下馬(げば)とは❓
下馬とは馬を降りるという意味。逆に馬に乗ることを「下乗(げじょう)」と云う。
八幡宮の本宮から、ほぼ直線状に延びる若宮大路(段葛)には、かつて3ヶ所の下馬が設けられていた。
- 上ノ下馬(かみのげば)
- 中ノ下馬(なかのげば)
- 下ノ下馬(しものげば)
これら3ヶ所には小路(小さい通り)が左右に伸びており、それぞれの小路が若宮大路と直交してい‥申した。ゲビュアっ(絶好調の時に”下馬”を表現)
下馬が設置された理由とは❓
主に貴人が馬や牛車(ぎっしゃ)、輿(こし)、駕籠(かご)などで八幡宮までやってきた時、神霊に敬意を評し、神域に入り込む前に下馬した。
または貴人が通りがかった時に敬意を表して一時的に馬から降りて道をゆずったり、それら貴人の邸宅や寺社の前を通りがかった時に便宜上、下馬した。メンドくちぇ テメェが降りろ …切れ人(痔/きれじん)は降りる時も一苦労 オホっ
江戸幕府においては下馬する身分が決められていた⁉️
時代が下ると、「下馬」の文字は足利将軍家より伝わる由緒正しき筆法で記されるのが正式な定型とされ、足利義昭の旧臣・曾我尚佑(のち、家康公直参)が初めて筆をとったと伝わる。
江戸城にも、やはり下馬が設けられており、大名、高家(貴人・公卿の家柄)、規定役高(石)以上の役人、交代寄合などの「乗輿以上の格」を有した者以外は、馬や駕籠から降りなければならなかった。
1800年(寛政十二年)の記録によると、下馬にて入城できる人数制限も課せられ、10万石以上の大名および、その嫡子で13人、それ以外の諸大名は石高に応じて10~11人とされた。
「乗り打ち」とは❓
「乗り打ち」とは南北朝時代(室町時代)編纂の太平記にも見られるが、馬や駕籠 (かご)から降りずに、そのまま貴人宅や神仏前を通り過ぎる行為。
馬が主たる乗り物だった時代、これらの行為は無礼とされるのが常識だったので、「下乗 の礼を欠く」などと表された。
下馬に設けられた釘貫(くぎぬき)とは❓
若宮大路通りと直交する部分には冠木門(かぶらぎもん)、もしくは鳥居のような形状をした「釘貫(くぎぬき)」と呼ばれる機材が設置された。
往時はこの釘貫の前に四角形の広場があり、広場の馬繋ぎに馬を繋ぎ、皆々、歩いて八幡宮まで歩いた。
なお、釘貫とは柱を立てて柱間に横木を渡した柵でもあることから、その釘貫で覆われたであろぅ広場全体を指すとする見解もある。
また、これら3ヶ所それぞれには以下のような橋が架橋されていた。
- 上ノ下馬橋(かみのげば ばし)
- 中ノ下馬橋(なかのげば ばし)
- 下ノ下馬橋(しものげば ばし)
上ノ下馬橋の場所
現在までの研究によると、1218年(建保六年)6月27日、三代将軍・実朝は故・頼朝卿拝賀のためにこの橋の前で下馬しており、この橋こそが「上ノ下馬橋」だったとみられてい‥‥申す。シュァっ(実朝の”さ”を表現‥ネタ切れ気味)
この赤橋は虹に似せたとも言われるように30度もの急勾配があり、その形状を横から見た時、名前の通り太鼓の胴に見えなくもない。
⬆️足の小指を蚊に刺された後のカユさほど噂の「太鼓の胴」
30度もの勾配がついていると歩いて渡るのも一苦労、進んでは戻ることもシバシバ‥‥トホホ。
しクぁし!
封鎖される前は、その急勾配を利用して訪れた子たちが駆け上がったり、滑り落ちたりして遊ぶ姿が見られるなど、八幡宮のスポットかつ、魅力の1つだった。
中ノ下馬橋の場所
現在の段葛南端付近。ファミリーマートの前(鎌倉ニノ鳥居店)。若宮大路通りの鎌倉駅駅舎からの延線と若宮大路通りが直交する地点。
往時は扇ケ谷から流下する扇川が若宮大路と直交したあたり。(現在、扇川の一部は暗渠化)
下ノ下馬橋の場所
大町大路と若宮大路が直交する地点となる下馬交差点のあたり。
現在、下馬交差点角には、鎌倉青年団の「下馬」の石碑が建つ。
下馬の石碑は現在、モービル(ガソリンスタンド)の出入口角にある。
‥‥‥取材班はさらに迫ってみた❗️
‥‥はい! ニコレン安っ❗️ この値段はホンマ革命💘 …大型トレーラー借りて由比ヶ浜でキャンプ
下ノ下馬橋の遺構❓
なんとぅっ❗️現在の湘南信用金庫 鎌倉営業部の前の車道沿道には橋の高欄(こうらん/手スリ)が残されてい‥‥ます。クっ(耐)
⬆️カップ麺の湯待ちを我慢できず、1分20秒で開封してススり込んで後悔した時ほど噂の‥‥「下馬橋の高欄」
おそらく実際、この場所に下馬橋が架かっていたのだろぅ。
親柱に「けははし」の陰刻が見える
鏡には、1241年(仁治二年)11月29日未ノ刻(午後二時)、下ノ下馬橋の西頬(にしつら)の好色家にて酒宴に興じた三浦一族と、東頬(ひがしつら)で酒を酌み交わしていた結城、小山、長沼などの一族郎党の間で喧嘩が起こったことが記される。
1352年(観応三年)9月3日、若宮小路三ヶ所橋を造営した若宮少別当・大庭宮能が足利尊氏から褒賞されたことが記されるが、若宮少路三ヶ所橋というのは上、中、下の下馬橋のことと考えられてい‥‥‥またか。もぅ今日はこれ以上無理
外国人が下馬四つ角殺された⁉️
1864年(元治元年/江戸時代)11月21日、大仏見物後のイギリス兵、ジョージ・ウォルター・ボールドウィング少佐と、ロバート・ニコラス・バード中尉の2人が下馬四つ角にて浪人2人に斬殺された不幸な事件があった。
「下馬の石碑」の書かれている内容と意味(解釈)
往昔鶴岡社参ノ武人ハ此ノ辺ニテ馬ヨリ下リ徒歩
ニテ詣デタルニ因リ下馬ノ称アリ今ニ地名トシテ
存ス此ノ地点ハ鎌倉ノ要路ニ位セルヲ以テ屡々(度々)
戦場ノ巷トナリシコト古書ニ見ユ尚ホ文永八年(皇紀
一九三一年)九月十二日日蓮聖人名越ノ小庵ヨリ
龍口ノ刑場(現・神奈川県藤沢市片瀬南東部にある小字、龍ノ口)ニ送ラレタマフ途上鶴岡ニ向ヒ八幡大
菩薩神トシテ法門(仏門)ノタメ霊験(ご利益)ヲ顕ハ(あらわ)シタマヘ(え)ト大
音聾(大音量)ニテ祈請(きせい/神仏に祈る)アリシハ下馬橋付近ナリト傳へ(伝え)ラル
⬆️裏側の様子