北条一門(時政/義時/時房/時頼/政村/時宗/貞時/経時/高時)の花押(サイン)を知りたい❓

北条家一門は鎌倉殿を補佐する「執権(しっけん)」という職事(しきじ)や、その執権を補佐する「連署(れんしょ)」などの政務の最高機関に補任(ぶにん)したことから、自らが書した書状、右筆などに書かせた書状、自らが確認した書状だと分かるように文書の最後に書き記す花押(かおう)、いわゆる現在で言うところの「サイン」を持っていた。

鎌倉時代はこれまでの公家社会から→武家社会へと遷り変わり、歴史が大きく揺れ動いた黎明期でもあり、武家社会においても武士による文書発給が常態化すると、それまで公家社会で主流とされていた花押が武家社会でも重く用いられた。

ただ、鎌倉時代の武家が発給した文書は文章自体は自らが書さず、ほとんどのケースで右筆(ゆうひつ/文官ともなるゴーストライター)が書いていたので、自らが書状の最後に記す花押(サイン)は非常に大きな意味があった。




北条時政の花押

北条時政(ほうじょう ときまさ)は初代執権。権謀術数を駆使して北条氏の天下の礎を築いた人物。

北条義時の花押

北条義時は2代目執権。北条時政の次男(兄が死没したため長男)。承久の乱で朝廷を倒すという、前代未聞の変事を引き起こした人物。

長らく公家が支配した時代が終焉を迎え、武家が支配する時代をもたらした人物。

北条泰時の花押

3代目執権。義時の子。武家諸法度の手本と云われる貞永式目(御成敗式目)を制定。公がいなければ100年続く北条の世はなかったと思ふ。

病魔に身体を蝕まれながらも、花を愛でる暇さえ惜しんで政務に生涯を費やした御方。現在、常楽寺(じょうらくじ/鎌倉)に眠る。

北条時房の花押

北条時房(ほうじょう ときふさ)は初代連署。

3代目執権・北条泰時の叔父にあたる。北条時政の子。北条政子・北条義時の異母弟。

北条時頼の花押

北条時頼(ほうじょう ときより)は第5代執権。北条時氏(泰時の長男)の次男で、4代執権北条経時の弟。

北条政村の花押

北条政村(ほうじょう まさむら)は第7代執権。3代目連署でもある。北条義時(2代執権)の五男坊。後、政村流北条氏の流祖となる。




北条時宗の花押

北条時宗(ほうじょう ときむね)は第8代執権。元寇を退けた当代の執権を務めた御方。父親は北条時頼、北条氏嫡流の得宗家。

現在は円覚寺塔頭の佛日庵(ぶつにちあん)に眠る。(8代執権 北条時宗・9代執権 北条貞時・14代執権 北条高時と合祀)

北条貞時の花押

北条貞時(ほうじょうさだとき)は第9代執権。北条時宗(第8代執権)の長男坊。

現在は円覚寺塔頭の佛日庵(ぶつにちあん)に眠る。(8代執権 北条時宗・9代執権 北条貞時・14代執権 北条高時と合祀)

北条経時の花押

北条経時(ほうじょうつねとき)は第4代執権。北条泰時(第3代執権)の長男である北条時氏の長男。

北条時頼(第5代執権)は北条時定の同母兄。

北条高時の花押

北条高時(ほうじょうたかとき)は第14代執権。北条貞時(第9代執権)の三男坊。

現在は円覚寺塔頭の佛日庵(ぶつにちあん)に眠る。(8代執権 北条時宗・9代執権 北条貞時・14代執権 北条高時と合祀)




花押の決め方

ほとんどのケースで花押は自分の名前をモチーフとして考案される。

例を挙げると鎌倉幕府創設者であり、初代将軍を務めた源頼朝卿は「頼朝」を分解して「頼」からは「束」、「朝」からは「月」を取ってそれらを合わせて花押としてい‥‥‥申す。カゥォっ(”花押”だけに)

源頼朝卿の花押

源頼親の花押

源頼親は「束」と「見」を組み合わせたもの。

徳川家康の花押

太閤秀吉の花押

 

花押(かおう)とは❓

「華押」とも書く。署名の代わりに使用する特殊文字のこと。

世界の花押の歴史(起源)

花押の起源は未詳とされるが、漢字文化のあるアジア圏だと推定される。

中国の先秦(紀元前3世紀以前)や、斉(5世紀ごろ)、唐代(7世紀から9世紀ごろ)など諸説ある。

日本の花押の起源

日本では平安中期頃から公家社会で用いられたのが起源と伝わる。

以降、鎌倉時代になって武家社会にまで浸透すると江戸時代まで用いられた。

明治以降になると公的文書などの法的根拠を必要とする文書に印判(印鑑)を用いるようになると、花押文化は廃絶した。

当初は「判(はん)」や「書判(かきはん)」、「判形(はんぎょう)」などとも呼ばれ、名を楷書体で自署したが、次第に字体を崩した草書体が用いられた。

草書体が常態化した頃から次第に文字を離れ、意匠が凝らされたヘンテコな形の文様文字が出現し、花押が成立した。

花押を記す位置

花押は文書の最後に記すのが暗黙のマナーのようなものだった。

花押を用いた理由

鎌倉時代は貞永式目(御成敗式目)を制定した北条泰時公(3代目執権/義時の子)が権力の暴走を抑制するために合議制を重んじたこともあり、公的文書は執権と連署とが目を通し、最後に自らのサイン(花押)を記すことになっていた。

花押を記すことで両機関が確認の上、承諾したことを意味し、政治が最良と呼べる形で執られていることを証明した。

または幕府の最高権力者の証ともなる執権の花押と連署の花押をそれぞれ記す事によって、その書状の権威と効果・効力を最大化させ、紛争の早期解決を図るなどした。

花押が無い文書はどうなった❓

花押がない文書は偽文書もしくは、法的な効力を有さない文書と見られた。

関連記事一覧

スポンサードリンク -Sponsored Link-



当サイトの内容には一部、専門性のある掲載があり、これらは信頼できる情報源を複数参照し確かな情報を掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。