鶴岡八幡宮「旗上弁財天社」の仏像?弁財天座像【重要文化財】
画像引用先:鶴岡八幡宮より
像高(高さ)
- 98.0cm
造立年(制作年)
- 鎌倉時代
造立方法
- 寄木造り
奉納年
- 1266年(文永三年)
発願者
中原朝臣光氏(中原光氏/従五位下 左近衛将監)
作者
(伝)運慶作
旗上弁財天社の弁財天像は誰が作った❓
鶴岡八幡宮には、旗上弁財天社に祀られていたと伝わる弁財天座像が所蔵される。
この弁財天座像は源頼朝が挙兵する際に必勝祈願をしたものだとも云われるが、実際には頼朝卿の逝去から70年近く経た1266年(文永三年)9月29日に、舞楽師の中原光氏(なかはら みつうじ/1218年〜1290年)によって、木造裸形の弁財天坐像を鶴岡八幡宮の舞楽院に奉納されたと伝わる。(舞楽とは、雅楽の一種)
像の底右足畳付の銘には「左近衛将監(このえしょうげん) 中原朝臣光氏」とある。
作者は社伝によると運慶とされ、膝上に見える琵琶は平重盛の旧蔵とも云われる。
1281年(弘安四年)11月の遷宮の際には左近大夫将監の官で舞人の列に入ったり、陪従(祭典時に神楽の管弦に従事する楽人)の役を買って出てい‥‥‥申す。パっ
若宮大路に祀られていた❓
1829年(文政十二年/幕末)に植田孟縉(うえだ もうしん)によって編纂された鎌倉攬勝考(かまくららんしょうこう)には、次のような一文がみえる。
「ニノ鳥居より(浜の)大鳥居までの間を名附(名付ける)。古へ此の所(この場所)に弁天の小祠在りて道まかれるゆへ(曲がるがゆえ)、此の弁天祠を右大将(頼朝卿のこと)、八幡宮の池辺へ移し給ひ、路を直くし給ふ。
弁天の像は琵琶を持給ふゆへ、地名として古へ此の所を琵琶小路と唱ふ(となふ/そう言われる)」
この内容によると、現在の浜ノ鳥居辺りに弁財天を奉斎した小祠(ほこら)が在って、その祠を源頼朝は八幡宮を造営した折、新しく造池した池へ移したとある。
この小祠こそまさにぅぃ!現在の源平池に佇む旗上弁財天社に比定できる。
また、弁天の祠が在った周辺の道は沼沢地(湿地帯)だったので、路(道)もそれ(湿地帯)を避けるようにして敷かれていたので、まるで琵琶の形に似ていたが、頼朝卿はその曲がりくねった路(道)を整備して直線状にした。
‥‥‥ということを記す。
この曲がりくねった道というは現在の若宮大路の成立と見て間違いないだろぅ。
だとすれば当弁財天は頼朝卿が鎌倉へ入部した以前(鎌倉幕府創設以前)から当地(若宮大路)にて奉斎されていたことになるが‥‥‥はてさて。
旗上弁財天社の弁財天像は裸体💕
弁財天は「弁才天」とも書き、学問や、音楽などの芸術の神としても信仰されてきた歴史を有する。
鎌倉時代には裸の像に服を着せて拝むという信仰が一般化しており、この弁財天座像も裸体に布の着物を着せていることから、別名で「裸弁財天」とも呼ばれる。
ちなみに同様の弁財天像が江ノ島にも伝わる。
明治時代の神仏分離令による混乱で一時、行方不明になっていたが、関東大震災後の修理の際、倉庫で発見されたとのこと。
現在は鶴岡八幡宮敷地内の鎌倉国宝館で見ることができる。
国の重要文化財に指定されています。
ところで‥‥‥「弁財天信仰」とは?
弁財天信仰とは、鎌倉時代にはすでに隆盛の途上にあり、妙音芸能の女神、金運招来の霊神(れいじん/霊験あたらかな神の意)として広く世間に知られています。
「妙音」とは優れた音楽を意味する言葉であり、弁財天像の持物に見られるようなギターのような「琵琶(びわ)」という楽器が物語るように特に音楽芸能関係の霊験があたらかと云われます。
ところで2‥‥‥「中原光氏」とは❓
歴史上の文献にあまり出てこない名前の人物とはなるが、逗子市の神武寺境内にある「みろく窟」の内部には石造の弥勒菩薩坐像が安置されており、本像の光背背面には「大唐高麗舞師、本朝神楽博士、従五位上行左近衛将監 中原朝臣光氏 正応三年 九月五日」の銘がある。
「大唐高麗舞師、本朝神楽博士」と記されていることから、中原光氏とは舞にも神楽にも秀でた人物であったことがうかがえる。