「歌ノ橋」の名前の由来
武人でありながらも歌人として名を馳せた渋川 刑部六郎 兼守(しぶかわ ぎょうぶ かねもり)が架橋した橋であることから歌ノ橋と呼ばれる。
実際、この橋が架橋されるキッカケとなったのは渋川が綴った10首の和歌に基づく。
歌ノ橋の歴史
和田合戦が起こる少し前となる1213年建暦三年2月15日、倒幕を示唆する計画が発覚し、その後、さらに調べが入ると総勢130余人が加担者として捕縛されるという大事になった。(泉親衡の乱)
その翌日には上総広常の甥っ子・臼井十郎、八田知家の子・八田三郎ら十数人が加担者として連行されるに到った。
この約130人の中には、鎌倉幕府宿老・和田義盛の子である義直と義重、甥っ子の胤長(たねなが)が居たが、ほかに渋川 刑部六郎 兼守という武士がいた。
この渋川刑部は上野国渋川保(しぶかわほう)の領主であり、清和源氏 足利流の出自と伝わる。
建保元年2月25日のこと、自身の身柄を預かる安達景盛(あだち かげもり)より、
『明暁(みょうきょう/次の日の明け方)、斬首のこと あるべし』
と知らされると、渋川刑部は人生最期の歌として10首の和歌を詠み、荏柄天神(えがらてんじん)へ奉納することにした。
歌の内容
伝承によると、冤罪(えんざい/無実の罪)によって処罰される、哀れな我が身に対しての悲嘆の念が込められていたそうな。
だがしクぁし!
渋川はどうやら頼家の子である千寿丸を擁立し、実朝政権の転覆を企てた一味(与党)とされていたが、実際のところ渋川はこの計画に加担していなかったらしい。
安達景盛から斬首を知らされた夜、荏柄天神では工藤藤三祐高(くどう すけたか)が参籠していたが、その明朝、祐高が参籠を終えて社殿を出て来たところ、見慣れぬ和歌が目に入り、それを見た祐高はその異才ぶりに驚いた。
祐高はすぐさまそれをすべて書写して実朝へ見せた。
和歌に造詣の深ぃ実朝は兼守の和歌に心打たれると、すぐさま御前へ出仕させよと命じたが、これから処刑される囚人だったことを知る。
事の次第を知った実朝は急使を発し、渋川の処刑を即座に中止させ、釈放したのだった。
吾妻鏡には『天神の利生(りしょう/利益)に預かり、また将軍の恩化(情け)を蒙る(賜る)』と記し、鬼神をも感動させるほどの和歌であることが記されてい‥‥‥申す。アヒョっ
その後の渋川兼守の行方
渋川兼守は和歌を荏柄天神社に奉納したことに霊験を感得し、「きっと神仏が自らの和歌を気に入ってくれた」‥のだと、深く荏柄の神に感謝するとともに帰依を表した。
後日、渋川は荏柄天神社参道南端を流下する滑川(なめりかわ)に橋を架橋して参道を整備した。
これが現今にまで語り継がれる「鎌倉十橋」の1つ「歌ノ橋」だと云われる。
荏柄天神=冤罪救済の神とも
ちなみにこのような渋川の故事は太宰府へ流された菅公(かんこう/すがわらのみちざね)が死した後、冤罪の判定を司る神として、その”功徳”を女性を激しく”口説く”💕かの如くに強調しているとみられる。
その口説く信仰‥‥ではなく、冤罪の判定を司る神であるという信仰!!の一端がこの故事によく現れているとみれる。チュ💋
毎度おなじみ!鎌倉市青年団の石碑
碑文(内容)
鎌倉十橋ノ一(1つ)ニシテ建保元年(1213年/皇紀一八七三
)二月渋川刑部六郎兼守謀叛(むほん)ノ罪ニヨリ誅セ
ラレントセシ時愁ノ余リ(無念の余り)和歌十首ヲ詠ジテ荏
柄天社頭(現・荏柄天神社)ニ奉献(奉納)セシニ翌朝将軍 実朝伝聞セラレ
御感アリテ(感動して)兼守ノ罪ヲ赦レシニヨリ(釈放)其ノ報
賽(助けられたお礼)トシテ此ノ所ニ橋ヲ造立シ似テ(橋を架けて)神徳(神のご加護)ヲ謝シ
タリト伝ヘラレ此ノ名アリ
昭和十二年三月建 鎌倉町青年団
歌ノ橋の下を流れる川は「二階堂川」
二階堂川(にかいどうがわ)は鎌倉最大の川である「滑川(なめりがわ)」支流の川となる。
「歌ノ橋」の場所(地図)
鎌倉駅の東口(JRの改札側)を出て鶴岡八幡宮を目指し、そのまま横大路(金沢街道/六浦路)を直進すること約20分。