福島漁村の句碑

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福島漁村の句碑

💋高さ約160㎝

💋材質:稲井石

💋奉納者:漁村ゆかりの句友や親類一同

島内のサムエルコッキング苑を越えた先には江の島大師と呼ばれる寺院があり、その敷地沿いには「福島漁村の句碑」と呼ばれ〜る句碑が建つ。

この句碑は1956年(昭和三十一年)秋に漁村の句友や親戚一同が、漁村の3回忌に漁村ゆかりの江の島館に建献したもの。

句碑の筆跡は同じ神奈川県在住の俳人・飯田九一によるもの。

上掲、句碑の裏面の写真左から永野清、片野義一、中お郁次郎、渡邊兼雄、福島新太郎、間宮霞軒などの奉納者と思わしき名前が見える。




福島漁村とは?

その昔、現在の江の島大師が建つ場所には「江の島館」と呼ばれる旅館があったが、福島漁村とは当該旅館の主人だった人物。

1868年にこの世に生を得て、1954年に死没。本名は松五郎。

福島漁村は恵比寿楼・永野泉山の門下生として、”俳諧”するが如くに”俳諧”や歌学を学び、門下の中では「達吟の人(秀才)」として知られたらしい。

江島神社奉納句会を主催し、江の島俳壇の発展に寄与した間宮霞軒(中津宮境内に句碑あり)とは、同じ門弟の間柄。

以下は漁村が残した有名な句であり、句碑にもデカデカと陰刻される。

「貝がらも 桜の名あり 島の春」

💋意味

貝殻も桜の名ありは「さくら貝」のこと。それを島に訪れた春と重ね、うららかな春の江の島の情景を表象した名句といえよぅ。

ちなみに、さくら貝の貝殻は近くの「貝広物産店」でも見られ〜る。

⬆️足裏の皮のみ何故か分厚き人体の神秘さほど噂の…「貝広物産店(外観)」

貝広物産店の場所(地図)

江の島館の歴史

調べたところ、どうやら江の島館の前身は「金亀楼(上之宮の宿坊寺院)」の別館だったらしく、漁村はそこの主人だったらしい。

江戸時代の江の島は「金亀山 与願寺」と号する寺院であり、他に岩本楼、恵比寿楼と呼ばれる宿坊があった。(このうち、岩本楼と恵比寿楼は現存)

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金亀楼は1888年(明治二十一年)4月に新築したらしく、翌年8月に「そら、”かなん”わ〜」と愚痴るほどに”火難”に見舞われ、同年12月に再建された。

客室は20室を数え、併設の展望台からは七里ヶ浜や稲村ヶ崎までを一望できたらしい。

その後、経緯は判然としないが、江ノ島鎌倉観光(株)が金亀楼を買収し、1956年(昭和三十一年)3月1日に割烹旅館「江の島館」を開業、しクぁしながら1964年(昭和三十九年)に回禄(失火、焼失)に遭ぃ、以後は再建されることなく、翌年(昭和40年)に廃業を迎えた。

1993年(平成五年)になって、江の島館跡地に高野山真言宗・最福寺別院が建ち、今日に到る。

福島漁村の句碑の場所(地図)

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