【鎌倉十橋】琵琶橋の場所や名前の由来&歴史(架けた人)とは❓

「琵琶橋」の読み方

びわばし

琵琶橋とは❓

鎌倉十橋の1つ。

佐介ヶ谷から流下する佐助川が若宮大路を横断した地点に架けられていた橋。

現在はコンクリートの高欄(こうらん/手スリ)のみが若宮大路両脇の歩道に見える。

琵琶橋の別名

牛渡津橋




琵琶橋の名前の由来

1685年(貞享二年)に編纂された新編鎌倉誌によると、ニノ鳥居、三ノ鳥居の間の路。古くは外の方へ曲がって、琵琶の形の如し。ゆえに琵琶小路と云ふ。此の間に橋あり。琵琶橋と云ふ。」と記される。

新編相模国風土記稿にも、やはり琵琶の形に似た路(道)が琵琶小路と呼ばれたことに端を発し、その琵琶小路に架かる橋であることから「琵琶橋」と呼ばれたと記す。

現在でも平均海水面から3メートルほどの高さしか無く、往時は琵琶城の沼沢地(低湿地)だったことが想定される。

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琵琶橋の歴史

1213年(建保元年)5月2日

吾妻鏡の1241年(建保元年)5月2日条によると、和田合戦の折、朝比奈義秀(朝夷那義秀)が牛渡津橋(うしわたつばし)を渡って若宮大路の西頬(にしつら)に出て北上したところ、ちょうど若宮大路の東頬を南進していた武田信光・信忠父子と、米町口(小町口)にて互い妻手(めて/右手)を以って行き交わしたと伝わる。

この牛渡津橋というのが後世の研究にて現在の琵琶橋ことだとされる。

また、朝比奈義秀が宍戸左衛門家政を琵琶橋の上で討ち取ったとも記す。

琵琶橋の下を流下する川は「佐助川」

佐介ヶ谷から流下する佐助川(佐介川)は現在、は暗渠化してい‥‥‥申す。アっ

琵琶橋の案内板の内容

琵琶橋と琵琶小路

「日本の道百選」の一つ「琵琶小路「(別称 若宮大路)」。

ここにはかつて擬宝珠(ぎぼし)のついた朱塗りであった鎌倉十橋の一つである「琵琶橋」が架かけられている。

これらの名の由来は、昔この辺りに弁財天が祀られ、その祠をさけるように道が湾曲し、その形が「琵琶」の胴の曲線のようだったためであると伝えられている。

その後、源頼朝が妻・政子の安産祈願のために鶴岡八幡宮に祠を移し現在のような一直線の道に直させた。

古来より女性に大変縁起深いとされており、転じて「縁結び通り」とされることがある。

琵琶橋

若宮大路のニノ鳥居から一ノ鳥居までの間は「琵琶小路」と呼ばれ、橋の名はこれにちなんで名付けられたという。

昭和30年頃までは擬宝珠のついた朱塗りの橋であった。

「琵琶小路」の由来は、道筋に弁財天をまつる祠があり、このため道が湾曲していたが、その曲がり具合琵琶の曲線に似ていたことによるとする説と弁財天が琵琶を抱いていたからとする説とがある。

なお、祠は鶴岡八幡宮の池畔に移され、道をまっすぐにしたと伝わる。

琵琶橋は、若宮大路を横切って滑川に注ぐ佐助川に架かり、鶴岡八幡宮参道を維持する上で古来から重要な箇所である。また、和田合戦の舞台の一つになったという伝承から、軍略城の拠点箇所でもあったと考えられている。

琵琶橋の場所(地図)

鎌倉駅から徒歩約15分。

新編鎌倉誌の記述や、鶴岡八幡宮図によると「ニノ鳥居と三の鳥居の間」と記されるが、実際のところ、それよりももっと由比ヶ浜寄り。

厳密には現在の鎌倉女学院(由比ヶ浜二丁目10-4)前から横須賀線の高架あたりまでとするのが正しぅぃ。

 

 

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