和田合戦とは❓
和田合戦とは1213年(建保元年)5月2日夕方、鎌倉の中心部となる大倉御所や若宮大路、由比ヶ浜周辺で繰り広げられた北条義時(北条一族)と和田義盛(和田一族)との戦いになる。
和田合戦が起こった理由(原因)
早い話が幕府内における北条家と和田家の権力闘争となる。
この頃の幕府内でも権力は、時政に成り代わって2代目として執権職を引き継いだ北条義時と、頼朝卿以来の侍所別当職を務めた幕府宿老・和田義盛とに二分されていた。
この頃の北条氏の権威とは、頼朝卿の夫人であり、義時の姉である北条政子の存在と権威を拠り所としているところが大きかったが、その政子も57歳を迎え、いつ何時、死期が訪れてもオカしくはない年齢だった。
義時は北条家の権威と地盤を確固たるものにすべく、これまで父・時政と共謀して梶原に始まり、比企、畠山といった有力御家人たちを葬ってきたが、ここに来て、いよいよその最後の総仕上げともなる和田義盛を亡き者にすることを計画していた。
なお、この両者の争いは必然といえば必然であり、私恨のみならず、例えば北条義時は伊豆武士団の頭目であり、一方の和田義盛は相模武士団の頭目だったこともあり、伊豆武士団と相模武士団とは嫌煙の仲だったこともある。
また、義時は政所の別当、義盛は侍所の別当職にあったので、幕閣内部において両者の間に意見の食い違いが生じていたのも事実。
この両者の争いが激化したのは和田義盛が上総国の国司を所望したことに始まる。まさにこれこそが和田合戦の火種(原因)ともいえるのだが、義盛の言い分には相当な無理があった。
頼朝卿の死後、北条時政は遠江守(とおとうみのかみ)、その子・義時は相模守、義時の弟・時房は武蔵守に就いた。
そこで義盛は頼朝卿の頃からの功臣だったことを背景とし、上総国(かずさのくに)の国司にしてくれるよう実朝に直訴した。
実朝は返答に困った。それもそのハズ。これまで上総国は親王任国(しんのうにんごく)であり、つまりは源氏一門でない者が国司に就任した例が、頼朝卿外戚の北条時政、幕府最大の功労者の1人・大江広元を除いて皆無だったこと。
ただ、問題はそれだけでは無かった。国司補任の可否は政所の所管するところであり、つまりは最終的に政所の長官となる義時の許可が必須となる。
その義時は義盛の嘆願など聞き入れるハズもなく、義盛が実朝に提出した嘆願書は実朝と義時との間に2年間も留め置かれる結果を生んだ。
そして2年待って音沙汰なきことにシビれを切らした義盛だったが、義時と気まづくなっている実朝の心中を察し、嘆願状を返却するよう求めた。
つまり、実朝のために一旦、上総国国司の座は諦めた恰好をとったということ。
しクぁし!
実朝は少々の逆ギレ感をあらわにし、義盛は逆に実朝から不興を買う結果を生んだ。
事がうまく立ちゆかず、憤りを隠しきれない義盛の中で実朝への不信感が芽生え、武力で以って義時を亡き者とすることを決意させた瞬間でもあった。
義盛の計画がバレた⁉️
1213年建暦三年2月15日のこと、倒幕計画が水面下で策動していた事実が発覚する。
その後、さらに調べが入ると総勢130余人もの人物がその倒幕計画に参画していた可能性が露見し、捕縛されるという大事件となった。
その翌日には上総広常の甥っ子・臼井十郎、八田知家の子・八田三郎ら十数人も連行されたが、その130余人の中に和田義盛の子・義直と義重、甥っ子の胤長(たねなが)も姿もあった。
計画が発覚したキッカケとなったのは、頼朝卿挙兵に随従した千葉常胤以来の幕府功臣の千葉家当主・千葉介茂胤(しげたね)が、義時のもとへ阿静房安念(あじょうぼう あんねん)という僧侶を謀反人として連行したことよるもの。
悪僧・阿静房安念
1213年(建保元年)2月15日、茂胤が幕府に対して常胤以来の功績を蔑ろにされている実態に不満があるハズと決めつけた安念は、倒幕計画への加担を持ちかけるために千葉の館(現在の鎌倉市役所の北側の地)を訪ねた。
阿静房安念とは信濃武士・泉親衡の郎党である青栗七郎の弟。無論、この青栗七郎はおろか、泉親衡も義盛の計画の加担者となる。うきゃ
義盛は自身が黒幕であることはバレていないことに胸をなでおろしつつも、息子たちが囚われたとあっては呑気にもしてもいられない。
‥‥ということで義盛はこの時、本宅(上総国 伊北荘)居たが、急ぎ馬を駆って鎌倉へ急行し、一族郎党98人を引き連れて実朝に面会を求め、息子らの赦免を直訴した。
実朝もこれまでの義盛の功績はよく知っていたので、その勲功に免じて息子らを釈放するよう配下へ命じた。
ところドッコイ、義時は胤長は計画の中心人物であり、赦免などすれば他への示しがつかないとし、胤長だけは赦免できないとした。
そして、わざわざ義盛の面前で、しかも義盛の一族郎党98人が見守る中、縄でしばりあげた胤長を二階堂行村の下人に身柄を下げ渡したのだった。
多くが見守る面前で面目を丸つぶしにされた義盛は恥辱を味わい(ライバル義時に負けた恰好)、まるで注いだビールが、お〜とっとっとっと‥‥などと、溢れんが如くに、義時への恨心が義盛の心中で湧きあふれたのは、もはや言うまでもなぅぃ。
首謀者・泉親衡(泉親衡の乱)
義盛の計画遂行のためには数多の加担者(協力者)を要した。
そこで義盛は上野(こうづけ)、信濃、越後、下総の武士たちに参加を求めた。(見方を変えると義盛の意志に反して息子たちが各地の武士に対し、父親の計画への協力を募っていたとも考えられる)
中でも信濃武士の加担者が多く、その信濃武士の取りまとめ的人物であった泉親衡を中心とした組織が成立していたらしく、泉親衡を中心に据えた策動網が各地に延びていた模様。
俊敏かつ隙のない義時の対応
阿静房安念が連行されたことによって和田一族の計画であることを察した義時は、まず計画に加担した上野・信濃の武士を捕縛するように命じた。
なお、この時には和田義盛には嫌疑はかかっていなかったが、義時は何故かゼカぜかコノヤローなほどに泉親衡が首謀者であると信じた。
計画に加担した多くが信濃武士であり、その信濃武士の中心的人物が泉親衡だったというだけで和田義盛にまで嫌疑が及ばなかったことになる。
なぜ泉親衡は逃げることができたのか❓
義時に捕縛された者たちは次第に計画の暴露をしはじめる。
どうやら首謀者の泉親衡は鎌倉の筋替橋の近くに潜伏しているとのこと。
そこで縛使の工藤四郎が泉親衡を捕縛するために筋替橋に急行し、実際に筋替橋付近にいた泉親衡と斬り合いになったが、泉親衡は工藤四郎ほか、数名の手勢を斬殺して逃亡した。
この後、追っ手が差し向けられた事実はなく、だとすれば、泉親衡は逃がされたともみれる。
空前のクーデター発覚❗️
さらに取り調べは続行されたが、やがて囚人に中の1人が二代将軍・頼家の遺児(三男)である「千寿丸」の名前を洩らした。
驚くことに新たに頼家の遺児である千寿を次代の鎌倉殿へ擁立し、新政権を打ち立てるという計画が発覚したことになる。
千寿丸の名前が出たことによって単なる倒幕計画などではなく、空前のクーデター計画となった。
千寿丸とは一品房 昌寛(いっぽんぼう しょうかん)の娘が1201年(建仁元年)7月にポンっ!‥と、産み落とした男子であり、この当時13歳になっていた。 ポンっ!とは出てこんやろ ..あんま調子のんな
ちなみにこの時、千寿丸の名前を口にした者の名前は判然としないが、後に計画加担者たちの一部は釈放されたり、助命されている事実を以ってして義時の謀略の一端ともみれる。(この密告者は助かったのではないか)
逆賊となった計画加担者たち
千寿丸の名前が出てきたことによって倒幕計画と新政権樹立構想が露見し、計画加担者たちの立場は大きく変わる。
一転して逆賊と相成り、斬首という判決が下されたのだった。
なお、義盛の子・胤長に関しては陸奥国(むつのくに)岩瀬群(いわせぐん/現在の福島県 岩瀬郡 鏡石町 鏡沼)に配流となった。
和田義盛の決起
和田胤長の居館は荏柄天神の社頭近くにあったが、倒幕を企てた逆臣ということで土地は幕府に収公されることとなった。
ただ、この時代、逆臣でもそれまでの功績などを加味して同族に返還されることもあったため、和田義盛は実朝に直訴し、胤長の土地の返付を求め、義盛に返還される運びとなった。
ところが、どうしたことか胤長の土地の返還は急に停止され、義時に下賜されることとなった。
義時は旧・胤長館の話を耳にすると、すぐさま実朝に迫り、胤長の荏柄前の屋地を拝領し、侍臣の金窪行親と安東忠家に分け与えた。そして、すでに館に居た和田義盛配下の久野谷弥太郎を叩き出したのだった。
一説に義時はこの時すでに義盛が首謀者であることを察知しており、義盛を挑発するための伏線であるという見方もある。
義盛の我慢はすでに限界に達しており、この一件を以ってその限界点を超えたのだった。
これ以後、義盛は義時誅殺計画を本格的に推し進めることになる。
綿密に計画された和田合戦の作戦
義盛は和田合戦(義時誅殺計画)の開始時刻を1213年(建保元年)5月3日の寅ノ刻(午前4時)と定めた。
義盛は妻の甥っ子である横山時兼(よこやま ときかね)を武蔵国 横山荘(東京都 八王子市)から呼び寄せ、綿密な事前打ち合わせを行なった。
なお、義盛の和田氏は相模三浦一族の氏族でもあったので三浦義村とは同族ということになる。無論のこと、三浦義村も同族として和田義盛に与力することになっていた。
義盛の大きな誤算
義盛はガラにもなく綿密な侵攻作戦を練ったが、弟・義茂(よししげ)の子である高井三郎 兵衛尉(ひょうえのじょう)重茂(しげもち)が北条義時に内通していたのを知らずにいた。
つまり、義盛の綿密な侵攻作戦はすべて北条方に漏れていたことになる。
義時は和田方の計画を知ると即座に三浦義村を懐柔(かいじゅう/自勢力に取り込む)する手ハズを整え、まずは義村に対し、以下の内容を記した密書を送った。
『和田殿の侵攻作戦はすでに高井三郎を通じて我の知れるところ也。これよりは逆臣となって和田と滅ぶのか、それともその縁、申し切るかは貴殿次第』
この時、義時の認めた書状には和田方の侵攻作戦の綿密な次第が記されており、この事実を以ってして義村は同族の和田義盛から離反することを決意した。
『我ら三浦、先祖の平太郎為続が八幡太郎義家殿に従って以来、源家に忠義を尽くす一族なり。北条殿は将軍(源実朝)を擁し、和田殿の作は貴殿の知れるところ。なれば和田殿に与すべからず』
義村は和田義盛に与して逆賊になることを拒み、北条義時に与力することを誓ったことになる。
和田義盛の侵攻作戦
三浦党の第一目標は開戦してすぐに幕府御所北門を占拠の上、将軍・実朝の身柄を確保すること。
これにより、執権職にある義時と実朝を分断する。
だがしクぁし!
義村は義時に懐柔されている事実を以ってして、義盛の和田合戦における作戦は開始前からすでに破綻していたことになる。
そのほかのおおまかな作戦としては、曽我、中村、二宮、河村などの西湘(せいしょう/相模湾沿岸西の地域)の武士団が和田勢の挙兵とともに横大路を占拠し、義時館と幕府(御所)との間を遮断し、義時のみを誅殺する手ハズだった。
おっぱじまった和田合戦
和田合戦がおっぱじまった時刻は義盛が計画した5月3日の寅ノ刻(午前4時)ではなく、実際はその12時間前となる5月2日の申ノ刻(午後4時)だった模様。
どうやら和田方の侵攻計画を知った北条方の奇襲からおっぱじまった模様。…さっきから”おっぱじまった”連発しとるが何かあんのか❓
北条方の指揮官を務めたのは義時の嫡男である北条泰時であった。
この当時、北条泰時の館は横大路に面した若宮大路東北隅にあったとされ、一方の和田義盛の館は現在の若宮大路沿道に建つ三井住友銀行鎌倉支店やシャングリラ鶴岡のあたりだったとされる。
泰時館を出陣した北条勢は若宮大路を左斜め方向に一直線に斜行する形で和田館に奇襲を仕掛けたと云われる。
和田方は計画通り、翌早朝(午前4時)に出陣予定だったことから、北条方に悟られないように密かにヒッソリそりそり髭剃り深剃りしちまったぜぃ‥てなほどヒッソリと戦準備を進めていたこともあり、北条方が攻め込んできた時にはわずか150騎ほどしかいなかったらしい。そろそろこのヒゲのクダリも….ふぅ
奇襲されたことに怒った義盛は力任せに奮戦すると北条勢を押し返し、逆に北条勢は同じ道を戻る形で再び泰時館へ逃げ入ったのだった。
勢いづく和田勢はそのまま北条勢を追い詰め、焦る北条勢は館に籠もる準備もロクにできずに館を西から東へと通り抜け、次に義時館(現在の宝戒寺)へ逃げ入ったのだった。
義時館での奮戦
北条勢は城壁の一部に狭間を開け、そこから弓の矢先を出して和田勢に矢の雨を降らせた。
和田勢は形勢が均衡状態に陥ったと見るや否や、かねてよりの作戦を推し進め、義時が幕府(御所)へ逃げ入るのを封じるために攻め手の一手を義時館の北東、幕府の南面となる横大路(よこおおじ/現在の八幡宮入口を東西に延びる大道)へ差し向けた。
しクぁし!時すでに遅し!
義時は自邸を放棄し、ついに幕府(御所)に逃げ込んでしまったのだった。
逆賊・和田義盛
和田義盛は北条義時を御所(幕府)内部へ逃がしてしまったことにより、かねてよりの計画は完全に破綻した。
その事実を肌身を通じて実感しつつも、幕府に逃げ込んだ姑息な義時の有り様に憤激が収まらず、ついに勢い余って御所へ攻めかけてしまったのだった。
この時点で和田勢および和田義盛は言い逃れできない完全な逆賊に成り果てたのである。
和田義盛の進攻進路
- 泰時亭→義時亭→大江広元亭→御所南門→御所
へと進攻。
なお、後述するが一旦、由比ヶ浜に退くも再び、現在の若宮大路ニノ鳥居(段葛)あたりまで攻め上がった。
炎上する幕府(御所)
幕府(御所)の守備は想定外に脆かったらしく、和田義盛の三男・朝夷那三郎義秀(あさいな さぶろう よしひで)が率いたわずか数十騎は、造作もなく幕府を占拠したのだった。
しクぁし!
義時の姿はドコにも見当たらず、とりあえず義秀は御所に火をかけて義時を燻り出すことにした。
実はこの時、義時に内通した三浦義村は幕府北門を封鎖していなかったため、大江広元の勧めもあり、広元はじめ実朝や義時などの諸将は北門から出て御所北側の小山にある頼朝卿の法華堂へ逃れることができたのだった。
義盛は三浦義村が北条方に与している事実など知る由もなく、御所の北門は義村によって封鎖されていると思い込んでいた。
義盛が御所を占拠した頃、御家人衆のうち、五十嵐小豊次(いがらしこぶんじ)、葛貫三郎盛重(くずぬきさぶろうもりしげ)、新野左近将監 景直(しんのさこん しょうげん かげなお)、礼羽蓮乗(らいば れんじょう)ら御家人衆が援軍として馳せ参じたが、すべて和田方の朝夷那三郎義秀に討ち取られた。
しかしここで義盛の予想だにしなかった事態が起こる‥‥。将軍と執権を護るべく、はたまた逆賊・和田義盛を討滅すべく、続々と御家人衆の手勢が鎌倉市中に集結しはじめたのだった。
北条方に馳せ参じた武将一覧
- 足利義氏、佐々木義清、結城朝光、大内頼茂、三浦義村….etc
四方から御家人衆たちの兵馬が出現しはじめると、和田勢は南への退却を余儀なくされ、由比ヶ浜を目指してジリジリと後退を開始した。
和田勢が由比ヶ浜へ引いていく様子を見た北条泰時は軍勢を若宮大路の中ノ下馬まで押し進め本陣を置き、小町大路には足利義氏が陣取り、和田方の側面からの急襲に備えた。
また、三浦道は大内頼茂、武蔵大路には佐々木義清、結城朝光が陣取り、同じく急襲に備えたのだった。
若宮大路の合戦
武蔵国から和田方の援軍となる横山党3000騎が姿を表すと和田勢は歓喜に沸き立ち、にわかに勢いづいた。
活路を見出し、勢いづいた和田勢は再び北上を開始し、若宮大路で泰時軍と戦闘を繰り広げた。
大幅に遅延となったが、辰ノ刻(午後8時)頃になると和田方の援軍として西湘の武士団が参陣し、和田勢はさらに活気づいた。
泰時の調略
泰時は西湘の武士団が遅延したことや現地に到着してからの動きが鈍い点に着目すると、以下のような密書を認め、西湘の武士団諸将へ送り届けた。
『父・義時ならびに将軍の身柄は無事。なれば、ただちに逆賊・和田義盛を討滅せよ』
西湘の武士団諸将は動揺を隠しきれなかったが、和田義盛とも盟約を交わしていたこともあり、とりあえず中立の立場をとって八幡宮西側の馬場小路に留まった。
これこそまさにぅぃ!西湘武士たちの胸中を推し量った泰時の謀略であり、泰時は和田方から西湘の武士団の戦力を削ぎ落としたのだった。
義時の調略
西湘の武士団の動揺した様子を策士の義時は見逃さなかった。
義時は北条有利な状況を察するや否や、実朝の花押を押した出陣催促状を、それまで戦況を傍観していた御家人衆どもに送りつけた。
さらに武蔵と相模はじめ、その隣国にも、自らと大江広元とが連署した下知状を発給した。
義時は書状に「和田方の敗北はすでに見えたり。なれば早々に軍勢を起こし、討ち取りて巧名を立てるがよし』と書き記し、あたかも勝敗の行方は北条方の勝利で決したようなことを記したのだった。
これを読んだ諸将は雪崩を打って手柄を我先にと軍勢を繰り出し、鎌倉市中になだれ込んだ。
この状況を見た歴戦の勇士・和田義盛は自軍を一喝して士気を上げ、和田勢は再び息を吹き返すと、義盛は全兵力を若宮大路へ集中させ、赤橋に本陣を構える泰時めがけて突撃を敢行したのだった。
しクぁし!
突撃は難航した。若宮大路の左右に設けられていた土手から北条方の射手が矢を射かけ、さらに北条勢はニノ鳥居前には逆茂木(さかもぎ)を配置していたこともあり、義盛の突撃は完膚なきまでに封じ込まれ、逆に窮地に陥った。
この状況を見た和田の将・土屋義清は長谷小路を抜けて迂回する形で八幡宮前の赤橋に陣取る泰時本陣を突く作戦を立案し、一手を率いて駆けた。
土屋勢の勢いは凄まじく、一気に赤橋の泰時本陣へなだれ込んだ‥‥と、思いきや!
突如、源平池(現在の平家池)池畔の茂みから射手が現れ、矢の雨を降らせると土屋義清は首を射抜かれ、土屋勢は瞬時に全滅した。(後世、この時、土屋義清を射抜いた矢は神鏑(しんてき)と称されたとのこと)
そぅ!脇の守りをあえて緩くし、射手を茂みに配置した泰時の策にまんまと土井義清は乗せられたのだった。
和田合戦の結末
酉ノ刻(午後6時)、若宮大路では義盛率いる和田勢と、北条泰時率いる北条勢との激しい戦闘が繰り広げられていたが、義盛の四男・左衛門尉 義直が、義時麾下の伊具馬盛重(いぐま もりしげ)に討たれると、愛息を討たれた和田義盛は号泣して怒り狂い、我を忘れて盛重めがけて突攻を仕掛けた。
しクぁし!
感情に支配され、涙で覆われた義盛の目に視界という視界は失われてい申した。結果、北条方の将・江戸能範(えどよしのり)麾下の雑兵にあっけなく討ち取られたのだった。
義盛を失った和田勢は総崩れとなり、由比ヶ浜へ逃げ込むようしてジリジリと追い込まれて行き、そして由比ヶ浜の砂上で最期の時を迎えた。
和田一族の首実検
日没はとっくに過ぎ、すでに空には星々が煌めいていた。
泰時は由比ヶ浜に仮屋を建てて、和田方の諸将の首を集めて収めておくように命じた。
ほどなくして、首は固瀬川(片瀬川/現在の境川)の河口に運ばれて晒され、浜辺一面に灯りを灯しての首実検が行なわれた。
この首実検には義時が直々に現地に赴き、侍臣の金窪行家と安東忠家に松明(たいまつ)を持たせて1つ1つ検分していくような形で首実検が進められたと伝わる。
和田塚の存在
一説にこの時の和田一族の首や胴体は現在、江ノ電の和田塚駅付近に築かれた和田塚に埋められたと伝わる。
和田塚の詳細については下記ページを‥‥‥要チェックやでぃ! by.彦一
和田合戦が起こった原因
義時の陰謀説
上記、幕府転覆計画の首謀者であった泉親衡は有力御家人などでは無く、和田一族のパシリ(使者)的な立場だったとする見解がある。
また、その泉親衡は行方不明となり、以後、追討されたことは記されておらず、さらに計画策動の中心人物だった胤長以外の他の武士たちも一部は、赦免もしくは助命されている事実を以ってして、これはすべて北条義時の手の内にあった策謀だった可能性がある。
義時の狙い(目的)
和田義盛を謀反人にして葬ること
「彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず」。
義時は義盛の短気でガサツ、深読みしない性格や、一方で情に厚く一族郎党に慕われていた事実などを鑑み、まずは義盛の蜂起を促すことにあったとみれる。
私情ではなく幕命によって和田義盛を葬ること
この時代、個人間の争いは頻繁に起こっていたが、その場合の制裁は基本的に幕府が関与しないことになっていた。
そこで実朝を利用して義盛の面前に胤長を連行し、大勢の前で義盛に恥をかかせた。
いわば実朝を共謀者に仕立てることによって義盛に自身(義時)の殺害のみならず、倒幕への動機をも求めさせた。
ただ、捕縛した130余人の中の1人が「千寿丸」と口にしたとするのには違和感が残る。これ、義時から「千寿丸の名前を口にするだけで釈放してやる」などと告げ口されて説得された可能性もすてきれない。
北条と和田の争いであれば個人間レベルの一争いで終わるが、それだと疲弊して共倒れ状態になり、三浦義村や小山朝政などの有力者が新たな権力者の椅子に座る可能性もある。
仮に和田方の倒幕計画が露見すれば、幕命によって集められた御家人たちの兵力に最大限の期待を寄せることができるので、私兵ではなくなると同時に自勢力の規模を損なわずに和田を葬り去ることができる。
そのためにはどうしても実朝を計画に登場させる必要があった。
実朝の身柄を確保すること
そして忘れてならない肝心なことは実朝の身柄を必ず確保しておく必要があったこと。
実朝の身柄が陣中にあれば、その軍は一応は官軍になるので攻撃を仕掛けた方は必然的に逆賊扱いにもなる。
だから両者にとって実朝の確保は急務だったが、どうやら実朝争奪戦においては義時に軍配が上がった模様。
義盛を逆賊にするために幾重にも張り巡らされた義時の罠
義時は形式的にでも実朝を計画に参加させるために、事前にいくつもの罠(策)を配置したが、その最後の策謀の曲輪となったのが御所(幕府)だったのではないか。
義時は義盛が軍兵を招集しているのを察知すると、泰時に義盛館へ奇襲を仕掛けるように命じ、義盛を怒らせて追撃してくるよう仕向け、泰時館へと誘い出すよう命じた。
その後、一旦、泰時館を入るそぶりを見せ、実は放棄してそのまま→義時亭へと退却してくることを命じていたとも考えられる。
そして自身はギリギリまで幕府(御所)には入らず、義盛を散々に痛めつけて怒らせ、今さら簡単に退きさがることなどできない状態にまでしたところで、御所(幕府)へ逃げ込む手ハズだった。
幸い義時亭と御所(幕府)とは目と鼻の先だったので計画はすんなりと進めることができた。おそらく御所南門近くに広元亭があったので広元へも事前に懐柔の手をまわしていたと考えられる。
(義時は、おそらく義盛が攻め込んでくることを知りつつも呑気に囲碁に打っていたことや、広元も宴会に興じていたいうのも義盛挑発の策のようにも思える‥)
義時が怖れた三浦義村の存在
父・時政から執権職を継いだ義時だったが、この頃、北条氏と和田氏、三浦氏が幕府内で確固たる勢力を誇り、中でも北条氏と和田氏の趨勢は際立つものがあった。
義時が最大の危機感を抱いていたのは、その和田氏と三浦氏が同族同士であり、その同族のよしみで和田氏と三浦氏が協合することだった。仮にもし両者が手を携えた場合、その勢力図は北条氏を凌ぐ規模になる。
もしそうなって仮に両者が実朝の懐柔に動いたとすれば(もしくは新政権樹立)、北条政権はじめ、北条一族の存在そのものが危うぃものとなる。
そこで義時は考えた。
まず、旧知の仲でもある三浦氏の当主・三浦義村の懐柔に動いた。
おそらく和田合戦が始まる想定で事前に義村と示し合わせ、すでに義村を北条側の将として取り込んでいたのだろぅとみる。
一方の義村は表面的には和田義盛に与力し、戦前の評定(軍議)においては御所の北門を固めて逃げ来る実朝を捕らえる手ハズだった。
ところがこの策はすでに義村を通じて義時の知れるところにあり、最終的に義時は御所の裏山(頼朝卿の法華堂)へ逃げ込む手ハズになっていたとも大いに考えられる。(実際、義時は実朝を連れて北門から出て裏山へ逃げ込んでいる)
ただ、5月2日に和田館の近くに住む筑後 左衛門尉 朝重(八田知重)が、和田館に軍兵が招集されている事実を大江広元へ伝えたが、実はこの頃、三浦義村は和田義盛からの離反を決意し、和田勢の動向を義時に知らせ、義時は対策を講じたともある。
この時点で講じる対策とはいったい何だったのか?‥‥‥などという疑問も残る。
「友を食らう三浦の犬」
和田合戦は開戦からわずか3日で終結を迎えたことになるが、この合戦は開戦前からすでに決着がついていたともいえる。
それこそまさにぅぃ!三浦義村の裏切りがすべてを決定づけたともいえる。
合戦後半になって北条勢が官軍と化すと、逆賊・和田狩りムードになって波多野忠綱(はたの ただつな)は三浦義村と功名を競ったが、義時は忠綱にこぅ告げた。(三浦と波多野は嫌煙の仲だった)
「こたびの合戦は三浦の力によるところが大きいのは皆々、周知の事実。じゃから穏便に義村を勝たせてやってくれ」
吾妻鏡によると、和田合戦後、三浦義村は「友を食らう三浦の犬」と陰口を叩かれるようになったと記す。
【補足】もう1つの和田合戦
吾妻鏡によると、戦いは5月2日の夕方、和田方の将・朝夷那三郎義秀の手勢が御所(幕府)の門を突き破って御所内になだれ込んだことに始まるとする。
和田方が御所へ攻め寄せた時、御所南門近くにあった大江広元亭では宴会の真っ最中だった模様。
また、広元亭から目と鼻の先に位置する義時亭では、義時が囲碁を打っていたとされ、だとすれば義盛の御所攻撃は奇襲に近いものがあったことになる。
義時は義盛の攻撃の手がかかったのを知りつつも動揺して取り乱すことなく、碁盤の目を数えるぐらいの余裕があったらしい。
あとの次第(流れ)は上掲に書き記した通り。
いずれの説が正しいのかは現在に到っては判然としないとのこと。