鶴岡八幡宮の段葛とは?名前の由来や長さ・見どころ(桜のトンネルor夜桜ライトアップ)を‥‥知る必要があったのかぃ?

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鶴岡八幡宮・段葛【国指定 史跡】

造成年

1182年(養和2年)3月 ※鎌倉時代

距離

588m
※造成当初は約1.25キロメートル

設置場所(所在地)

二の鳥居〜三の鳥居前まで (※現在)
※当時(鎌倉時代)
は一の鳥居〜三の鳥居前まで

発願者

源頼朝卿

所有者

鶴岡八幡宮

段葛の読み方

段葛は「だんかずら」と読みます。

段葛とは?

鎌倉駅(JR &江ノ電)から鶴岡八幡宮を目指す時、多くの観光客が進む方向に流されるままに、そのまま大きな朱色の鳥居がそびえる「小町通り商店街」を歩いて進む。

もしくは、二の鳥居が建つ「若宮大路通り」まで歩き、段葛を進むのか?

大きく分けて上記の2通りの道がありますが、若宮大路通りに「二の鳥居」が建つように元来、鶴岡八幡宮の正式な参拝ルートとは由比ヶ浜から現在の八幡宮の本宮(本殿)へ延びる若宮大路通りでした。

その若宮大路通りの道路の中央にある石が積まれた小径こそが「段葛」と呼ばれる通りです。二の鳥居から三の鳥居の前(八幡宮境内入口)まで続いています。

以下では、この段違いでカツラが吹っ飛ぶくらいの溢れんばかりの魅力ある「段葛」について講釈たれています。

段葛の名前の由来

実はいつ頃から「段葛」と呼ばれるようになったのかは明確にされていません。

ただ、「かずら石」を積み上げて造成されたことから、いつしか「段葛」と呼ばれることになったとのことです。

鎌倉時代に編纂された春日社記録(中臣祐定記)の1232年(寛喜4年)9月13日に項には、以下のような記述が見えます。

「壇カツラヲタタミ、壁石ヲ立」

この中の「壇カツラ」と言うのが現在の段葛のことを指すのであれば、鎌倉時代にはすでに段葛と呼ばれていたことになります。

段葛の別名

段葛は俗称になりますが、時代を下りながら様々な呼び方がされています。たとえば‥‥‥

「置石」、「置き路(おきみち)」、作道(つくりみち)、千度壇(せんどだん)…etc

これらの名前は「風土記稿(江戸時代後期編纂)」などの時代々々に編纂された古書物に登場しています。

段葛の造成

頼朝卿の立案した鎌倉の街づくりは大規模なものであり、特に段葛を造成する場所の一部は由比ガ浜に面した浜辺(砂地)でした。

まず、浜辺を土石を埋めて地盤を造り、二列の堤を築いて一筋の道を3筋とします。

浜辺を埋めた理由は往時の街道が浜づたいに敷設されていためです。

ただ、平安時代末期の鎌倉には、段葛(若宮大路通り)の前身になるような道は存在せず、主要な道としては「海岸沿いから東西に延びる街道」と、「現在の荏柄天満宮の前を通る山側の道」があり、「これら2つの道を南北につなぐ道」が1本通っているのみでした。

ただし、この南北に通る道が段葛の前身だったワケではなく、この道は現在の段葛のもう少し西側に通っていた道です。

このような地形を加味しながら、頼朝卿は京の街に倣って八幡宮周辺の区画整理を計画します。

まずは材木座にあった由比若宮(鶴岡八幡宮の元宮)を現在の八幡宮建つ場所(小林郷 北山)へ遷宮せしめ(移設し)、この八幡宮を中心として朱雀大路通りに見立てたひときわ大きな一筋の道を整備する計画を立案します。

他にもこの段葛の造営は鶴岡八幡宮の御神威や源氏の威厳・権威を内外に示す目的もあったものと考えられています。

吾妻鏡(鎌倉時代に編纂された古書物)によれば、ちょうどこの頃、頼朝卿の嫁ハンである北条政子が懐妊し、その安産祈願のために北条時政や畠山重忠、和田義盛ら重臣たちも自ら手を汚し、汗水垂らして安産祈願をしながら堤脚に土石を運んで積み上げたとのこと。それゆえ、この当時の段葛は「置石」とも呼ばれたようです。

段葛が完成し、一の鳥居が完成する頃、人々は鳥居の前で下馬(馬を降りて)して参拝するようになり、これが次第にスタンダードになっていきます。

一説には当初の段葛は身分の高い高貴な者しか通行することが叶わず、一般庶民は段葛の両側の側道を歩いたという説もあります。

一段高くして造成された理由

しかし、なぜワザワザ労力と時間を費やして段を高くする必要があったのでしょう。確かに当時の源氏の権威を内外に示すには打ってつけの材料だったのかもしれません。

ただ、「平家物語・下」の中の「征夷大将軍 院宣」の項に『作路 十余町見下たり』との記述が見え、これによれば段葛を挟んだその両側には、やや勾配があったらしく、東側が高く西側は低地だったようです。

そこで一段高くして均等をはかるしか方法がなかったのでしょう。

ちなみにこのような一段高くした道は鎌倉時代の当時、世界の都市においても例がなかったという学説もあります。


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鎌倉時代の段葛は地下に埋もれていた?!

実は近年、三の鳥居すぐ後ろの「赤橋」前にて、昭和37年1月20日に公共下水道工事が実施されており、のぉあんとぉっ!地表下約180cmで敷石が発見されています。

⬆️鶴岡八幡宮・赤橋(左右の橋ではない)

この石を分析したところ、12世紀の石であることが明らかにされており、さらに調査が進むにつれ、基部から二列にわたる石積まで発見されたようです。

これらの石の中には貝殻の付着した伊豆石などが多数、発見されており、現在の路面から下1mに砂、その下に川石、さらにその下に砕石層、そして最下層に海砂の層があったことも明らかにされています。

つまりは平安〜鎌倉時代の参道が約2mも地下に埋もれていたことになり、同時に鎌倉時代の地表がおおむね2mほど下だったことになり申す。

しかし、逆の言い方をすれば2mも土が盛られたことになりまするが …はてさて

段葛の特徴

【その1】えぇっ?段葛は二の鳥居前と三の鳥居前とで道幅が違う?

ちょぃと下掲写真をご覧くださいな。

周囲の景観に気を取られてあまり気づきにくいのですが、段葛は二の鳥居から→三の鳥居に向かうにつれ、微妙に横幅が異なります。

二の鳥居の出入口(クソでかい狛犬像の奥の石灯籠のところ)

  • 横幅:約5.3m(もっとも横幅がある)

二の鳥居と三の鳥居の中間地点?(住友銀行前の区切り)

  • 横幅:約4.3m

三の鳥居前の出入口の道幅

  • 横幅:約3.2m(もっとも横幅がせまい)

いかがですかぃ?

この写真をご覧になって見れば分かるように二の鳥居前と三の鳥居前とで道幅が大きく異なることが分かります。その差なんと2メートル!

これはつまり二の鳥居から→三の鳥居へ向かうにつれ、道幅が狭くなっていることを意味します。

このように道幅を変えることにより、離れていくにつれ、道が長く見えるようになります。言い換えると鶴岡八幡宮の本宮を見た時、かなり距離があるように見えます。

このような技法を俗に「遠近法」といいます。

なお、両側の花壇を含めると二の鳥居のあたりで幅約9m近くにはなります。

【その2】なぜ遠近法が用いられた?「遠近法が採用された理由」

現在にまで伝わる1つの説として、頼朝卿は段葛を造成した際、由比ヶ浜沿いの街道から八幡宮の本殿(本宮)をワザと見えづらくする工夫を凝らしたと考えられています。

確かに、遠近法を用いることにより、一の鳥居(由比ヶ浜街道沿い)から本宮を見た時、本宮が遠く見えます。(現在では分かりづらい)

【参考】一の鳥居から見た八幡宮の本宮(本殿)

⬆️一の鳥居の間から見た本宮

⬆️アップ画像

このように遠近法を用いた理由は、敵の目を撹乱するためであり、つまりは幕府の防御に一役買っていた訳です。

そもそも頼朝卿が鎌倉の地に幕府を置いた理由は、鎌倉の地が東西北が山地に囲まれ、南面が海に面した要害の地だったからです。そこで急所となる南面へ向けた段葛(若宮大路)にも仕掛けを凝らしたのでしょう。

本当に段葛は遠近法が採り入れられて造成されたのか?

ただし!このような遠近法が鎌倉時代にすでに認知されていたのかは不明です。

史実によれば、日本に遠近法が伝来したのは安土桃山時代の西洋の宣教師たちに拠るものとされ、これが広まったのは江戸時代に入ってからだと云われます。

つまり、頼朝卿が段葛を造成する際、遠近法を構想に採り入れていたのかは謎です。

しかしながら、この段葛は時代を下りながら幾度か改修工事が行われていますが、この遠近法が成り立った段葛の有り様は幾世紀も経た現代にまで踏襲されています。

【その3】「横大路」と呼ばれた3カ所の道があった

現在の段葛の中へ進入するには次の三カ所です。

  • 二の鳥居から
  • 二の鳥居と三の鳥居の間から
  • 三の鳥居前から

この3カ所の場所は‥‥そぅ!上掲の「段葛の道幅の項」で掲載した写真の位置です。

鎌倉時代において段葛に進入できた箇所

鎌倉時代に造成された当初は北側から「上ノ下馬」「中ノ下馬(二の鳥居付近)」「下ノ下馬」という3カ所だったと云われ、「下馬」名前の付くとおり、人々は下馬で馬を降りて歩いて段葛を通行しています。

見方を変えると、段葛とは八幡宮の参道として神聖視され、同時に源氏の権威の趨勢の度合いを誇示するものだったといえるでしょう。

当時の「上ノ下馬」「中ノ下馬」「下ノ下馬」ぞれぞれの場所はドコ?

「鎌倉市史」によれば次のように説明されています。

  • 「上ノ下馬(かみのげば)」‥‥‥現在の「横大路(現在の三の鳥居前の県道204号線)」
  • 「中ノ下馬(なかのげば)」‥‥‥小町口(二の鳥居周辺)
  • 「下ノ下馬(しものげば)」‥‥‥湘南信用金庫 南側の歩道(鎌倉市と三浦郡葉山町を結ぶ県道311号線(由比ヶ浜大通り)

これらのそれぞれの下馬には横大路と呼ばれた道路が段葛を挟み込む形で東西に延びていたとされ、横大路へ接続する下馬には「釘貫(くぎぬき)」と称した門が建てられていたようです。

「下馬」の名前がが示すように人々はこの釘貫の前で馬を降りて歩いて段葛を進んだのです。

ちょいと下掲写真をご覧くださいな。

 

この写真は横浜開港資料館にて保管されている江戸時代後期の写真です。

この写真の前方は海岸(由比ヶ浜)であり、右手に延びる道は長谷の方へと続いています。

つまり、一の鳥居の付近で撮られたものです。

この写真には冠木門のような質素な木組みの門が見えますが、これこそが釘貫です。どうも先が尖った木を3本組み合わせて簡易的に建てた門を「釘貫」と呼んでいたようです。

【その4】段葛には数カ所「橋」が架かっていた?

この段葛のある若宮大路通りは幕府の中心地でもあったことから、その周辺には幕府に仕える武士たちの家宅が軒を連ねていたようです。

吾妻鏡の1229年(安貞3年)正月15日条によれば、将軍御所の西門前に段葛へ向けた橋が架橋されていたとされ、他にも以下で挙げるような有力御家人衆の家宅にも段葛へ向けた橋が架橋されていたようです。

  • 北条時房(顕時)邸
  • 北条泰時(時頼)邸

なお、当時の有力御家人の家宅の周囲には溝を設けるのが主流とされ、はたまた、段葛自体にも側溝が設けられていたことから、これらの溝を跨ぐために橋が架橋されていたようです。

ただ、如何に有力御家人とはいえ、段葛へ向けた表門を構えることはしても、段葛へ向けて開くような構造にすることだけは恐れ多いと憚って内開きにしていたようです。

その他の武士たちに関しても、仮に若宮大路(段葛)沿いに屋敷を構える際、大路に背を向けて建てることが原則とされ、表門を若宮大路側に構えることが許されなかったようです。

つまりそれほど段葛は八幡宮の参道として神聖視され、常に清浄性を保つことが義務付けられていたということです。

段葛へ進入できる道路には橋が架かっていた?!

室町時代に作図されたと伝わる「善宝寺地の図」によれば、下ノ下馬のあたりには「下馬橋」という橋が架橋されていたことが述べられています。

詳しい場所は現在の湘南信用金庫の南側の歩道です。現在、この歩道には往時のこの橋の場所を示すものとして石造りの高欄(欄干)が復元されています。

下ノ下馬と下馬橋の詳しい場所

⬆️少し見づらいが「げばばし」と高欄の親柱に書かれている。高欄の奥に見える建物が「湘南信用金庫(鎌倉営業部)」

【その5】側溝があった!

これは段葛とは直接関係はありませんが、当時の「若宮大路」は現在でいうところの下水道の役割も担っていたようです。

この事実は、雪ノ下一丁目371番1地点から「一丈 伊北太郎跡」「一丈 くにの井の四郎入道跡」と書かれた2つの人名木簡が出土したことで明らかにされています。

若宮大路の両端にはドブ(側溝)が造成され、人々はこの溝へ向けて糞尿(ションベンやクソ)を流していたようです。

現在の三の鳥居周辺に造成された側溝に関しての記録では、溝幅約3m、深さ約1.5m、そして東西の溝と溝との間隔は33.6mあったとされています。

鎌倉時代の若宮大路通りは30mもあった?!

記録によれば、鎌倉時代の若宮大路通りは横幅11.2丈(約33.6m)もあったとされることから、これは現在の2倍以上ということになりまする。

だとすれば段葛の横幅も単純に見積もって現在の2倍くらいあったとも考えられます。

なお、この33.6mというのは上述、側溝の項でも述べたように、八幡宮境内入口となる三の鳥居の前あたり(現在の横大路)の寸法です。

これが二の鳥居まで下ると60mもあったということから、遠近法の概念が採り入れられていた背景を加味すれば、一の鳥居のあたりで100m近くになっていたものと推察できまする。

段葛はどこからどこまで?「段葛の長さと徒歩での所要時間」

現在での一般的な段葛の認識は、二の鳥居から三の鳥居までの石が積まれて造成された歩道の区間を言います。

二の鳥居から三の鳥居までの距離と所要時間

現在の段葛の入口となる二の鳥居から、八幡宮の境内入口となる三の鳥居前までは588mあります。所要時間にすると約6分。

一の鳥居から三の鳥居までの所要時間

往時は一の鳥居から段葛が続いていたので距離にして約1.25㎞です。所要時間にすると約15分。

えぇっ?!鎌倉時代の段葛は一の鳥居からでは無かった!!

現在見られるような石コロを積み上げて造成された段葛は鎌倉時代の当時、上述の「下馬橋」のあった「下ノ下馬(しものげば)」からはじまっていたと云われます。

この事実は1732年に編纂された「鶴岡八幡宮境内図」や1834年(天保5年)の「相中留恩記略」においても明らかです。

「下ノ下馬」から由比ヶ浜、もしくは一の鳥居へ至る道筋は、「ごく普通の平坦な道」だったようです。ウフ

詳しい図

 


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段葛の1年「桜や四季の彩り」

春「段葛の桜並木道」

春はこの段葛が年内で最高の見せ場となるステージです。なんといっても段葛の左右に植栽される木は「桜(ソメイヨシノ)」、その桜の間に植栽される花が「ツツジ」だからです。

冬が明ければ先に桜が開花して春の訪れを告げ、遅れる形でGWの頃、ツツジが一斉に開花します。一年の内でもっと華やいだ最高の演出を魅せてくれまする。

⬆️3分〜5分咲きの段葛の桜(2021年3月25日に撮影)

⬆️満開の段葛の桜(2021年3月31日に撮影)⬆️2020年4月5日に撮影(すでに大半が散っている)

桜のトンネル

段葛の桜は2014年〜2016年(平成の改修)の時に、新たに植樹されたものですが、以前の桜は育っていたため、満開を迎えると「桜のトンネル」ができあがっていたのです。

現在の桜(ソメイヨシノ)は約5年たらず。ソメイヨシノは40年は樹勢を保つので、まだまだこれからの生長が楽しみでゴザんす。

⬆️改修前に撮影した段葛の様子。両花壇の桜の枝が伸びてトンネルができあがっているのがお分かりいただけるだろうか。

⬆️昭和50年頃の段葛の様子

5月にはツツジ!

段葛は大正時代より、上記、桜とツツジが植栽されています。この様式は現在まで踏襲され、桜が終わって5月になると今度はツツジが見頃を迎えます。

⬆️2021年3月31日に撮影。日当たりが良かったのかこの箇所に植栽されたツツジだけが開花していた

⬆️他の箇所はほとんど上掲写真のような蕾(ツボミ)

夜桜と夜ライトアップされた段葛

ライトアップされた段葛と夜桜の様子です。

⬆️晴天の夜であれば上掲写真のような綺麗な写真も撮れる

このようにライトアップされた夜桜が街路樹のイルミネーションに見えるのは日本広しといえど屈指。

⬆️写真は二の鳥居前から撮影したところ …太郎と次郎もついにマスクをしている

⬆️2021年3月24日に撮影したもの

平時の段葛のライトアップ

段葛の両サイドの桜やツツジが植えられている花壇の手前や間には灯籠やライトが設置されており、特に何もイベント行事がない時でも土日祝日・平日関係なく日暮れ〜21時までこれらが点灯しています。

⬆️ライトアップされる段葛

ただねぇ、「ライトアップ」というイベント行事として特に点灯されているワケではゴザんせんが、「夜の段葛」というのも中々にして風趣が感じられて良いものでゴザんす。

付近に宿泊されているならば、浴衣でビール片手に段葛を歩き回るってのも良いものでガンす。(ゴミの始末はしっかりと)

このライトアップされる段葛を見ていると、なんだかこぅ不思議と、きな粉餅を5本、むしょうに食べたくなってくるような気持ちを起こさせる。…なんで5本やねん

段葛のライトアップ装置

段葛のライトアップは幻想的で実に綺麗なのですが、実は何種類かのライトアップ装置が設置されていますので以下にご紹介しておきまする。

段葛のライトその1

段葛の花壇の間に設置されているライトです。道路脇に設置されています。

段葛のライトその2

段葛の左右両側の花壇に設置されているライトです。主に桜を照射できるように真下に少し斜め向きで設置されています。

段葛の石灯籠その1

この石灯籠は三の鳥居前の石灯籠。

段葛の石灯籠その2

この石灯籠は二の鳥居のすぐ後ろに設置されている石灯籠。

段葛の石灯籠その3

この石灯籠は両側の花壇内、桜と桜の間に設置されている石灯籠です。

 

以上、これらのライトアップ装置の設置位置、照射角度などの相乗効果によって幻想的な空間が創出されているワケです。

正月三が日の段葛の様子

元日未明からこの段葛を通行する鶴岡八幡宮の初詣客の数はすさまじいものがありんす。

それもそのハズ、例年、おおむね200万人が参拝に訪れることからこの現状が生じても何ら不思議ではありんせん。

なお、神奈川県内では川崎大師がもっとも参拝者が多く、2番目が鶴岡八幡宮です。

神幸祭

神幸祭は鶴岡八幡宮でもっとも重要な祭礼であり、例年9月15日に斎行されます。

当日は午前10時より本殿にて神饌を献じ、祝詞を奏上するなどの神事を行います。

そして午後1時から御祭神の神霊を神輿に遷し、本殿から3基の神輿で揺すられながら、二の鳥居までの約600mを巡幸します。

見どころは61段の本宮前(楼門前)のお神輿の渡御と、二の鳥居付近に設けられた御旅所にて奉奏される「八乙女の舞」です。

段葛の所有者は誰?

鶴岡八幡宮の公式サイトを閲覧すれば分かりますが、段葛で過度な撮影や参拝客の邪魔になるような撮影ロケ、ドローンの使用を禁止する旨の記載があります。

このことからも察することができるように、段葛は官有ではなく、鶴岡八幡宮の私有地です。

したがって段葛で特殊なロケのような撮影をされる場合、鶴岡八幡宮の許可が必要になりまする。


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そのほかの段葛の見どころ

どデカイ狛犬

向かい見て右側「阿形」の狛犬

ジるぅぅぅぅ〜ぉぇっ(訳:次郎):『かっ、カラシ入れすぎとぅぁぁ〜っ!クかぁ〜〜!!』

向かい見て左側「吽形」の狛犬

ツぅあろぅ(訳:太郎):『ワすぃが日本一ド頭のデカイ狛犬だぎゃ!円周率暗記500桁達成!』…脳ミソも詰まっているということ

いずれも台座を含めた像高が約3.8mで1961年(昭和36年)に奉納された狛犬とのこと。

‥‥‥

‥‥‥。

2021年度はコロナ感染拡大に我慢できず、ついに太郎と次郎もマスク着用!

2021年は新型コロナウイルスという未知なる病原体が蔓延し、世界人類が未曾有の危機に瀕しています。

そのコロナ拡大感染防止の一環により、段葛の太郎と次郎(両狛犬像)もなんとぉぅ!マスクすくすく スクールでもマスク!トぅ!‥‥的なほどマスクをしています。…意味不明

ちなみにこのマスク、縦60㎝、横120㎝もあるとのことなので、人が用いればマントにできて空をも飛べる大きさ。…どうやって空飛ぶねん

左下に見える赤色の模様は八幡宮の扁額にも見える「向かい鳩のマーク」です。授与所でもこのマスクが販売されています。太郎と次郎のファンはぜひ!

なお、太郎(ツぅあろぅ)と次郎(ジるぅぅぅぅ〜ぉぇっ)とは、拙者が勝手に付けたネーミングでゴザりんす。

石版(石碑)

上記、太郎(ツぅあろぅ)と次郎(ジるぅぅぅぅ〜)のすぐ後ろには写真のような高さ1メートルくらいの石版が建てられています。 ”ぉぇっ”付け忘れ

この石版には下記のような碑文が刻字されています。

碑文

段葛(だんかずら)一(いつ)に置石(おきいし)と称す 寿永(じゅえい)元年(1182)三月 頼朝
其の夫人政子の平産(安産)祈祷の為め 鶴丘(八幡宮)社頭より
由比海濱大鳥居辺に亘(わた)りて之を築く 其の土
石は北条時政(ときまさ)を始め源氏家の諸将の 是が運搬
に従へる所のものなり 明治の初年に至り二
の鳥居以南其の形失へり

大正七年三月建立 鎌倉町青年會

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