時実朝は若干11歳だったので近臣の配慮に起因する頼家暗殺計画が発動した。※将軍復位の野心から謀反もあり得るという理由※)』
『実朝公に恨みを晴らし、御身が次代将軍位に座されるならば、それが正当な行為(仇討ち)と周わりの者共に認めさせなければなりませぬ。
そこで単に斬り殺すのではなく、首級をあげることが肝要。さすれば、それがしも貴方様もとへ馳せ参じることができましょう。ふぉっふぉっ…』『時(殺害決行の期日)は追ってお伝えし申す。』
もしくは
『実朝公が大臣に叙されたその拝賀式にて。(義村は義時から京都の内情を逐一、伝え聞いていた。※頼朝卿の官位を超える大臣になってから殺すことに意味があったともみれる。鎌倉は頼朝卿建国の神聖な源氏の王国だということを後鳥羽に思い知らせる狙いがあった)』
‥‥‥などと、ねんごろの男女が‥ではなく、年頃の青年(19歳)!!が、ふぅ 且つ、これまで寺僧の暮らしをしてきた公暁にとっては衝撃的な事実だった。
義村がこの事を告げたのはおそらく実朝が父・頼朝卿の官位を超える権中納言、左近衛中将に叙された翌年、ちょうど公暁が千日参籠を開始したタイミングとみる。
なお、義村はこの時、自らが義時と共謀している事実は公暁に伏せていた。(実朝殺害が成功した後、後鳥羽方に義時と共謀した事が知れるとマズぃので義時のことは一切、伏せた。)
また、この時、源仲章の殺害までを仄めかしたかまでは分からぬぅぁい。
仲章がとっさに実朝をカバったがために斬られたという見方もできる。(仲章は実朝の御剣を持っていたので、とっさに抜刀に及んだがために斬殺されたのかも知れなぅぃ)
何にせよ、この義村の讒言がキッカケとなって公暁は恨心に”怒り“という名の炎を爆発させ、はたまた次代将軍着座への野心をも抱き始めたが、義村との計画通りその炎上した恨心を抑えるべく、なるべく人と会うことが無きよぅ、参籠にふけ込んだフリをした。
人が他人に暗殺を仕掛けるなど狂気の沙汰。
余程の何か殺意を抱かせる強い衝動や動機or絶対的な権力者からの命令が必要。
公暁が参籠した理由とは?
公暁が参籠をした理由というのも、その恨心を鎮める=怒りでふるえる我を来たる時まで封じ込めた or 誰にも計画を悟られてはならぬぁぃ‥‥などの思惑があったともみれる。
三浦義村の不振な動き
1218年(建保六年)9月13日の十三夜の闘争は三浦義村の実朝暗殺計画の一端か❓
9月13日の夜、名月観月のため市中の童たちが鶴岡境内に来ていたが、宿直警護の武士たちとの間で鶴岡境内にて闘争事件を起こした。
この当時、八幡宮では御家人による宿直警護が実施されていたが、翌日調べたところ、なんでも警護の武士たちが逆に童たちに殴られたというものだった。
ただ、闘争の主犯が三浦義村の子・駒若丸だったことが明らかになり、駒若丸は出仕を即中止の上、即・謹慎と相成った。
八幡宮の宿直業務は頼朝卿以来の御家人の重要任務の1つだったが、このような恥辱にまみれた事件が生じたことから宿直警護そのものが廃止されるという結果を生んだ。
‥これは三浦義村が実朝暗殺のために邪魔な警護を撤廃した or 公暁とコンタクトを取りやすいように警護役を撤廃したともみれる。(実朝が暗殺された当日は境内奥まで入れたのは高位の文官だけだったとも。)
実朝の右大臣拝賀式典の折、式典に姿が見えない。(出仕を休んだとも)
考えてみれば、実朝の右大臣拝賀式典に三浦義村の姿がみえないが、これは出仕を休んでいたと云われる。
出仕を休んだのは、まさにぅぃ!公暁が実朝を暗殺するその当日だったからに他ならぬぅぁい。
数々の史料にも記される公暁の死因として「三浦義村宅の壁をのぼろうとしている時に義村に切られた」や「義村の放った刺客に大臣山で斬殺の上、首級をあげられた」‥‥などと「三浦義村」の名前が出るのは、まさにぅぃ!義村こそが黒幕だったことを告げるもの。
北条義時の不振な動き
薬師堂の建立
実朝がらみで京師より公卿がワンサカと押し寄せてくるような、鎌倉にとっての滅多となぃ繁忙期or金銭が必要な時期に、あえて薬師堂を建立した。(造営費は義時個人の支出とされるが‥。薬師堂建立は源仲章を亡き者にするための伏線か?)
なぜ、建立時期を急く必要があったのか?
もぅ少し後でもよかったのでは?
実朝の右大臣拝賀式を途中退出
実朝の拝賀式典にて義時は御剣(太刀)持ちの役を仰せつかっていたが、途中で寒さ余って下痢便がピシったのか、何せ隊列から離れて源仲章へ御剣役をバトンタッチした。
主君の拝賀式典といぅ、一大行事且つ、御剣持ちという大役にも関わらず、途中で隊列を離れるという行為は、ある意味、主君への不忠行為であり、それを知りつつも、しなければならなかった理由があったからに他ならぬぅぁい!
例え下痢便を垂らしながらでも事をなし終えるのが武士というもの。….いや、下痢便は液体やからアカンやろ
そして、前述のとおり三浦義村は出仕を休んでいるので、そもそも拝賀式典にはいない。
鎌倉幕府の二大巨頭が揃いも揃って主君の式典に出席をしないなど、見方を変えれば前代未聞級の非常事態ともいえる。
まぁ、しクぁし、これは二大巨頭が揃って出仕を控えるのはあまりにも不自然なので、義時は途中でピシリ退出する計画を採ったとみれる。
二大巨頭が揃いも揃って出仕を控えた理由は、もはや語るまでもなく実朝殺害計画が現在進行中だったからに他ならぬぅぁい!
なお、愚管抄では義時は実朝の命令で御剣を奉持したまま”中門”にて待機し、実朝が上宮での儀式の間はピザの”注文”を待つかの如くに”中門”にて待機していたと記す。3連続トゥループ成立
ところで‥‥「中門」の場所はドコ?
この当時、鶴岡境内の現在流鏑馬馬場(東西鳥居を連絡する舞殿前の参道)の内側(本宮側)には廻廊(かいろう)があり、その中央には楼門が建っていたとされる。
往時の楼門は本宮前1つと、当該、廻廊中央にもあったので合計2つあり、廻廊の楼門を当時は「中門」と呼んだ。(ちなみに中門の前には南大門まで建っていた)
【参考】秀吉作成の鶴岡境内図
上掲、安土桃山時代の鶴岡境内図を見ると鳥居の後ろを東西に連絡する道が見えるが、これが現存する流鏑馬馬場となる。
そのすぐ後ろに廻廊が回り、その中央に南大門が控える。さらにその南大門の奥に楼門(中門)があり、中門の奥に大階段があってその上にも楼門が控える(現存)
つまり、愚管抄の記述が真実とするならば、義時は現在の舞殿あたりで実朝の御剣を持って待機していたことになる。
北条家郎従の身分の改善(昇格)を試みる
1209年(承元3年)4月14日、義時は北条家の郎従の中でも功のある者を侍に昇格させることを望み、実朝に嘆願するも実朝は拒否する。
実朝曰く、「然る如きの輩、子孫の時に及び定めて以往の由緒を忘れ、誤って幕府に参昇を企てんか。後難を招くべきの因縁なり。永く御免有るべからざる」と告げた。
郎従(ろうじゅう/郎等)とは武士よりも下の身分者のことで、言うなれば武士(侍)と主従関係にある者のことを言う。(鎌倉時代の侍とは御家人を指す)
義時は北条家中の郎従でも優秀な者を武士に取り立てることを許可して欲しいと実朝に願い出たことになる。‥‥‥が、これについては義時はひょっとすると肥大化する後鳥羽勢力との”確執”が、ポロポロと”角質”が落ちるかの如くに広がり、来たる一戦のための鎌倉強化の狙いがあったともみれる。
つまり、義時はすでに後鳥羽との大戦を予期していたのではないのか。
義時&義村の実朝暗殺の目的
- 将軍実朝の排除=後鳥羽色の一掃
- 鎌倉の分裂による騒乱(二分化)の回避
※二分化=北条政権の崩壊
実朝を排除したその後の義時の構想
この頃の義時をはじめとした北条氏は西国や朝廷では、源家の被官とみなされていたので地位も低くみられていた。(承久の乱少し前まで政子は知っていても義時の存在を知らなかった公家も多かったと云われる)
この事実は京都文化を、さほど知らない義時でも京都守護や西園寺公経などからの知らせで大まかには把握していた。
義時は朝廷を倒すなどという大それたことは考えてなどいなかった。
ただ、北条帝国の安寧を如何にして維持するかに奔走していた。その北条帝国建国と維持にはどうしても担保(依り代)とできる人材が必要だった。
北条の権威の源であり、最大の権威の担保でもある政子亡き後の北条を如何にして維持していくか。
そこで皇族将軍を鎌倉へ迎えて自らの血族の姫を嫁がせ、子を産ませる魂胆があったのかもしれなぅい。そして、その子を再び将軍位に擁立する。
だが、政子が担保としていた藤原兼子(ふじわらの けんし/かねこ)との約定である、後鳥羽の皇子を次代鎌倉殿として推戴する構想は後鳥羽の一言で露と消え、摂関家から新将軍が下向する運びとなった。
これに対し義時は少々の戸惑いを感じたのではなかろぅか。
だが、この後、義時は自身でも想像すらしなかったワールドが待っていた。わぁぉ(ワールドだけに)
後鳥羽上皇 黒幕説
後鳥羽の狙い
後鳥羽は京師および西国に膨大な荘園を領有していたが、東国は御恩と奉公の固い絆で結ばれた御家人衆と鎌倉殿の関係が確立していたこともあり、後鳥羽の勢力圏外となっていた。
後鳥羽の狙いは自らの院政という名の触手を鎌倉へも及ばせ、東国支配をもくろむことにあったとみる。
その障壁となったのが北条義時・政子を頂点とした北条一族はじめ、御恩と奉公に縛られた御家人の存在だった。
後鳥羽は何かと小うるさい内大臣の土御門通親が死去すると、後白河から続く通親恩顧の朝廷官職にしがみついた貴族共を一掃し、自らの人選にて自らが人事を執行し、後鳥羽派を形成した。まさに後鳥羽‥‥院!ふたりはプリキュア!変‥身っ!みたいな
言わば、後鳥羽が院政を敷いた頃の朝廷というのは、後鳥羽が「カラスは白いんじゃ!オるるぁ」‥‥と言えば、全員が右にならえで「いぇすマイろーど!カラスはもぅ永遠に真っ白白スケでぇす!アタイの心も漂白剤♡」‥‥などと声を揃えるような狂気に満ちた集団であった。
義時はそのような実態を把握し、すでに警戒していた。当然、もう1人の鎌倉の鎮守たる三浦義村へもこのことは告げていた。
万が一、後鳥羽が東国の実権を握れば一時的に高位の官職をもらえるも御恩と奉公の関係は崩壊するので、今の待遇が無くなることも告げていたのだろぅ。
だから承久の乱の折、義村は後鳥羽からの院宣を渡されても同心せず、義時と鎌倉への忠誠を誓い続けた。ほっほっほっ
計画その1(Codeネームgq001x)
実朝に官位を与えて懐柔し(実朝は後鳥羽を敬っていた)、仲章を実朝の近習兼、朝廷と幕府との連絡役(スパイ)とし、実朝を操って鎌倉における自らの院政を樹立→(官位or官職などを与えて)御家人を懐柔→東国の膨大な荘園を我が物にする魂胆。
仲章は実朝に大変気にられ、御所近くに屋地まで下賜されてい申す。アヒョっ
この構図はまさに後鳥羽の思惑通りだった。(後鳥羽ー実朝ー仲章のホットライン)
1218年(建保6年)12月、実朝は右大臣にまで上り詰めたが、あらゆる観点から危惧感を募らせた北条義時ならびに大江広元は、御家人たちの忠誠が幕府から離れていく危険性を諫言するも実朝は見向きもしなった。
しクぁし!この分裂こそがまさにぅぃ、後鳥羽の狙いだった。
計画その2(Codeネームgq002x)
(もし暗殺されていなければ)実朝を後見に据え、自らの皇子を第4代鎌倉殿に就かせて鎌倉へ下向させる。仲章を近習兼、朝廷と幕府との連絡役(スパイ)とし、院からも人材を下向させる & 鎌倉における自らの院政を確立→御家人を懐柔→東国の膨大な荘園を我が物にする魂胆。(この過程で北条を鎌倉から排除)
計画その3(Codeネームgq004x)…3は?
「官打ち」の概念を持ち出して実朝に官位を与えまくって実朝を御家人に殺させる→鎌倉から新将軍を要求→無理難題をふっかけてそれと交換条件で皇子を差し出す提案をする→鎌倉側が断る→倒幕の院宣発令
この計画3は現実のものとなっていることから、後鳥羽の計画が大方狙い通りになったことを意味する。
もし仮に無理難題をふっかけてそれと交換条件で皇子を差し出す提案をする→鎌倉側がここでOKしたとすれば、御家人をゆさぶって懐柔する→鎌倉の分裂を図る想定だったのだろぅ。
注釈💋
(ここで後鳥羽が無理難題をフっかけた条件というのは、幕府が御家人に恩賞として与えた所領は後鳥羽が愛妾(愛♡人)に与えた領地でもあるので地頭領を返還せよ。というものだった。義時は御恩と奉公の関係にヒビが入るとして断固拒否した。)
ただし!後鳥羽の院宣は義時個人に発せられたものであり、倒幕を狙ったものでは無かったとされるが、義時の排除により鎌倉の分裂を目論んだとみれる。
しクぁしながら、後鳥羽の真の狙いは幕府という存在の排除にあり、倒幕の口実が欲しかったのも事実。
なお、後鳥羽院は一旦は鎌倉側の要求を飲む形で皇子の代わりに摂関家から三寅(九条道家の三男・頼経/頼朝卿の遠戚)を鎌倉へ下向させる提案をしているが、これは自らの乳母だった藤原兼子の顔を立てた(北条政子との約定)とも考えられる。
ただ、この後、義時追討の院宣を出していることから、最悪の場合、三寅は見殺しするつもりだったのだろぅ。
倒幕の院宣を出せなかった理由
摂関家に配慮した
三寅を下向させる手前、摂関家との体面上の体裁を取り繕うためにも、倒幕の院宣は発給できなかったので、あえて倒幕から→義時個人へとスライドさせた。‥‥‥ともみれる。
東国の御家人衆を味方にするため
義時個人に追討の院宣を出すことによって、幕府ではなく義時個人の排除を希求する御家人たちの支持を集める狙いがあったとも考えられる。
‥‥以上、これら結果、後鳥羽院はまさか自身の一挙手一投足が自らの首を絞めていることになっていよぅとは夢にも思わなかったろぅ。のホホホホっ
承久の乱以前の後鳥羽院は、まさにぅぃ我が世の春を謳歌していたが、乱にて大敗したことにより朝廷権威を地に落としめ、さろぁにぃ!貴族が武家の尻に敷かれるという歴史上最大と言って良いほどの大失態を晒した公卿となった。
北条政子陰謀説
北条政子が実朝殺害を計画するとは思えないが、実朝更迭→皇室将軍擁立は想定にあったとみる。
一応、政子の気になった言動or行動も述べておこぅと思ふ。
公暁の鶴岡八幡宮寺別当就任は政子の陰謀か?
三代目八幡宮別当職にあった定暁が示寂(しじょ/他界)したことから、公暁を哀れんだ政子の計らいで八幡宮の別当に就任させた。(もしくはすでに次代別当は公暁で決まっていた)
公暁は政子の命で1217年(建保五年)6月20日に園城寺(三井寺)から鎌倉へ下向し、正式に政子から八幡宮寺4代目別当に補任された。(後に異称として「悪別当」とも呼ばれる。)
同年8月15日の放生会、同16日の流鏑馬には三代将軍・実朝も隣席してい申す。時に公暁18歳。
公暁の叔母にあたる北条政子が公暁を八幡宮の別当に補任させたのは、義時と共謀した実朝殺害計画の伏線という見解もある。
政子の実朝排除の動機とは?
政子は実朝に一向に子(嗣子)ができない事態を危惧し、1206年(建永元年)10月22日(公暁7歳)、実朝の猶子(ゆうし/体面上の実朝の子供)とした。(実朝は公暁の叔父にあたる)
また、政子は1217年(建保五年)2月4日、病気がちな実朝の快復祈願と厄除けのために熊野へ社参の途についたが、あくまでも目的は上洛にあった。
政子が上洛した目的は10年経ても一向に子ができない、実朝の次代皇族将軍の鎌倉着座を願ってのものだった。
政子は京師に逗留しつつ、後鳥羽上皇の乳母となる藤原兼子との会談を重ね、その末になんとか兼子が養育していた頼仁親王(後鳥羽天皇の皇子)を次代鎌倉殿に推戴する約束を2人の間で交わすことに成功する。
政子が官位を賜る
吉報はそれにとどまらず、兼子の口添えもあって政子にも従三位の官位が叙された。(同年10月13日には従二位に昇叙)
公暁の単独暗殺説
この説も考えられなくもないが、‥‥‥如何せん腑に落ちない。
公暁の不審点
別当に補任されてから程なく「千日参籠」と称して鶴岡上宮に籠り、暗殺までの約1年近く、剃髪・ヒゲも剃らずに出てこなかったという事実。
実朝暗殺の約一月前となる1218年(建保六年)12月5日、参籠中にあった公暁は家人の白河義典を伊勢神宮へ奉幣の使者として送ったが、‥‥不可解。
なぜ、実朝暗殺を右大臣拝賀式典で実行したのか?ほかにチャンスはいくらでもあったとみる。
「備中阿闍梨(びっちゅう あじゃり)」という謎の人物が公暁の後見役になっている。白河義典は公暁が討ち取られた翌日に自害したのに対し、備中阿闍梨は姿をくらまして逐電、その後、行方知れず。トホホっ
備中阿闍梨について
備中阿闍梨とは「備中」を冠するように備中国(びっちゅう/岡山県西部)に所縁のある人物とみる。
備中国の出身なのか?備中国の寺院に在籍していたのか?‥‥如何せん謎が多い人物。
公暁は父・頼家が暗殺された事実を知らされていなかった⁉️
これはあくまでも私見にはなるが、公暁は実朝暗殺ちょぃ前くらいまで父・頼家が殺されたことを隠されていた(秘密にされていた)のではないか?
父が暗殺されたことを知れば当然、反逆心‥‥‥というか恨心が芽生え、それは禍のタネになる。
おそらくそれを望まない政子はあの手この手と手を回しつくしたのではないだろぅか。だからとりあえず寺へブチ入れた。可愛い💕孫の不幸を誰が喜ぶ。
現在でも反抗期という言葉があるように18歳や20歳頃といえば何にでも興味を示し、暴れまくりたくなる今日この頃なムフぅんな お年・頃💕 ムフぅん
そんな公暁の純真無垢な心を弄ぶが如くに火をつけた人物がいるのではないのか。
それこそが三浦義村であり、その三浦をサポートしたのが執権・北条義時だった‥‥‥。
以上、実朝暗殺事件は権力者たちの思惑が複雑に交差していることから、その解決の糸口すら見出すのが困難な状況にあり、つまりのところ、首謀者がいたのか?それとも公暁の単独犯なのか?暗殺された理由は何だったのか?‥‥‥などなど、未だに多くの謎が残る。
旧記に見られる源実朝が暗殺された場所一覧
実は実朝が暗殺された現場は後世に編纂された種々の旧記によって内容が若干、異なるのでそれを一覧表に記し、本項はお開きにしたいと思ふ。
史料 | 史料概要 | 暗殺された場所 |
吾妻鏡 (あずまかがみ) | 正安2年(1300年/鎌倉時代末期)頃に成立。 鎌倉幕府側の公式史料。 作者未詳。 | 石階之際(八幡宮の大階段/石段の際) |
承久軍物語 (じょうきゅういくさものがたり) | 1624〜44年(寛永年間)頃に成立。 承久記の異本でもある。 作者未詳。 | 石はし(石はし=本宮前の階段?)に近づかせ給う時(本宮前の楼門を出たところ) |
承久記 (じょうきゅうき) | 承久の乱を記した公武の合戦記。 成立時期は鎌倉中期頃〜 作者未詳。 | 若宮ノ石橋ノ辺ニ近ヅカセ給フ時 |
愚管抄 (ぐかんしょう) | 鎌倉時代初期の史論書。 作者は未詳(天台宗僧侶の慈円とも)。 1220年(承久2年)頃成立。 「愚管」とは私見の謙譲語。 | 宝前ノ石橋ヲ クダツテ扈従(こしょう/貴人の供人) ノ公卿列立シタル前 |
梅松論 (ばいしょうろん) | 南北朝時代の歴史書・軍記物語。 作者不明(室町幕府側の人物とされる)。 成立は1352年〜1388年の間。 | 石橋(石橋=本宮前の階段?) |
仁和寺日次記 (にんなじおんひなみき) | 1210年(承元四年)〜承久二年、 1222年(貞応元年)の歴史的大事の記録書。 仁和寺住僧の作。成立時期は未詳。 | 於社壇(楼門を出たところ) |
百錬抄(ひゃくれんしょう) | 公卿の日記などを編纂した歴史書。 鎌倉時代後期に成立。 | 於社壇 ※社壇に於いて |
史料 | 史料概要 | 暗殺された場所 |
六代勝事記(ろくだいしょうじき) | 鎌倉時代前期成立の鎌倉期の歴史物語。 | 社壇 |
増鏡(ますかがみ) | 南北朝時代成立の室町期の歴史物語。 「四鏡」の1つ。 | 車より降るるほどを、 さしのぞくやうにして車中にて(八幡宮境内入口=赤橋あたりに比定) |
保暦間記(ほうりゃくかんき) | 1356年(延文元年/南北朝時代)頃に成立。 作者は未詳(足利方の武士とも)。 | 石橋ヲ上リ給ウヲ |
鶴岡八幡宮寺 社務職次第 | 鶴岡八幡宮に伝蔵される史料。 | 石橋中 |
「石橋」「石はし」の場所や意味について
数々の旧記に記される「石橋」や「石はし」というのは現在の鶴岡境内入口に架かる赤橋のことかと思っていたが、前述の秀吉作成の地図を見ると、本宮前の大階段に「いしばし」という文字がハッキリきりきり高坂桐乃の京介への思いほどハッキリと見える。 意味不明
どうやら往時は石階段のことを「いしばし」や「石はし」と呼んでいたと思われる。(ちなみに左側に見える「いしばし」は西側の石階段(現存))
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