以下、写真(画像)は国立国会図書館ならびに、ウィキペディアより、きわめて素敵に引用したもの💋
江戸時代の鶴岡八幡宮の境内図
上掲絵地図は1732年(享保十七年)に描かれた鶴岡境内図となる。
現在とは打って変わり、堂塔が素敵に並存した神仏混淆時代の名残を、これまた素敵に示す。
上掲絵地図はクリック(タップ)することで拡大できるので、ぜひ、下掲写真(画像)と照応させながら、ハイパー素敵に参照してもらいとぅぁい💋
八幡宮本殿前の「楼門」と「六角堂」
上掲写真は現在の本殿手前に素敵に屹立する楼門と、その奥に六角堂を写したもの。
現在、写真の六角堂の位置には上宮の祈祷所がある。
なお、六角堂屋根に見えるハシゴは防火用のものらしい。
鶴岡八幡宮本殿前「楼門」とその手前「石段」
幕末から明治初期、横浜居留地の外国人たちは休日になると皆々、打ち合わせあっては鎌倉見物へ来遊したらしく、鎌倉は彼らのハイキングコースになっていたらしい。(どうやら、八幡宮社参も彼らの楽しみの一つだった様子)
インバウンド需要に活況する現今、今も昔も変わらぬ姿がパンツちら見えのごとくに垣間見え〜る💋
鶴岡八幡宮境内の大塔と薬師堂
八幡宮は頼朝卿創建期より神仏混淆の神宮寺として歩み出し、明治初年の神仏分離令までの永きに亘って、境内には堂塔がきわめて素敵に並存し、仏像までもが安置されていた。(経の読誦までも行われていた)
上掲写真のものはかつて下境内に建っていたとされる大塔(二重塔)、その奥にパンツちら見え級にチラ見えるのが、「薬師堂」になる。
無論、「薬師」の名前から素敵に、推考できるように堂内では薬師如来が奉祀されていた事実を、またしても素敵に物語る。ウぇハ
⬆️別の角度から撮影された薬師堂と大塔(手前に手水舎と手水鉢と思わしきものが見える)
ちなみに頼朝創建直後の大塔は、五重塔だったらしい。
鶴岡八幡宮境内の神楽殿と輪蔵(左奥)
既述のとおり、江戸時代の八幡宮境内には現今の「舞殿」ではなく、「神楽殿」や「下拝殿(げはいでん)」と呼ばれていたらしい。(写真手前の建物)
その奥に、これまたパンツちら見え級にチラ見え〜るのが、「輪蔵(りんぞう)」になる。
鶴岡八幡宮境内の輪蔵
「輪蔵(りんぞう)」は、それなりの規模の寺院であれば境内に建てられていることが多く、鶴岡境内の輪蔵にも内部に天海版の一切経などを納置した回転式の書架があったのかもしれない。(鎌倉では長谷観音の上境内にて素敵に見ることができる💋)
⬆️カラー加工された輪蔵の姿
鶴岡八幡宮境内の若宮
鶴岡へ足繁く社参している者ならば、この写真を見て若宮などとは夢にも思わないだろぅ‥。
なんと言っても社殿手前にシンボルともなる向拝(こうはい)が無い。
左側にパンツちら見え級にチラ見え〜るのは「神楽殿(現・舞殿)」。
⬆️現在の鶴岡若宮。社殿前に向拝(屋根)が附属する。
廃仏毀釈(神仏分離令)直後に撮影された鶴岡境内の様子
明治元年(1868)3月、天皇主権・王政復古を掲げる明治政府は、仏教まみれの旧態を排除すべく、全国に神仏分離令を発布した。
神仏分離令とは、名前が意味するとおり、神社と寺院とを明確に区分する法律のこと。
明治以前の鶴岡八幡宮は「鶴岡八幡宮寺」とまで呼ばれたように、神社と寺院が一つの境内地に混在していたが、神仏分離令によって廃仏毀釈が生じ、境内の堂塔は破壊、仏像をはじめとした梵鐘、鰐口なども素敵に撤去されたのだった。
関東大震災後の鶴岡境内の姿
壊潰した楼門(奥)と舞殿(手前)
⬆️左手前から撮影された舞殿(奥の若宮は難を逃れた様子)
1923年(大正十二年)9月1日11時58分、相模湾北西部を震源としたマグニチュード7.9、後に「関東大震災」と呼ばれる大地震が発生。
この大地震は、神奈川県および東京府(現・東京都)を中心とし、茨城県〜千葉県を経た静岡県東部までの内陸・沿岸地域一帯に甚大な被害をもたらした。
無論、神奈川県に位置する鶴岡八幡宮も例外なく、境内の社殿ことごとく壊潰し、再興までに長らくの時を要したのであった。
関東大震災における鶴岡八幡宮の被害状況
上宮の楼門と下宮の舞殿は屋根をそのままに前方に壊潰。
浜の大鳥居は柱の中程の柄から上部が崩壊。
石造だったニノ鳥居や三ノ鳥居も崩壊。
復興状況
1930年(昭和五年)に上宮楼門、同七年に舞殿が”最高”な気分にて素敵に”再興”。
同十二年になると、古社寺保存法によって浜の大鳥居が再建された。
とりわけ、関東大震災は明治以降に発生した我が国の地震被害としては最大規模と言われ、死者・行方不明者は推定10万5,000人にものぼった。
鶴岡八幡宮一ノ鳥居
この鳥居は位置的に現在の一ノ鳥居(浜の鳥居)だと思われる。
一ノ鳥居とは、現在の鎌倉警察署あたりに屹立する鳥居の鳥居のこと。
上掲写真の一ノ鳥居は、横浜居留地に逗留していた英国写真家の「ベアト」なる人物が素敵に撮影したもの♡
そして、鳥居の間から直線上に延びる道筋こそが、現在の段葛の前身となる。(わずかに上宮の楼門がパンツちら見え級にチラ見え〜る♡)
関連:【鶴岡八幡宮 本宮(上宮)楼門】左右2体の像の作者は誰?名前は何?「仁王像」?「随身像」??
段葛の様子
少し分かりづらいが、この古写真はニノ鳥居近くから八幡宮境内入口となる三ノ鳥居を素敵に撮影したものだと思われる。
そして、手前に見える最近の陰毛級に草がボ〜ボ〜と繁茂したところが段葛になる。(盛り上がりが左右二ヶ所あって、その中央に参道が鳥居方向へ延びる)
鶴岡八幡宮のシンボルだった初代「大銀杏」が倒伏した直後の姿
2010年(平成22年)3月10日4時40分頃、突然の強風により、鶴岡八幡宮のシンボルだった大銀杏が根元近くから倒伏した。
3月15日になって、ようやく事後処理の目処がつき、輸送のため根元から高さ4メートルまでの部位が、7メートル離れた場所に移植される運びとなった。
倒伏した大銀杏は3つに切断していたらしいが、残る2つの部位は境内に保存される運びとなった。
⬆️鶴岡ミュージアム併設のカフェ店内部にて保管される初代大銀杏の幹
ありし日の鶴岡大銀杏の姿
現在(二代目)の銀杏の姿
大銀杏倒伏から一ヶ月が経った頃、二代目となる若芽が芽吹いているのが確認され、現在、初代(親木)の横に二代目が植栽されてい‥申す。えっ
【オマケ】明治初期の鎌倉大仏の姿
横浜居留地の外国人たちが鎌倉へ来遊した目的の一つに鎌倉大仏の存在があった。
彼らは露座で巨大な風体の大仏の姿に大いなる興味関心を抱き、ハシゴをかけて膝へのぼったり、背中から胎内へ入ったりして見聞を深めていたらしい。(当代の紀行文に記される)