【梶原景時ゆかりの地】梶原屋敷跡&梶原井戸の場所や歴史|鎌倉十二所

梶原屋敷の場所とは?実在したのか?|鎌倉十二所

鎌倉幕府草創期の有力御家人・梶原景時は、鎌倉西端となる梶原ヶ谷以外にも鎌倉東端の十二所にも居館が与えられた。

以下にて述べるのは十二所の梶原館となる。

実のところ、梶原景時の十二所館の場所は明らかにされておらず、現在、「梶原井戸」と称される井戸のみが伝承され、この井戸の場所に梶原十二所屋敷があったと云われる。

梶原十二所屋敷の場所

明王院入口正面より延びる参道から左斜めに奥へ延びる脇道へ入り、山林中の道を進んだ先に位置する。

左側には鎌倉グリーンテニスクラブの敷地が広がり、当テニスクラブの看板が立つ後ろの絶壁には往時の梶原屋敷の櫓門跡があるらしい。

下掲写真の目玉親父の場所に注目💘

奥へ入るに従って切り立った懸崖に囲まれた地形がいっそうと増し、当地が谷戸状になっていて、梶原屋敷が縦長状に建っていた様子がつぶさに感じられる。




梶原景時屋敷跡は現在、民家(工場?)になっている。

梶原井戸は鎌倉市の所管にて辛うじて残されてはいるものの、井戸後方にはロープが張られた民家(工場?)があり、内部へは住居不法侵入罪に問われるため近づけない。

だけれども、Googleマップなどで上空から当地の地形を見ればそれは納得ができるのだが、井戸周辺だけ平場になっていて、まさに当地に景時の屋敷が建っていたことをプンプンとデカ蠅が飛び交う干からびた馬糞のごとくに匂わせる。 よぅ分からんわ

酔鯨館と呼ばれる風変わりな小さな美術館の敷地に来れば、景時の時代の名残りを少し感じることができる。

当地は明王院前に架かかる橋から梶原井戸のある場所に向けて、なだらかな坂になっていて最奥の平場が高くなってい‥‥申す。

それがゆえ、おそらく最奥の平場(現在は工場?)のあたりに景時の寝所が在り、手前に一族郎党の邸宅が連なるようにして建っていたのではないか?‥‥という想像が成り立つ。

鎌倉・酔鯨館

ちょ〜っとここで面白い建物を発見したので紹介しておこうと思ふ。

まさかこんな山奥にアーティスてぃん‥‥てぃっく?舌まわらんワ。 『アーティスティック』!!‥‥な建物があるとは思わなんだ。

この建物の入口付近にはシロナガスクジラやジョーズ級の大人男子まる呑みサメ公などのオブジェが置かれているなど、この谷戸には似つかわしく無い風変わりな風情を最大限に醸してい申す。ぴゃっ

シ・ロぉっNAGASU〜(あ!マッコウの方か?)

サメKOU〜 柴咲‥〜

で!

この建物の奥の方へ行くと扉とその右脇に表札があって、目をやると「酔鯨館」と表記される。

どうやら芸術家が自身の作品を展示している美術館と思われる。

⬆️ドッジボールで敵全員の標的にされて集中攻撃されまくった コレどないしまんねん! てなった心境ほど噂の‥‥「酔鯨館の表札」

実際、Googleマップにも「酔鯨館」の名前とFacebookのリンクが掲載されていて、リンク先ページ(おそらくHP)を見ると案の定、芸術家が作品を展示している施設となる模様💘

ただ、残念ながらロケ当日は当美術館は休館の上、中には誰もおらず、内部の様子が見れなかった。トホホ

しクぁし!

当美術館のFacebookを拝見すると、まるで宮崎アニメの世界感を具現化したような異世界チックになっていることが分かった。

‥‥ということで以下に当館の情報を掲載しておこうと思ふ。

大河の聖地巡礼で十二所まで来られたのであれば、良き気分転換になると思ふ。

  • 住所:神奈川県鎌倉市十二所22
  • 入館料:500円(要問合せ)
  • 駐車場:有り(10台以上)
  • URL:facebook(酔鯨館)




梶原井戸の様子

‥‥‥正直、これが梶原景時が使用していた井戸だとは思いたくもない。‥‥‥というよりも、現在のこの井戸の有り様を見て、一体誰が鎌倉時代より伝わる梶原井戸だと納得できるのか。

井戸の周りは陰毛級に木々の枝や間延びした雑草の葉々で覆われ、井戸がその下にあることすら分からぬぅぁい。

葉や枝を払いのけてようやく、それが井戸だということに気づく。うぎゃぎゃ

梶原井戸周辺の景観

⬆️道の延長上にロープが張られているのがお分かりいただけるだろぅか。

なぜか梶原井戸の前から今来た道を振り返って撮影してみた

なぞのヤグラ(横穴)発見!




十二所・梶原景時館の歴史

1999年(正治元年)10月28日、景時の讒訴を糾弾した結城朝光をはじめとした御家人衆が鶴岡八幡宮の廻廊に参集した。

集まった御家人衆の数は総勢66人にものぼり、皆それぞれが景時弾劾状に連署し、二代将軍・頼家に提出した。(梶原景時の変)

同年11月13日、頼家より召喚された景時は弾劾状を見て驚き、頼家より弁明を求められたが、一言も口を開けなかったと伝わる。

この当時、景時は頼家の数少ない良き理解者であったが、行き過ぎた景時の挙動はすでに御家人衆が知れるところにあり、結果、景時を鎌倉より放逐することになった。

景時は一族郎党を引き連れて鎌倉を去り、自らの所領のある相模一宮(寒川町)へ向かった‥‥。

グぁ、しクぁし!

同年12月9日、一時的に鎌倉へ帰還することが許されるも、結局、同18日になると再び、罪状を問われて鎌倉を追われることになる。

鎌倉を去った後、景時の十二所の所領ならびに屋敷は破却され、屋敷の廃材は永福寺の僧坊に下賜されたと伝わる。

一方の景時は密かに後鳥羽院の臣下として院に仕える密約を交わしていたとされ、一族郎党を引き連れて後鳥羽院の待つ、京都へ出立したのだった。

‥‥そして、翌年1200年(正治二年)正月20日の夜(亥の刻/午後10時頃)のこと。

ちょうど駿河清見関(現・清水市興津清美寺町)で待ち伏せしていた吉香一族は、景時一行が通りかかったところで襲撃し、景時以下の一族郎党はすべて討ち取られた。

一説に北条義時が追っ手を差し向けて殺害させたという説もある。

梶原ヶ谷の景時所領の処分

景時が鎌倉を去った後、鎌倉西端に在った景時の所領の1つ、梶原ヶ谷(現在の鎌倉市梶原/梶原住宅)はどぅなったのかは分からぬぁい。

ただ、織豊時代になってから文献に登場し、なんでも鎌倉党の梶原太郎景久以降の梶原一族が代々、根拠地とした(住み着いた)と伝わる。(景久は梶原景時の後裔にあたり、尾張梶原氏の出自とされる。織田信長の家臣として羽黒城主を任されていた。)

注意!「梶原井戸から伝・大江広元の墓へは行けない」!

Googleマップで見ると梶原井戸の奥から伝・大江広元の墓へ行けることになっているが、上記で記したように当地の最奥には工場?民家?‥が建っていて、入口となる通路にはロープが張られていて、それ以上、先へ進めなぅい。

⬆️ウっすらと白い透明線が見える。

つまり、明王院前の橋から梶原井戸へ延びる道は最奥に位置する工場?民家?が建っている実態を以ってして、行き止まりとなる。

実際に丘上を通るハイキングコースから当地(工場?民家?)を眼下に見下ろしたが、かろうじて麓へ降りる獣道のようなものは在ったものの、すでに整備された道ではなく、その上、急勾配になっていて危険を伴ぅことが分かった。

‥‥ということで梶原井戸→伝・大江広元の墓→といぅ効率良き超楽ルートはマヤカシ(幻影)であり、ここは素直に明王院裏からハイキングコースに入るしか選択肢が無ぃ‥ということになるのだろぅ。グぎゃぎゃぎゃ

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