「腰越」とは❓
七里ガ浜海岸の西側に広がる地域・地名のこと。
⬆️江ノ電・腰越駅
七里ガ浜海岸(江ノ電車内より撮影)見事な湘南ブルー‼️
「腰越」の別名
かつての字は「腰越」ではなく、「子死越」「子死恋」と書き記したとのこと。
いつ頃から現在の腰越に定着したのかは判然としない。
「背負越場」とも呼ばれた
腰越の周辺は遠浅(とおあさ/沖の方まで水が浅い)の海岸地帯が広がっていたことから、干潮時には荷物を背負って渡ることができたとされ、別名で「背負越場」とも呼ばれたと云われる。
「腰越」の地名の由来
山の腰(中腹)を越えて移住して来たことに由来
「新編・相模国 風土記稿」によると、七里ガ浜以北には現在も「腰越山」がそびえるが、往時は現在よりも標高が高く、南側に低く肥沃な土地が広がっていたため、人々が当地に移住して来る際、山の腰(=中腹)を越えるようにして歩いて来たことから「腰越」と呼ばれるようになったと云われる。
「背負越場」と呼ばれたことに由来
上述、「背負越場」は「”背負い腰”で越えていく」の意味ともなることから、やがて転訛が生じて略称で「腰越」と呼ばれるようになったと云う説もある。
村人が腰まで海水に浸りながら移住したことに由来
1047年(永承2年)に天台宗の僧侶「皇慶(こうけい)」が著したと伝わる「江ノ島縁起」によると、現在の鎌倉市深沢のあたり(湘南モノレール深沢駅周辺)には湖があり、その湖には5つド頭を持つ五頭竜(ごずりゅう)が棲んでいたそうな。
この五頭竜は村里に現れては子供を、まるでワンカップ(日本酒)と抜群にマッチする”さきいか(ツマミ)”をパサパシとつまみ食ぃするかの如く、胃袋へ大量に流し込んだことから、村人たちは五頭竜の難から逃れるために移住することになった。パサパシ❓
移住する際、腰まで海水に浸かりながら新天地を目指して歩いたことから、「腰越」と呼ばれるようになったとも云われる。
ただ、当時は「腰越」とは書かず、無念の思いを込めて「子死越」「子死恋」の字を充てたと伝わる。
「子死越」の意味
子死越とは、言葉の意味合いが見えるように「我が子の死を我慢して乗り越える」の意味合いがあると思われる。
「子死恋」の意味
子死恋も順番を変えて言葉を解すと「死した子を恋しく思ぅ」などの意味になる。「恋」などは半ば当て字のように思われるが、ニュアンス的には子死越と比定対象の言葉であり、それこそまさにぅぃ!ワンカップ(日本酒)と抜群にマッチする”さきいか”の如くに子供をパサパシと食べられていた親の悲惨な心情を表現した名称だといえる。
【鎌倉の心霊スポット❓】「腰越」は処刑場だった⁉️
吾妻鏡の1181年(養和元年)閏2月27日条によると、頼朝卿から離叛した志田義広(しだよしひろ)および、その郎党の首を当地にて晒したと記される。これが当地の鏡における初見となる。
有名なエピソードとしては、兄頼朝に会いたい一心で京都から鎌倉まで来たが、兄の命令で当地に逗留(留め置かれた)した義経は自らの心情を書状に認め兄へ送ったと伝わる。(腰越状)
しクぁし❗️
義経はその後、兄頼朝と争う運びとなり、奥州平泉にて討伐されるとその首は鎌倉へ移送されたが、その首実検が行われたのも当地(腰越ノ浦)だった‥というエピソードがある。(吾妻鏡の文治五年6月13日条より)
以後も、吾妻鏡はじめ「鎌倉大日記」などにも度々、当地の名前が登場するが、いずれも罪人を処刑した場所として登場したことから、当地が鎌倉都との境界に設けられた処刑場だった様子が窺える。
怪奇現象が起こった場所❓
1227年(安貞元年)閏3月20日条には、「霽 腰越海辺潮赤而如血」と記されており、現代語訳すると「この日は晴天。だが、腰越の海がまるで血のような赤色に染まった」となる。
上記、処刑場に連想される当地の有り様を形容した一文だとみれる。
腰越の地形の特徴
腰越の地形の弱点として、冬から春にかけて海上から吹き来る西風が強く、その上、水利(消化に用いる水の調達具合)が悪いがため、ひとたび火災が起こると鎮火に難儀し、大火事へ発展するケースが珍しくなかった。
「腰越」の歴史
腰越駅が置かれた
中世、この腰越は京師(京の都)と鎌倉とを結ぶ街道に設置されたる「宿駅」だった。
宿駅とは「宿場(しゅくば)」のことであり、旅人や馬を休ませるための宿街を中心とした村落が形成されていたことから、「宿駅」や「宿場」などと呼ばれた。
現在で「駅」と言えば真っ先に電車の駅を想像しちまぅが、そぅじゃねぇベヨ。カっキャキャ
⬆️江ノ電「腰越駅」(※本文中の”腰越駅”とは”宿駅(宿場)”の腰越駅を指す。)
「宿駅」は平安期に律令制の崩壊が進むと衰微したが、鎌倉時代になって京師から鎌倉を代表例とした人の往来が盛んになってくるとその街道上に置かれるようになった。
平安末期になると「駅」と「宿」の意味合いが同義とされ、駅には「駅長」という宿長者までもが出没した。
数ある街道の中でも、東海道はもっとも人の往来が盛んだったとされ、最盛期には50〜60もの宿が街道上に連なった宿駅(宿場)を形成していたと伝わる。
1223年(貞応2年/鎌倉時代)に編纂された「海道記(かいどうき)」にも、「腰越という平山の間を過ぎれば稲村と云ふところあり」‥などと記されるように、腰越は鎌倉以西の境界線にあたり、腰越で足を休めて鎌倉の険しい切通しを越えたことが想像につく。うきゃ
義経が当初、逗留したのも腰越駅
義経は兄・頼朝との確執を解消すべく京師から鎌倉へ下向したが、頼朝卿より鎌倉への立ち入りを禁じられたため、是非も無く、この腰越駅に逗留したとされる。
しかしながら、吾妻鏡では現在の満福寺こそが、義経とその一行(弁慶など)が逗留した場所だと伝えるが‥、まぁ何にせよ義経とその一行はこの腰越に滞在した事実に遜色なく、兄頼朝へ自らの胸中を書状につづって送ったと伝わる。
後世にてこの書状は「腰越状」などと称され、数ある旧記に集録されると有名なエピソードとして語り継がれるようになっていく。
江戸時代の腰越
江戸時代の腰越村と津村、片瀬村とは村境が入り組んでいて、村境をめぐっては村人同士で様々なイザコザが多かったと伝わる。
明治時代の腰越
明治中頃の記録では350戸の家屋の存在が確認され、その大半が漁師で中には半農もいたと云われる。(漁師を本業としながら、余った時間で農作業する者)
明治22年の町村制施行以降は、片瀬村川口村、津村の4ヶ村と、腰越村は1つとして数えられていたようだが、施行後、腰越村と津村が合併し、腰越津村が誕生する。
大正時代の腰越
大正三年に起こった大津波の際、江ノ島大橋が流され、腰越の漁師48人が死亡した事件があり、この時の漁師たちの菩提を弔うために大正4年から灯籠流しが始められた。
大正11年に大火事があり、50戸が焼亡す。大正12年にはトドメの1撃で震災にて火災と津波に罹災。この挟撃によってアプアプアプ….うぅっ苦….。アヘっ …なにがしたいねん
昭和時代の腰越
昭和5年に腰越津村から→「腰越町」と改称され、昭和14年になってようやく鎌倉町と合併し、現在の鎌倉市腰越に着地した。
昭和12年にも大火事が発生し、多くの家屋が焼けた。