鎌倉五名水とは?
鎌倉内の湧水の中でも、飛び切り透明かつ、美味、安全(毒気が無い)とされる5ヶ所の湧水のこと。
ゆえに名水と区分付け、鎌倉五名水と名付く。
鎌倉五名水が創設された理由と経緯
江戸時代、水戸光圀が鎌倉に自邸を構え、自身の旅日記となる「新編鎌倉志(しんぺんかまくらし)」を発行すると、鎌倉の地名は瞬く間に全国に広まり、鎌倉遊覧が盛況となる。
その後、文禄年間には江ノ島詣が盛行するなど、おそくらこれらの時期に鎌倉を行き交ぅ、人々の間で発生した鎌倉の名数の一種なのだろぅ。
鎌倉は水には恵まれながら水質は悪かった
鎌倉の街は、南面を由比ヶ浜(相模湾)に臨んだ扇状地帯とし、その周りを谷戸が織り成す山々に囲まれた特異な地形をしており、それら山々から流れいづる川水は由比ヶ浜へと到る。
ゆえに鎌倉は地面を掘れば水が湧き出るような水に恵まれた街のように思われるが、実際はそぅではない。
湧水は豊富でも鎌倉の水は古来、水質が悪く、綺麗な泉は貴重とされた。
鎌倉五名水一覧
1685年(貞享二年)編纂の鎌倉誌には以下で挙げるような「鎌倉に五名水あり。」と記される。
金竜水(きんりゅうすい/山ノ内)
現在、跡地としてのみ現存。(井戸自体は見れない)
かつて、建長寺門前の信号付近に在ったが、巨福呂坂道路拡張工事の際に埋められ、後世、その場所を示す敷石のみが残った。
現在、煉瓦色(赤茶色)の四角ぃタイルが敷かれ、井戸があった名残を示す。
徳川光圀の「鎌倉日記」にも「門前ノ池ハ金龍水ト云名水也」と記される。
新編鎌倉志に描かれる建長寺境内図には往時の当井戸の存在が確認できる。
場所(地図)
銭洗水(ぜにあらいみず/佐助ヶ谷)
銭洗弁財天(宇賀福神社)境内奥の岩窟内部に湧き出る清水。
源頼朝が巳の年、巳の月、巳の日の夜の夢枕に老仙が立ち、夢告を得て発見した泉だとも。
星霜経ると、今度は時の執権・北条時頼が、この水で金銭を清めると不浄塵垢が解消し、清浄の福銭になると人々に伝えた。
以来、この水でお金を洗うと何倍にも増えて返ってくるという俗信が生じる。
現在でもこの伝承は受け継がれ、巳の日になると、お金を洗って商売繁盛や福徳を祈願する参拝客で溢れかえる。
場所(地図)
日蓮乞水(にちれんこいみず/名越)
1253年(建長五年)、日蓮上人が安房国から名越の峠(名越切通)を越えて鎌倉に来訪した際、喉の渇きを潤すために手持った杖を地面に突き出すと水があふれでてきた。
その杖を指した場所は干ばつでも渇水することなく清水を湧き出させ、人々の喉を潤し続けた。
その霊験から人々の間で日蓮乞水と呼ばれるようになった。
場所(地図)
梶原太刀洗水(かじわらたちあらいみず/十二所)
1183年(寿永二年)、源頼朝卿の命を受けて上総国最大の大豪族・上総介広常(かずさのすけ ひろつね)を斬殺した梶原景時は、広常の血が大量に付着した血太刀をこの水で洗ったという伝承がある。
ゆえに後世にて「梶原太刀洗水」と呼ばれる。
場所(地図)
風呂嫌い‥ではなく、不老水!(ふろうすい/山ノ内)
不老水は現存せず
※不老水は鎌倉学園(建長寺境内)が建設された際、消失してしまったらしく現存せず。(同学園の運動場(バックネット近辺)に在ったらしい。)
場所(地図)
以上の内容は他にも次のような旧記にも記される。
鎌倉攬勝考(かまくららんしょうこう/1829年(文政12年))
新編相模国風土記稿(しんぺんむさしふどきこう/1830年(文政13年)に起稿し1842年(天保13年)に成立)
江ノ島紀行に記される鎌倉五名水
1855年(安政二年)編纂の江ノ島紀行には、上記の旧記とは少し異なり、「五名水の内かんろ水」が浄智寺境内入口左脇に在ると記す。
鎌倉実測図に記される鎌倉五名水
1891年(明治二十四年)編纂の鎌倉実測図には不老水の代わりに上記の甘露水を含めた五名水としてい‥‥申す。きゃ
鎌倉七名水もあった?!
1644年(寛永二十一年)頃に成立した玉舟記では五水ではなく、以下、「七水」と記す。
- 金竜水(きんりゅうすい)
- 扇ノ井(おうぎのい)
- 星月夜(ほしづきよ)
- 部屋ノ井(べやのい)
- 鉄ノ井(くろがねのい)
- 飯島ノ井(いいじまのい)
- ‥名称不記入の謎の井戸‥
金兼藁が記す鎌倉七名水!
五名水・十井が成立する以前には聖数(せいすう/聖なる存在を数値で表現)を用いた「七水」なる名数も在った。
1659年(万治二年)に林羅山もしくは林読耕斎が編纂した金兼藁(きんけんこう)では「七水」を次のように記す。(実際は8つ挙げてい申す。アヒョっ)
- 鉄井(くろがねのい)
- 亀井(かめのい)
- 部屋井(べやのい)
- 醒井(さめのい)
- 閼伽井(あかい)
- 扇井(おうぎのい)
- 六角井(ろっかくのい)
- 星井(ほしのい)
現存する鎌倉五名水とは?‥‥いった何名水あるんじゃ?
調べたところ現存する鎌倉五名水は以下、4ヶ所となる。
- 金龍水跡
- 日蓮乞水
- 銭洗水
- 梶原太刀洗水
それと上記、鎌倉七名水などは鎌倉十井(じっせい)も含まれていることから、ついでに鎌倉十井も記す。
- 底脱ノ井
- 泉ノ井
- 十六の井
- 鉄の井
- 扇ノ井
- 六角ノ井
- 甘露ノ井
- 星の井(星月夜ノ井に比定)
- 銚子ノ井(石ノ井に比定)
- 瓶ノ井
- 日蓮聖人御硯水の井戸・化生窟
- 棟立ノ井
‥‥‥5名水を含めて17もあんぞ。いったぃどなぃなっとる。
名水5と井戸10を足して15やのに、さらに2も増えとる!
エラいこっちゃでどないしまんねん💕
‥‥まぁ、名水の枠で絞るなら4名水やね。
鎌倉の飲料水の歴史(飲料水事情)
上記、15?17?もの名水や井戸が挙げられるように鎌倉は如何にも水が豊富にあって、美味しい水が大量に湧き出ているように見える。
だグぁ!
実際はそれとは真逆で鎌倉は水道が開通するまでは濁った泥水しか出なかった。
谷戸が多い鎌倉の山麓集落では山から出づる清水をそのまま利用できたが、鶴岡八幡宮以南の扇状地域の街々や、田畑に囲まれた平場の農村地帯などでは茶色く濁った水しか湧いてこなかった。
‥‥ではどぅしていたのか?
皆々、風呂水は井戸水を使い、飲料水は水屋から買っていた。
中には貰ぃ水とか称して風呂の残り水を貰ぅ家もあったとな。
どうやら、大正12年頃まで寿福寺裏の源氏山の横穴から湧き出た清水を水桶に貯めて、それを馬車の荷台に乗せて売りに来る水屋(みずや)と呼ばれる業者が居たらしい。
また、上記、十井にも含まれる「星の井」などは坂ノ下村に無くてならぬぅぁい名井であり、往時はこの井戸水を一荷20銭で付近の別荘主などに売って村の収入にしていたとのこと。
腰越地域は水質が劣悪で生活するのが大変だった
源義経が逗留して兄・頼朝に手紙(腰越状)を書いた事で知られる「腰越(こしごえ)」に水道が開通したのが昭和17年頃とされる。
それまではどうしていたかというと、およそ10軒で1つの井戸を共同で使っていた模様。
何といっても腰越は水利が不便さ余る地域だったことから、火事がいったん起こると消火作業にも難儀し、度々、町中が焼亡する大火が発生した。
以後、昭和10年代の終わり頃まで水売りが市街に来ていたらしいが、大倉にて瑞泉寺から水道管を通す実験が試みられると、以後、瞬く間に水道が鎌倉に普及していった。
現在でも市中で井戸が散見されるも、実際に使用している家は極少。
また、使用しているとはいえ、飲料用水として使用するのではなく植木の水や、夏時期の打ち水に限定される模様。
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