「大倉郷(大蔵)」とは❓
「大倉」と書いて「おおくら」と読む。「大蔵」とも書く。
現在の鎌倉市十二所を中心とした、二階堂、西御門、雪ノ下、浄明寺に含まれる地域。
したがって現在、「大蔵(大倉)」という地名は存在せず、「雪ノ下」に含まれる。(”大蔵(大倉)幕府跡地”は古名をそのまま踏襲する。
文献上の初出は吾妻鏡の1180年(治承四年)12月12日条に、同年10月より源頼朝卿が”大倉郷”へ新邸(大倉御所)を建造し、この日、入御した旨の記述になる。
⬆️大蔵御所跡地(現・清泉小学校)
往時の大倉郷の場所や範囲(郷域)
撹勝考の見解
延宝年間(1673年~1681年)に成立の新編鎌倉志鎌倉撹勝考には次のように記される。
- 東:鶴岡八幡宮より朝比奈切り通しまで
- 西:
- 南:滑川(なめりがわ)
- 北:大蔵山の麓、瑞泉寺まで
大日本地名辞書の見解
大日本地名辞書では「鶴岡の東(西御門の南東)、荏柄天満宮の西」と記す。
日本地名辞典の見解
二階堂、西御門、雪ノ下三丁目、浄明寺、十二所一帯とする。
大蔵郷の成立
平安中期の和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)には記載されていないことから、律令制下の郷では無いとする見解もある。
平安中期以降、全国各地に荘園公領制度下の郡や郷が成立したが、大蔵郷は公領制度下の郷にはあたらないとする見解もある。
「大倉(大蔵)」の地名の由来
神の御霊を奉斎する場所=”くら”
伝承では”くら”は天然の岩場を指し、これは原初的神道の磐座(いわくら)を指すものとし、祭壇をも意味する。
それゆえ、神霊を奉斎する場所として、大倉と名付けられたとする。
郡衙(ぐんが)の”大蔵”が由来
郡衙とは、律令制のもとに日本各地に置かれた朝廷の役所。
現在までの通説における鎌倉の郡衙の場所は、今小路西遺跡(いまこうじにしいせき/神奈川県鎌倉市御成町の鎌倉市立御成小学校の校庭に位置)と目されるが、その郡衙の中にあった「大蔵」に由来したもの。
もしくは、鎌倉郡の郡衙の所在地が大蔵だった説もあり、それがそのまま由来になってい‥‥‥ます。クっ(耐)
大倉郷(大蔵)地域の特徴
中世鎌倉においては源氏三代将軍の御所(大倉御所)や、北条義時邸(大蔵館)はじめ、有力御家人衆の居館が軒を連ねるほどの政治権力の中心地だった場所。
また、それに比例するぐらい寺社も多かった。
「大倉(大蔵)」の歴史
鎌倉時代、大倉郷内に存在した建造物・寺社など
大蔵御所(大蔵幕府)、大倉観音堂(現・杉本寺)、永福寺(ようふくじ)、大慈寺(だいじじ)、大蔵薬師堂(覚園寺/かくおんじ)、五大堂(明王院/みょうおういん)、大倉北斗堂、大倉阿弥陀堂、大倉熊野堂、大蔵谷….etc
鎌倉時代、大倉郷内に宿館を有した者一覧
源氏三代将軍(大倉御所)、北条政子(東御所)、北条義時(大倉館)、北条時房の室、一条実雅、三条の局、後藤基綱、下山入道、唐橋中将、藤原親実、金沢実時、足利義氏、長能僧都、伊賀時家、比企宗員、和田胤長(北条義時)、宇佐美祐泰、宮内時秀、二階堂行政、….etc
室町時代に存在した建造物・寺社など
大倉南聖天堂、大倉稲荷、大倉尺(釈)迦堂谷、….etc
江戸時代の大蔵(大倉)
江戸時代後期
1867年(慶応3年)の村銘細書上帳の中に「十二所村、浄明寺村、二階堂村、西御門村」が大蔵ヶ谷の村々として、「谷合四ヶ村(やつあいよんかそん)(俗に”ヤツヤ”と呼ばれた)」と呼ばれた事実が記される。
また、十二所・浄明寺・二階堂は「谷合三ヶ村」とも言い、これらの村々は山仕事を共同に行うなど、相互扶助の関係にあった農山村だと記す。
大正時代初期頃の大蔵(大倉)の様子
大正時代初期頃の忠義‥‥ではなく、大倉(大蔵)!! ふぅ ‥‥は30戸ほどの民家が所在し、大蔵みち(現・金沢街道)の両側には商家が軒を連ねてい申した。アヒャっ
商家の奈良屋はこの当時、鎌倉で一番の呉服屋で他に大黒屋などの呉服屋もあった。
十二所や浄明寺、二階堂方面からの買い物は皆々、大蔵に軒を連ねる駄菓子屋、芋屋、建材屋(屋根や)、材木屋(板木や)、蕎麦屋、湯屋、質屋などへ足を運んだと云われ、賑々しい界隈でもあった。
ただ、鎌倉時代の大蔵は「町御免地区」として町屋が多く所在した地であり、明治、大正時代は現在よりも賑々しかったと伝わる。
大蔵幕府跡は一面の田んぼだった⁉️
滑川(なめりがわ)の北側の地は田畑が広がっていて、現在の鎌倉青年団の「大蔵幕府跡」の石板(石碑)が建つ清泉小学校の敷地は一面、水田が広がる風光明媚な土地だった。
その水田の前と左右周辺の土地は、「災難畑(当地に家を建てると祟られたり、災いがあるとされた場所)」と呼ばれる場所だった。