鶴岡八幡宮「三ノ鳥居」
建立年
1668年(寛文八年)
再建年
1935年(昭和十年)
建築様式(造り)
鉄筋コンクリート造、明神鳥居
鶴岡八幡宮「三ノ鳥居」の歴史・由来
神社の出入り口として、なくてはならないのが、鳥居です。
鶴岡八幡宮にも、建立当初、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の時代から鳥居はあったようですが、大風などで度々倒壊し、その度に再建を繰り返していました。
現在の一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居のルーツは、江戸幕府第四代将軍・徳川家綱が、1668年(寛文八年)に寄進した鳥居だと言われています。
それ以前は木造の鳥居でしたが、家綱は鳥居建立のために、はるばる備前国(現在の岡山県東南部)の犬島から、花崗岩の御影石(みかげいし)と呼ばれる石材を取り寄せ、石造の鳥居を建てました。
1904年(明治三十七年)、3基の大鳥居は揃って国宝に指定されましたが、1923年(大正十二年)の関東大震災で倒壊してしまいました。
現在、二ノ鳥居と三ノ鳥居は鉄筋コンクリート造になっていますが、最も海に近いところに建つ一ノ鳥居は、関東大震災の後も、1936年(昭和十一年)に石材で再建されています。
時間の許す方は、江戸時代に建立された鳥居の趣を今に伝える一ノ鳥居も、ぜひ見に行ってみてくださいね。
一方、先代の二ノ鳥居の石材の一部は、鶴岡八幡宮敷地内の鎌倉国宝館近くにある源実朝の歌碑として、三ノ鳥居の石材の一部は、三ノ鳥居から真西に6kmほど離れた、鎌倉山ロータリーにある鎌倉山の石碑として、それぞれよみがえっています。
崇源院(お江)と鶴岡八幡宮の大鳥居
徳川家綱が3基の大鳥居を寄進した背景には、祖母であり、第三代将軍・家光の母である崇源院(すうげんいん)の強い意向があったとも言われています。
「お江」という名前の方が、ご存知の方も多いことでしょう。
崇源院(お江)は浅井長政の三女で、豊臣秀吉の側室・淀殿(茶々)の妹にあたります。
NHKの大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の主人公でした。
さて、崇源院は、家綱の父である第三代将軍家光を懐妊した際、鶴岡八幡宮で安産祈願をしました。
鶴岡八幡宮は鎌倉時代から武士たちの聖地であり、源頼朝と北条政子も安産祈願をしたと伝えられる神社なので、そのご利益にあやかろうとしたんですね。
その後、無事に出産を終えた崇源院の夢に八幡神が現れ、「犬島(いぬじま)にある奇石で鶴岡八幡宮に大鳥居を建立するように」と告げられました。
そこで崇源院は、次回の修復や再建の機会には、ぜひ犬島の石で造った鳥居を寄進するようにと家光に伝えていました。
崇源院の希望は、本人亡き後、孫の家綱の代で実現されることになったというわけです。
鶴岡八幡宮「三ノ鳥居」の建築様式(造り)・特徴
鶴岡八幡宮の3基の大鳥居は、江戸時代の建立当初は石造で、石造明神鳥居としては最初のものだったとも言われています。
明神鳥居の模範とも言うべき、堂々とした、風格漂う立派な鳥居です。
明神鳥居は、最も一般的な鳥居の様式の1つです。
鳥居の一番上の笠木(かさぎ)と呼ばれる部分の両端がやや上に反っているのが特徴で、この湾曲を「反増(そりまし)」と言います。
明神鳥居は、他に、主に、以下のような特徴を備えています。
えっ⁉️一ノ鳥居が現在の三ノ鳥居だった❓
どうやら「新編鎌倉誌」や、ごく少数の古絵地図を見ると、現在の一ノ鳥居を赤橋前の鳥居(八幡宮境内入口の鳥居)とし、三ノ鳥居を現在の浜の鳥居と位置付けている模様。
つまり、鳥居をカウントする順番が現在とは真逆になっていることになる。
分かりやすく言うと、八幡宮側から→由比ヶ浜側へ向かってカウントを開始していることになる。
通常、鳥居は参拝者目線でカウントされることが多く、境内入口に立つ鳥居を「一ノ鳥居」とし、そこから2,3,4,….と本殿へ向けて進行していく毎にカウントしていく。
つまり、本殿に近い鳥居は境内入口の鳥居よりも数字が大きいことになる。
鶴岡八幡宮「三ノ鳥居」の場所
鶴岡八幡宮の境内への入り口となっているのが三ノ鳥居です。
ここが参道である若宮大路・段葛の終着点となります。
段葛のスタート地点に建っているのが二ノ鳥居で、その二ノ鳥居から由比ヶ浜方面に10分ほど歩くと、一ノ鳥居があります。
鳥居の前で一礼すると気分が変わる
幾多の天災から復活を遂げてきた鶴岡八幡宮の三ノ鳥居です。
神が降りてくる神聖な神社境内と人が住む世界の境を表す、大変重要な役割を果たしているのが鳥居なので、ただ何となく通り過ぎてしまわずに、ここで一度立ち止まり、ご祭神にご挨拶をしてから進むと良いですよ。